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番外編
第40話 番外編 自分の王様は自分(1)
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インターフォンを押したが反応がない。
佐伯は嫌な予感がした。
先ほどエントランスで会ったコンシェルジュの雨宮によると、優也が外出した様子はない。
部屋にいるはずなのに、出てこない。
佐伯は何度かインターフォンを押し呼びかけをしたあと、小さく舌打ちをし、内ポケットの財布から桐谷のマンションのカードキーを取り出した。
「優也さん!優也さんっ!」
中に入って大声で呼びかけるが、応えはなかった。
やはり一緒に書類を探せばよかった。
佐伯は悔やむ。
桐谷の息子の龍治から頼まれた書類は桐谷のマンションにあった。
それは優也にも関係することだったので、佐伯が優也に電話をすると「佐伯さんも忙しいでしょう。今日、俺休みだし探しておくね」と優也は優しく言った。
しかし、桐谷がいなくなって3年が経とうとする今でも、優也は桐谷の書斎には近づかないのを佐伯は知っていた。
特に桐谷の匂いが充満しているあの部屋に入るのは、主がいないことを思い知るには十分すぎた。
走るように桐谷の書斎だった部屋に向かう。
「優也さんっ!」
そこには部屋の主の優也が倒れていた。
動揺したが、出血や嘔吐がないか確認する。
頭を揺らさないように肩を叩き、名前を呼ぶ。
すぐに優也は気がついた。
「佐伯さん」
「頭痛はありませんか」
必死の形相の佐伯に優也は弱々しく微笑んだ。
「大丈夫、だと思います」
「吐き気は?」
「ありません」
ずっと床にいると身体が冷えてしまう。
佐伯は優也を横抱きにしてリビングのソファに運び、横にならせ、自分の上着をかけてやった。
優也が落ち着いているのを確認して龍治に連絡を入れる。
会話が終わる頃、優也が起き上がろうとしたので佐伯が止めた。
「すみません。かえってお手数をおかけしてしまいました」
「それはいいんです。
それより、どうされたんですか。
体調が悪かったんですか」
「体調は悪くないのですが…」
優也が言い淀む。
佐伯の眼光がますます厳しくなる。
「仁にやられてしまいました」
「は?」
困ったように目尻を下げる優也に、佐伯は意味がわからなかったが怒鳴る気にもなれなかった。
「お水、飲みますか」
「はい」
佐伯はキッチンに行き、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、グラスに注いで持ってきた。
そして身体を起こそうとする優也を手伝い、グラスを渡そうとしてつぶやいた。
「なに、持ってるんですか」
優也の右手はきつくきつく握られていた。
そこから見える淡い水色の光沢のある布。
困ったままの優也は空いている左手を差し出したが、かたかたと震えてグラスが持てる状態ではなかった。
佐伯は優也の隣に座りグラスを支え、優しく口に水を含ませた。
こくり、と優也が飲み込んだ。
そのあとはこくこくと喉を動かし、飲んでいく。
唇をグラスから外したので、佐伯はソファの前のローテーブルに置いた。
優也が小さく安堵の溜息をついた。
それから、恥ずかしそうに右手を佐伯に見せた。
「あの、指が開かなくて…」
「え?」
きつくきつく握り込んだ優也の指は白くなっていた。
「マッサージしましょうか」
「すみません。お願いします」
佐伯の温かい手が優也の手を包んだ。
最初はほとんど力を込めずなでるように。
それから次第に程よい力を入れて。
優也の白い指に血の気が少し戻ってきた。
どこか優雅な仕草の優也の手はいつも誰かのために動いていた。
ブラック・バニーズで客を席に案内するとき。
飲み物を出すとき。
バニーズの耳を整えてやるとき。
万年筆を持って字を書くとき。
桐谷の世話をするときには、いつも愛情を込めて動いていた。
甘えるような、慈しむような、誘うような、駆け引きをするような。
そんな優也の手をこの8年、一番見ていたのは佐伯かもしれない。
佐伯は無言で優也の手を包み、指を動かす。
そっと花びらが開くように、優也の指が動き始めた。
佐伯は焦らず、優しいマッサージを続ける。
血管が透けて見えそうな白い甲。
細めの長い指。
爪は細長く、きっちりと短く切られている。
客やバニーズを傷つけないようにと、爪やすりで整えているのも、佐伯は知っている。
ふわっと指が開いた。
中から出てきたのはくしゃくしゃになった淡い水色のシルク。
カンっ
そして甲高い金属音を立てて床に落ちたもの。
「あっ」
慌てて身を乗り出した優也がソファから落ちそうになるのを佐伯はがしりと受け止めた。
「危ないですよ」
佐伯は優也をソファにしっかり座らせると、しゃがんで音がしたほうを探す。
「はい」
広げた優也の手に落とされたもの。
鋭い光を放つプラチナの指輪。
「あ…りがと」
優也の声は掠れていた。
優也の横に座り直した佐伯が、くしゃくしゃのシルクについて尋ねた。
「ガーターベルトですよ」
「随分大きな女性のものですね」
「……多分、俺のだと思います」
「え」
ぽつぽつと優也が話し始める。
龍治に頼まれた書類を探しに、書斎に入った。
目的の書類はすぐに見つかったが、優也は書類が収められている棚のあるウォークインクローゼットに違和感を覚えた。
いけない、と思いながらも自分を止めることができなかった。
不自然に奥に置かれた、観音開きの白い華奢な木製の小さな戸棚。
ふらふらと優也は両方の扉の取っ手に手をかけ、左右に大きく開く。
中には小さなショッパーバッグ。
その色とロゴで、有名な女性ランジェリーメーカーのものだと一目でわかった。
桐谷が女性下着を購入していた?という疑惑に、優也は血の気が引き、震えながらその紙袋を取り出した。
そしてクローゼットから出るとおそるおそる中を開けてみた。
もし、本当に女性へのプレゼントだったら許さない。
という気持ちでいっぱいだった。
怒りすぎて、どんどん頭に血が回らなくなっている感覚があった。
白い丈夫な紙の箱には銀の箔押しでメーカーのロゴ。
ふたを開けると薄い紙が幾重にもなにかを大事そうにくるんでいる。
優也は努めて無表情になり、大きな牡丹の花びらをむしるように薄紙をはいでいった。
痛む心臓。
上がる心拍数。
頭がずきずきするほどの脈。
かきむしられるような不安。
中には一体なにが。
そうして現れたのは淡い水色のシルクのガーターベルトだった。
小さな勿忘草の刺繍もついている。
そしてそのベルトが守っていたのは、ロイヤルブルーのベルベットの小さな箱。
震える手でそれをぱかっと開ける。
そこには二つ並んだプラチナの指輪。
「佐伯さん、ガータートスってご存知ですか?」
「いえ」
「結婚式のとき、新郎が新婦のウェディングドレスの中に頭を突っ込んで、左足のガーターベルトを口で外してから、ブーケトスのように未婚男性に向けて投げるんです」
「はぁ」
「以前、そういう話を仁としたことがあって」
優也はなにかを思い出したのか、顔をそっと染めてとても艶めいた顔をしながらつぶやく。
「仁がそのガータートスがしたい、と冗談で言っていたんです」
はぁ、とため息。
「でも、まさか本気で」
「本気でしょう。
プラチナの指輪まで用意して」
「そうなんです。
あの人、自分は指輪をしないからって。
俺が、記念に指輪を買いたいってジュエリーショップに連れていって。
最後の数か月はしてくれたけど、でも」
ロイヤルブルーのベルベットの箱の内側にあったのは、その優也の好きなジュエリーショップのロゴだった。
佐伯が優也を見るとだくだくと涙を流していた。
涙で潤む目で摘まみ上げた指輪を見つめる。
「あ、なにか書いてあります」
佐伯がつぶやいたので、優也は指輪を渡した。
内側を見て、数字とJ&Tの文字を優也に伝えた。
優也は号泣した。
その数字は桐谷が半ば強引に進めた養子縁組の手続きが完了した日付であり、アルファベットは仁と自分の本名のイニシャルだったからである。
思わず、佐伯は優也を抱き込んだ。
優也は声を上げて泣いた。
初めて。
桐谷がいなくなって初めて、ここまで声をあげて泣く優也を見た。
3年分の涙を流すのかもしれない。
そう思いながら、佐伯は腕の中で震える優也をただただ抱きしめていた。
佐伯は嫌な予感がした。
先ほどエントランスで会ったコンシェルジュの雨宮によると、優也が外出した様子はない。
部屋にいるはずなのに、出てこない。
佐伯は何度かインターフォンを押し呼びかけをしたあと、小さく舌打ちをし、内ポケットの財布から桐谷のマンションのカードキーを取り出した。
「優也さん!優也さんっ!」
中に入って大声で呼びかけるが、応えはなかった。
やはり一緒に書類を探せばよかった。
佐伯は悔やむ。
桐谷の息子の龍治から頼まれた書類は桐谷のマンションにあった。
それは優也にも関係することだったので、佐伯が優也に電話をすると「佐伯さんも忙しいでしょう。今日、俺休みだし探しておくね」と優也は優しく言った。
しかし、桐谷がいなくなって3年が経とうとする今でも、優也は桐谷の書斎には近づかないのを佐伯は知っていた。
特に桐谷の匂いが充満しているあの部屋に入るのは、主がいないことを思い知るには十分すぎた。
走るように桐谷の書斎だった部屋に向かう。
「優也さんっ!」
そこには部屋の主の優也が倒れていた。
動揺したが、出血や嘔吐がないか確認する。
頭を揺らさないように肩を叩き、名前を呼ぶ。
すぐに優也は気がついた。
「佐伯さん」
「頭痛はありませんか」
必死の形相の佐伯に優也は弱々しく微笑んだ。
「大丈夫、だと思います」
「吐き気は?」
「ありません」
ずっと床にいると身体が冷えてしまう。
佐伯は優也を横抱きにしてリビングのソファに運び、横にならせ、自分の上着をかけてやった。
優也が落ち着いているのを確認して龍治に連絡を入れる。
会話が終わる頃、優也が起き上がろうとしたので佐伯が止めた。
「すみません。かえってお手数をおかけしてしまいました」
「それはいいんです。
それより、どうされたんですか。
体調が悪かったんですか」
「体調は悪くないのですが…」
優也が言い淀む。
佐伯の眼光がますます厳しくなる。
「仁にやられてしまいました」
「は?」
困ったように目尻を下げる優也に、佐伯は意味がわからなかったが怒鳴る気にもなれなかった。
「お水、飲みますか」
「はい」
佐伯はキッチンに行き、冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、グラスに注いで持ってきた。
そして身体を起こそうとする優也を手伝い、グラスを渡そうとしてつぶやいた。
「なに、持ってるんですか」
優也の右手はきつくきつく握られていた。
そこから見える淡い水色の光沢のある布。
困ったままの優也は空いている左手を差し出したが、かたかたと震えてグラスが持てる状態ではなかった。
佐伯は優也の隣に座りグラスを支え、優しく口に水を含ませた。
こくり、と優也が飲み込んだ。
そのあとはこくこくと喉を動かし、飲んでいく。
唇をグラスから外したので、佐伯はソファの前のローテーブルに置いた。
優也が小さく安堵の溜息をついた。
それから、恥ずかしそうに右手を佐伯に見せた。
「あの、指が開かなくて…」
「え?」
きつくきつく握り込んだ優也の指は白くなっていた。
「マッサージしましょうか」
「すみません。お願いします」
佐伯の温かい手が優也の手を包んだ。
最初はほとんど力を込めずなでるように。
それから次第に程よい力を入れて。
優也の白い指に血の気が少し戻ってきた。
どこか優雅な仕草の優也の手はいつも誰かのために動いていた。
ブラック・バニーズで客を席に案内するとき。
飲み物を出すとき。
バニーズの耳を整えてやるとき。
万年筆を持って字を書くとき。
桐谷の世話をするときには、いつも愛情を込めて動いていた。
甘えるような、慈しむような、誘うような、駆け引きをするような。
そんな優也の手をこの8年、一番見ていたのは佐伯かもしれない。
佐伯は無言で優也の手を包み、指を動かす。
そっと花びらが開くように、優也の指が動き始めた。
佐伯は焦らず、優しいマッサージを続ける。
血管が透けて見えそうな白い甲。
細めの長い指。
爪は細長く、きっちりと短く切られている。
客やバニーズを傷つけないようにと、爪やすりで整えているのも、佐伯は知っている。
ふわっと指が開いた。
中から出てきたのはくしゃくしゃになった淡い水色のシルク。
カンっ
そして甲高い金属音を立てて床に落ちたもの。
「あっ」
慌てて身を乗り出した優也がソファから落ちそうになるのを佐伯はがしりと受け止めた。
「危ないですよ」
佐伯は優也をソファにしっかり座らせると、しゃがんで音がしたほうを探す。
「はい」
広げた優也の手に落とされたもの。
鋭い光を放つプラチナの指輪。
「あ…りがと」
優也の声は掠れていた。
優也の横に座り直した佐伯が、くしゃくしゃのシルクについて尋ねた。
「ガーターベルトですよ」
「随分大きな女性のものですね」
「……多分、俺のだと思います」
「え」
ぽつぽつと優也が話し始める。
龍治に頼まれた書類を探しに、書斎に入った。
目的の書類はすぐに見つかったが、優也は書類が収められている棚のあるウォークインクローゼットに違和感を覚えた。
いけない、と思いながらも自分を止めることができなかった。
不自然に奥に置かれた、観音開きの白い華奢な木製の小さな戸棚。
ふらふらと優也は両方の扉の取っ手に手をかけ、左右に大きく開く。
中には小さなショッパーバッグ。
その色とロゴで、有名な女性ランジェリーメーカーのものだと一目でわかった。
桐谷が女性下着を購入していた?という疑惑に、優也は血の気が引き、震えながらその紙袋を取り出した。
そしてクローゼットから出るとおそるおそる中を開けてみた。
もし、本当に女性へのプレゼントだったら許さない。
という気持ちでいっぱいだった。
怒りすぎて、どんどん頭に血が回らなくなっている感覚があった。
白い丈夫な紙の箱には銀の箔押しでメーカーのロゴ。
ふたを開けると薄い紙が幾重にもなにかを大事そうにくるんでいる。
優也は努めて無表情になり、大きな牡丹の花びらをむしるように薄紙をはいでいった。
痛む心臓。
上がる心拍数。
頭がずきずきするほどの脈。
かきむしられるような不安。
中には一体なにが。
そうして現れたのは淡い水色のシルクのガーターベルトだった。
小さな勿忘草の刺繍もついている。
そしてそのベルトが守っていたのは、ロイヤルブルーのベルベットの小さな箱。
震える手でそれをぱかっと開ける。
そこには二つ並んだプラチナの指輪。
「佐伯さん、ガータートスってご存知ですか?」
「いえ」
「結婚式のとき、新郎が新婦のウェディングドレスの中に頭を突っ込んで、左足のガーターベルトを口で外してから、ブーケトスのように未婚男性に向けて投げるんです」
「はぁ」
「以前、そういう話を仁としたことがあって」
優也はなにかを思い出したのか、顔をそっと染めてとても艶めいた顔をしながらつぶやく。
「仁がそのガータートスがしたい、と冗談で言っていたんです」
はぁ、とため息。
「でも、まさか本気で」
「本気でしょう。
プラチナの指輪まで用意して」
「そうなんです。
あの人、自分は指輪をしないからって。
俺が、記念に指輪を買いたいってジュエリーショップに連れていって。
最後の数か月はしてくれたけど、でも」
ロイヤルブルーのベルベットの箱の内側にあったのは、その優也の好きなジュエリーショップのロゴだった。
佐伯が優也を見るとだくだくと涙を流していた。
涙で潤む目で摘まみ上げた指輪を見つめる。
「あ、なにか書いてあります」
佐伯がつぶやいたので、優也は指輪を渡した。
内側を見て、数字とJ&Tの文字を優也に伝えた。
優也は号泣した。
その数字は桐谷が半ば強引に進めた養子縁組の手続きが完了した日付であり、アルファベットは仁と自分の本名のイニシャルだったからである。
思わず、佐伯は優也を抱き込んだ。
優也は声を上げて泣いた。
初めて。
桐谷がいなくなって初めて、ここまで声をあげて泣く優也を見た。
3年分の涙を流すのかもしれない。
そう思いながら、佐伯は腕の中で震える優也をただただ抱きしめていた。
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