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昭和二十年

第55話・先生①

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 早朝、出社した女学生の誰もが目を丸くした。裁縫の笹口先生が事務所で乗務の準備をしていたのだ。
「先生、どうしたんですか?」
「車掌さんが足らんけぇ、今日はうちが乗務するんよ。もう、ドキドキするわ」
 不安と緊張で高揚している笹口先生と組むのは誰か。運転士を務める美春や千秋には、そこが気になって仕方ない。普段、女学校でしか顔を合わさず教え教わる関係が、電車に乗った途端に逆転するのだ。身が引き締まり、楽しみでもある。

「どなたが休まれたんですか?」
「挺身隊の女の子じゃ。建物疎開に加わりたい、言うて辞めたらしいんよ」
「学童だけじゃのうて、建物まで地方に引っ越すんかね?」
「そうじゃないわ、森島さん。家を潰して防火帯を作るんよ。引っ越すのは、住んどった人のほうじゃ」
 みんなが揃って笑うので、美春は照れ隠しに舌を出して小さく縮こまっていた。すると、鮫皮のようなひそひそ話が少女たちの耳に届いた。
「肥やしも機械油も臭いから嫌じゃ言うて車掌になったんに」

 笹口先生は不穏な空気を読み取って、女学生を遠回しになだめるために意欲を見せた。
「先生も電鉄の社員じゃけぇ、会社が大変なときには何でもやらなぁ女学校は守れんわ」
 夏子は、いつかの赤井先生を思い出した。

『そのうち僕も車掌をやるかも知れないな。これでも一応、電鉄の社員だからね。そのときは安田さんに教えてもらうよ』

 車掌の仕事を教える日を夢想して、夏子は熱くなる頬をうつむいて隠した。赤井先生が出征してから、まだ一年。兵役は二年だから、この戦争が長引けば入れ替わりになってしまう。
 卒業したあと、うちはどないしたらええんや。夢だった車掌になれた、その夢は卒業したあとも続けられるんか。電鉄は、うちをそのまま車掌として雇ってくれるんかな。

 女学生としての不安が美春に過り、縋るように笹口先生へ歩み寄った。
「ほんじゃあ、先生の授業が出来んようになってしまいます。うちが休みの日も乗務しますけぇ、授業に穴を開けんでください」
「ありがとうね。もうじき三期生が入学するし、兵役を終えて帰ってくる車掌さんもおるけぇ、今しばらくの辛抱じゃ」
 昇る朝日を浴びたように、血潮が美春の指先にまで駆け巡った。赤毛がふわりと立ち上がり、見開いた目が輝きを放つ。
「そうじゃ……師匠がもうじき帰ってくるわ」

 一期生が色めき立った。弟子の独立乗務を目にすることなく、師匠は戦地へ赴いた。ようやく、立派に乗務している姿を見せられるのだ。宇品港から乗った電車の担当が弟子の私であったなら、師匠はどれだけ嬉しいだろう。
 中には、怖い師匠が帰ってくるのかと青ざめている女学生もいた。それに気づいた笹口先生は、立派な乗務員になったわね、と下げた目尻で語りかけた。

 微笑ましく眺めていた監督さんが、掛けた時計にちらりと目をやり、女学校一同に声を掛けた。
「お喋りの続きは終わってからにしてくれんか! 森島君、もうじき時間じゃ! みんなも行路表を受け取ってくれ!」
 わたわたと点呼台に向かい、受け取った行路表に視線を落とし、美春は血相を変えてバタバタと車庫に電車を取りに向かった。

 指定の電車を指差確認喚呼して、集電ポールを架線に嵌めて乗車して、スイッチをひとつひとつ投入していく。運転台から進路の開通を確かめると、夏子が分岐器ポイントを切り替えて美春の電車に乗車した。
「ありゃ、今日も夏子ちゃんなんね? よう組むねぇ、宜しくね」
 夏子は気不味そうに苦笑いをして頬を掻いた。美春に気づかれてしまっては、お目付け役は卒業だ。乗務が終わったら、冬先生にこっそりと申し出なければと考えた。

 実際、美春の運転には何の問題もなかった。根っからの努力家で集中力も高く、反応も素早い。障壁は小柄な体躯だけで、それも美春自身が身体に合わせた作業を編み出した。
 我慢を強いられている間に研究工夫した成果とはいえ、もっと早く運転士になってもよかった、そう思えるほどだった。

 乗務終盤、向宇品むこううじな停留所での折り返し。省線の宇品駅から汽笛が響き、兵隊の波が安堵を浮かべて押し寄せてきた。運転台を替える美春とポールを回す夏子は、すれ違いつつ言葉を交わす。
「兵隊さんが帰ってきたんじゃ! 師匠はおるかねぇ!?」
「乗ってきたら、ええなぁ。それより美春ちゃんは、小川さんを待っとるんと違うん?」
「はぁ!? あんなん、上官にシバかれて顔の形が変わっとるわい! おっても気づかんわ!」
 真っ赤になって怒る美春を、悪戯っぽく夏子が笑った。しかし、遊んでいる場合ではない。準備が整わないうちから、帰還兵が電車に乗り込もうとする。ふたりは発車の準備を慌てて済ませた。
「お帰りなさいませ、己斐こい行きです。本駅前行きは、このあとです」

 乗客を車内に導き、待機の列を整理したところへ、軽々しい男が重い足取りで現れた。暁部隊の井上だ、脚を失った帰還兵に肩を貸している。
「森島さんに、安田さんじゃないか! この人、まだ松葉杖に慣れておらんのじゃ、手伝ってくれんかのう」
 やつれて窪んだ眼窩を向けられて美春と夏子は息を呑み、凍てつくほどに血の気が引いた。美春は躊躇していたが、夏子は彼の名前を呼ばずにはいられなかった。
「……赤井……先生……」
 疲弊しきった赤井先生には、彼女の名前を呼ぶ体力はどこにも残っていなかった。

  赤井先生は、相生橋で降りていった。夏子は不自由な身体を支えつつ耳元に顔を寄せ、赤井先生に話し掛けた。
「ご自宅は近いんですか?」
「出征で引き払った……今日は……宿に泊まる」
 荒い吐息のわずかな隙間に夏子への返事を差し込んでいた。病床にいて体力が落ちたのか、傷痕が癒えていないのか──。

「赤井先生、女学校に戻ってきてください」
「僕に……戻れるかな。この身体で……」
 心配する夏子に霞んだ瞳を向けた赤井先生は、力なく笑いかけた。その微笑みは、鉤爪だった。夏子の胸を容赦なく引き裂いてくる。
「階段も教壇も……うちが先生を支えます」
 赤井先生を見送れるのは、停留所まで。夏子が名残惜しそうに手を離すと、赤井先生は松葉杖で地面を突いて、残った脚を棒にして前へと進む。
 自分の脚が、自分のものでないように。
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