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しおりを挟む「本当に結婚してないの?」
ローズがリラと部屋を辞してから、ダンフォースが念を押すように聞いてきた。紅茶に口をつけていたアルバートは、一瞥もしないでゆっくりと香りを味わってから、カップを置いた。
「ああ」
「ローズをどうするつもり?」
「まだ菓子が一個残ってるぞ。残さず食べろ」
「誤魔化さないで」
凄むようなダンフォースの声。対するアルバートは、足を組んで肘掛けにもたれて余裕を崩さない。
「それより頼みがある」
「それより?彼女を差し置いて何を優先するものがあるの」
「ローズのことだ」
ダンフォースは片眉を上げた。一応は話を聞く姿勢になった彼に、アルバートは言った。
「一度、彼女をシュタイン医師に診せたい。こちらに呼んでくれないか」
「あの変人を?正気?」
「確かに変人だが、ゴア家に対抗できる毒の知識を持っているのは、奴しかいない」
「毒?解毒は済んでるんじゃ…」
ローズがどのような目に遭い、どのような過程を経て、この屋敷に留まっているかはダンフォースも承知していた。適切な治療が行われ、回復しつつある筈。筈なのだが、アルバートには、一抹の不安がどうしても拭えなかった。
「あの男、モーリスはただの駒だ。何故アイツが、毒の成分を知っていたのか気になる。それにローズ、いつまでも熱がぶり返す。杞憂だと思いたいが、念の為診てもらいたい」
「アルが言うなら、呼んでみる。ただ、あの変人がこんなところまで来てくれるかは分からないよ」
「最悪、王都へ出向く」
「──分かった。じゃあ今から帰るよ」
ダンフォースは立ち上がった。これには流石にアルバートも面食らって後を追う。
「待て。そこまで急いでない」
「アルが僕にお願い事なんて滅多に無いんだもの。母さまの伝書鳩は遅れて届いた。だから僕は門前払いを食らった。それでいこう」
「ダンフォース、せめて今日は泊まっていけ」
「──アルバート、僕は今でも、アルが王様だったらって思うよ」
その言葉は、致命的だった。アルバートの胸に深く刺さる傷だった。そのせいで、自分の兄は死んだのだから。
立ち尽くすアルバートに、ダンフォースは無情にも優しく微笑んで、そのまま部屋を出ていった。
一人残されて、ふと手元を見る。無意識に腰にあるであろう剣に手をかけようとしていた。何も佩いていないから手は空を切る。もう片方の手で腕を押さえた。もし剣を佩いていたら、自分で自分を刺していたに違いない。腕の震えはいつまでも止まらなかった。
急用とかで、ダンフォースは帰ってしまったらしい。急ぎなら仕方ないが、せめて見送りたかった。ローズは嘆息した。
「大丈夫でしょうか。こんな時間から出立なら到着は遅くなるのでは」
彼が王族に連なる者ならば、帰宅先は王都だ。ここがどこなのかローズにはさっぱり分からないが、それなりの距離があるのは確かだった。
「アイツは馬車の中でもへっちゃらで寝れる。無神経だからな。それに子どものほうがケロッとしてる。心配するだけ損だ」
「アルバート様がそうおっしゃるのなら、そう思います」
「嫌味な言い方だな」
「そういう訳では…」
ここはピアノがある小サロンだった。ダンフォースに披露しようと、ローズの手にはいくつか楽譜が用意されていた。
アルバートはローズの腰に手を当て、ピアノの椅子に座らせた。ローズの手から楽譜を奪うと、題名をチラリと確かめて、一つを譜面台に置いた。これを弾けということらしい。
ローズはおもむろに指を置いて、弾き始めた。力が無くて、余り強く音は出せなかったが、それなりの演奏にはなっていたと思う。
譜面をアルバートが捲る。それがあまりにも絶妙なタイミングだったので、ローズは密かに感心した。
──弾き終えて、手を膝の上に置く。するとアルバートが拍手をした。
「優しい音だ」
と、評した。単に力が無かっただけなのだが、ローズは嬉しいと思った。
「また機会はある。今度来たらダンと連弾したらいい。あの子は上手だから、きっと楽しめる」
するとアルバートは懐から小さな包を見せた。白の布に金のリボンで十字に留められていた。
「ダンが、ローズにと」
「私に?」
包みを受け取る。とても軽かった。アルバートも中身が気になるようで、この場で開けろという。ローズはリボンを引っ張って包みを開けた。
それは櫛だった。翡翠の。手のひらにも満たない大きさだが、これだけでも相当の価値のあるものだった。
「こんな貴重なもの」
「貰っておけ。使えばダンが喜ぶ」
ローズは大事に包み直した。以前も、翡翠の耳飾りを貰っていた。一目見れば質の良いものだと分かる。それがローズには心苦しかった。
「私、何も返せません。アルバート様にも。どうしてこんなに良くしてくださるのか…私が理由をお尋ねしても、貴方様はお答えにならない」
「答える気は無いな」アルバートはハッキリと言った。「ただ、穏やかに過ごしてほしい」
「どうして?」
「どうして?そうあるべきだからだ」
掴み所のない答えばかり。ローズはもう追及を止めようとして、ふと、以前交わしたやり取りを思い出した。
「──私が、聞きたくないと言ったからですか?」
モーリスのこと、今何をしているのかを、ローズは聞くのを拒否していた。アルバートは、あの時、全て終わっていると言った。ということは──
「モーリスは、死んでいるのですか?」
「彼は逮捕され、法の下で裁かれ、禁錮刑を受けている」
アルバートは早口で答えた。
「その者は偽証罪、誘拐罪、人身売買、他の罪状も含めて十の罪を犯した。セント島の監獄に送られた。二度と会うことは無い」
その島の名をローズは聞いたことがあった。本国の遥か遠く南の離島で、重罪人のみが送られる場所。
カラン、と妙な音がした。下を見ると、ダンフォースから貰った櫛を落としてしまっていた。アルバートが先に動いて拾い上げ、ローズの掌に乗せた。
「ローズ、お前は優しいから、あの男を許せと言うだろう」
「許してくださるのであれば…。でも、これは私の問題であって、アルバート様とダンフォース様が、私に良くしてくださる理由にはなりません」
アルバートは目を細めた。
「…ああ、そうだな」
それだけを言った。僅かなまつ毛の震えで、彼が嘘をついていると気づいた。モーリスの一件は、アルバートと関わりがあるのかも知れない。だが、聞いても、アルバートはそれを明かすつもりはないだろう。自分の立場も、彼らとの立ち位置も定まらない。分からないことだらけ。このまま言われるまま、穏やかに過ごしていいのだろうか。
目の前にいる人が、ぎこちなく髪を撫でた。髪が梳かれて、それだけを感じていられたら、どんなに良かったかと思った。
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