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十一章 蓖麻子《ひまし》
1、早朝に【1】
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夏至が近い。
新年から数えて十番目の節季である夏至の前後は「過夏麦と呼ばれる夏祭りも行われる。
ちょうど麦の収穫の時期と重なるので、豊穣に感謝する祭りだ。
冬場は夜が長いので、朝までに消えてしまう灯籠もあるが、夏至の頃は日の入りが遅く日の出が早いので、ほぼすべての灯籠に火が残っている。
翠鈴は棒を掲げて、吊り灯籠の明かりを消していく。
「ねむ……っ」
回廊には他に人がいないので、遠慮せずあくびをする。
東の空は、紅梅色や朱鷺色が鮮やかだ。西の空にはまだ夜の気配を宿した藍や群青色が濃い。日が昇る前なので、六月でも少し肌寒く感じる。
長い回廊は、翠鈴が進む先にはまだ火が灯っている。進んだ後は火が消えて、青い静寂に沈んでいる。
「佩玉のことを、光柳さまにお話ししないとな」
ぽつりと翠鈴は呟いた。
いずれ翠鈴は後宮を出る。その時に陛下から下賜された佩玉があれば、光柳もいらぬ苦労が減る。減るのだが……。
「光柳さまは、自立なさりたいからなぁ」
たとえば屋敷の権利書をやろう、と陛下がおっしゃるなら。さすがにそれは翠鈴も断る。
斗牛の佩玉は、これみよがしに掲げるものではない。翠鈴も光柳も高官ではないのだから。
いざという時のお守りのようなものだ。
翠鈴は衿の辺りにそっと手を添える。佩玉とはいえ、後宮で翠鈴がそれを腰から下げるわけにはいかない。かといって宿舎に置きっぱなしも怖い。
なので、ずっと懐に佩玉を入れて持ち歩いているのだ。
貴重品と共に歩き、貴重品と共に過ごし、貴重品と共に寝る。
常に神経を尖らせているので、ここのところ眠りも浅い。
「光柳さまに、どう切り出せばいいんだろ。自尊心を傷つけず、陛下や皇后陛下のご厚意を無碍にすることもなく」
うーん、と翠鈴は唸った。
バサッバサッと風が吹く。大きな白い影が、庭を横切った。白鷺だ。
庭の木の枝に、白鷺がすっと止まっている。とても端正で、悩みなど超越したような姿だ。
翠鈴は再びあくびをした。まどろみばかりで、深い睡眠がとれていない。
「どうした。寝不足か?」
突然、背後から声をかけられて。翠鈴は「ひっ」と引きつった声を出した。
いつの間に現れたのだろう。ふり返ると、翠鈴の背後に光柳が立っていた。気配も感じないなんて、よほどぼうっとしていたようだ。
「お、おはようございます。早いんですね」
「雲嵐を置いてきた。早朝に仕事を増やしては申し訳ないからな」
いや、主が夜明けと共にふらふら出歩く方が、雲嵐さまも心配なのでは? それは思いやりではないと思います、と突っ込みたいのはやまやまだが。
いつものことなので、翠鈴は指摘しない。
きっと目が覚めた雲嵐は、空っぽの寝台を眺めて「やられた」とため息をこぼすことだろう。
「何か御用でいらしたんですよね」
「ふむ」と、光柳はあごに手を添えて首をかしげる。指の曲げ具合やその位置だけで、上品さが二割増しだ。
「なに、夢の中だけでは飽き足らず、現実の君に会いに来ただけだ」
光柳が指を動かした。いけない、色気まで増した。
まだ辺りには朝霧が残っているので、庭の緑が大気に滲んでいる。それすらも光柳の上品さを彩る背景となる。
「そうだな。強いて用事というなら、生まれたての朝の中を進む君が、未央宮に灯籠の明かりではなく陽の光を誘う。君の前には夜の残滓があり、君の後には朝が来る。まるで神聖な儀式のようではないか? その凛々しいさまをこの目に留めたいんだ」
うっ、と翠鈴は言葉を詰まらせた。
(そうだった。この人、詩人だった)
しかも始末の悪いことに。光柳はただ美辞麗句を並べているだけではなく、本当に心の底から翠鈴を麗しいと思っているのだ。
出会った当初は「射殺しそうな目だ」とか散々なことを言われたのに。
光柳の前にいると、翠鈴は背中がもぞもぞしてしょうがない。
新年から数えて十番目の節季である夏至の前後は「過夏麦と呼ばれる夏祭りも行われる。
ちょうど麦の収穫の時期と重なるので、豊穣に感謝する祭りだ。
冬場は夜が長いので、朝までに消えてしまう灯籠もあるが、夏至の頃は日の入りが遅く日の出が早いので、ほぼすべての灯籠に火が残っている。
翠鈴は棒を掲げて、吊り灯籠の明かりを消していく。
「ねむ……っ」
回廊には他に人がいないので、遠慮せずあくびをする。
東の空は、紅梅色や朱鷺色が鮮やかだ。西の空にはまだ夜の気配を宿した藍や群青色が濃い。日が昇る前なので、六月でも少し肌寒く感じる。
長い回廊は、翠鈴が進む先にはまだ火が灯っている。進んだ後は火が消えて、青い静寂に沈んでいる。
「佩玉のことを、光柳さまにお話ししないとな」
ぽつりと翠鈴は呟いた。
いずれ翠鈴は後宮を出る。その時に陛下から下賜された佩玉があれば、光柳もいらぬ苦労が減る。減るのだが……。
「光柳さまは、自立なさりたいからなぁ」
たとえば屋敷の権利書をやろう、と陛下がおっしゃるなら。さすがにそれは翠鈴も断る。
斗牛の佩玉は、これみよがしに掲げるものではない。翠鈴も光柳も高官ではないのだから。
いざという時のお守りのようなものだ。
翠鈴は衿の辺りにそっと手を添える。佩玉とはいえ、後宮で翠鈴がそれを腰から下げるわけにはいかない。かといって宿舎に置きっぱなしも怖い。
なので、ずっと懐に佩玉を入れて持ち歩いているのだ。
貴重品と共に歩き、貴重品と共に過ごし、貴重品と共に寝る。
常に神経を尖らせているので、ここのところ眠りも浅い。
「光柳さまに、どう切り出せばいいんだろ。自尊心を傷つけず、陛下や皇后陛下のご厚意を無碍にすることもなく」
うーん、と翠鈴は唸った。
バサッバサッと風が吹く。大きな白い影が、庭を横切った。白鷺だ。
庭の木の枝に、白鷺がすっと止まっている。とても端正で、悩みなど超越したような姿だ。
翠鈴は再びあくびをした。まどろみばかりで、深い睡眠がとれていない。
「どうした。寝不足か?」
突然、背後から声をかけられて。翠鈴は「ひっ」と引きつった声を出した。
いつの間に現れたのだろう。ふり返ると、翠鈴の背後に光柳が立っていた。気配も感じないなんて、よほどぼうっとしていたようだ。
「お、おはようございます。早いんですね」
「雲嵐を置いてきた。早朝に仕事を増やしては申し訳ないからな」
いや、主が夜明けと共にふらふら出歩く方が、雲嵐さまも心配なのでは? それは思いやりではないと思います、と突っ込みたいのはやまやまだが。
いつものことなので、翠鈴は指摘しない。
きっと目が覚めた雲嵐は、空っぽの寝台を眺めて「やられた」とため息をこぼすことだろう。
「何か御用でいらしたんですよね」
「ふむ」と、光柳はあごに手を添えて首をかしげる。指の曲げ具合やその位置だけで、上品さが二割増しだ。
「なに、夢の中だけでは飽き足らず、現実の君に会いに来ただけだ」
光柳が指を動かした。いけない、色気まで増した。
まだ辺りには朝霧が残っているので、庭の緑が大気に滲んでいる。それすらも光柳の上品さを彩る背景となる。
「そうだな。強いて用事というなら、生まれたての朝の中を進む君が、未央宮に灯籠の明かりではなく陽の光を誘う。君の前には夜の残滓があり、君の後には朝が来る。まるで神聖な儀式のようではないか? その凛々しいさまをこの目に留めたいんだ」
うっ、と翠鈴は言葉を詰まらせた。
(そうだった。この人、詩人だった)
しかも始末の悪いことに。光柳はただ美辞麗句を並べているだけではなく、本当に心の底から翠鈴を麗しいと思っているのだ。
出会った当初は「射殺しそうな目だ」とか散々なことを言われたのに。
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