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第一章 ずっとずっと好きだったけれどもういけない
決壊しかけたことがある1
しおりを挟むそれから数日は、何事もなく過ぎた。
ようやく、町に吹く風が、ほんのりと秋らしい涼しさを垣間見せるようにもなった。
しかし、そんなすがすがしい日に、海は担任の小野古流から放課後に呼び出しを受けた。
心当たりはある。約一個、ありすぎるほどある。成績もいいし素行にも問題ないはず(おそらく)の自分が教師に呼び出されるなど、よかに何も思いつかない。
職員室に入ると、古流が手を挙げて、こっちこっちと呼んできた。
珍しい名前だが、古流は二十代半ばの女性で、明るめのブラウンの髪を背中まで伸ばしている。髪質が柔らかく落ち着いた光沢があって、女子生徒からは「古流ちゃんみたいな髪の毛になりたい」とよく羨まれていた。
古流は口調や表情が落ち着いていて、あまり性別を感じさせないタイプだった。体躯はすらりとしていて、杏子よりも三四センチ背が高い。それでも生徒からちゃん呼ばわりされてしまうのは、年齢が生徒と近い教師の宿命なのかもしれない。海は好きではなかったが。
とはいえ、持ち前のクールさから古流は独特の立ち位置を確保している様子で、杏子が「バレー部として、せめて古流ちゃんくらいの身長とポーカーフェイスが欲しい」と言っていたのを、海は聞いたことがある。
「……なんでしょう、先生」
「そうかしこまらなくていい。ちょっと心配しているだけだよ」
確かに、海がやっているあんなことやこんなことが知られたのなら、こんな職員室の一角ではなく、生徒指導室あたりに呼ばれそうなものではある。
「青四季くん、あまり部活に出ていないだろう。少々、それを不満に思う声が出ていてね。もちろん部活は強制参加じゃないけど、自分が都合のいい時にだけふらふら出てくると、感情的にあまり面白くないというのはあるんだ。なにか事情あってのことなら、一度みんなに説明してもいいと思うけれど」
古流の言っていることは、海にも分かる。
もし自分が一生懸命に部活に打ち込んでいる立場ならば、海のような部活の出方は許せないだろう。
「そうですよね……おれ、できれば華道部にはいたいんですけど、それで迷惑なら……」
「そこまで飛躍しなくてもいい。でも、もし、華道部に感じている魅力を言葉にできるなら、聞きたいな」
古流が微笑んで、両手の指を机上でゆるく組んだ。
「まず、あの和室が好きですね。教室みたいに広くなくて、落ち着くし……気心知れた人たち数人で集まる広さ、って感じがします」
「ああ、それは分かる気がするよ。なぜか落ち着くよね」
古流が指をほどいた。
ほかの教師がカジュアルな格好も取り入れているのに対して、古流は、年間通してかっちりしたスーツだった。
それもあって、指や腕を組む動作は避けていると、本人がどこかでぽろりと言っていたらしい。生徒を威圧してはいけないからと。
「あとは単純に、みんなが生ける花が好きです。きれいだと思います」
「おお、いいじゃないか。あ、でもそう思うなら、自分でもやってみたくなったりはしないのか?」
もっともだ、と海は思った。
しかし、それができない。
「……んん……おれが触ると、なんていうのか、花が汚れるような気がして……」
この感覚は、先生にも分からないだろう。
理解してくれるとしたら、似た経験をした杏子くらいか。こんなもの理解してくれないほうがいいけれど、と海は胸中でつぶやく。
「ふうん、そう思うのか。そんなことは全然ないけれど……」
「後戻りできなくなるというか、おれが触ったら、もう取れない汚れがつくような感じなんです」
これが人間相手なら、そうは思わない。
海が奉仕した相手は、海自身などよりもよほど生き生きとして、快活に生きていくように思える。
しかし、すでに茎で切り離されて、遠からずしおれるだけの花はまた違った。
「それは、切り花だからということ?」
「一つには、あるかもしれません。植木とかなら、時間が経って新陳代謝することを考えれば、あまり罪悪感なく触れますので」
難しいな、と古流が苦笑する。
「罪悪感、か……。確かに、切り花は、人間の手で勝手に切られているからな。私としては、人間と花がつき合う一つの形だと思うが……」
海は慌てて両手を横に振った。
「切り花の批判とか、そ、そんなつもりじゃありませんよ! ただ、おれの感覚の話なんです。そういうわけで、いつの間にか見る専門みたいにったところはありますね……」
「そのあたりを、部員に説明すれば、問題なさそうな気はするな。いずれ機会を設けよう。今日は呼び出して悪かったね。……少し、元気がなさそうにも見えたから」
ひた、と海は右手を右頬に当てる。
「そうですか? 一つ、夏休み前に個人的な厄介ごと――(それまでやっていた『仕事』)――を清算できたので、自分的には肩の荷が下りた気がしているんですけど……。あ、でも」
「うん、なんだ?」
海は、頭をかきながら、小さな声で言った。
「でも、もしかしたらそうですね、元気がないのは……最近失恋したので、そのせいかもしれません」
驚いた古流が軽く目を見開くのが見えて、照れくささのあまり、海はその場を後にした。
・
古流の用事が、早めに終わったのは助かった。
今日は、古流と同じく教師である、陽菜から予約が入っている。
それにしても、自分は、思った以上になるみへの失恋が尾を引いているのだろうか。それは海にとっては意外だった。
今さっき、思わずぽろりと口にしてしまったのが、なによりの証拠かもしれない。
態度に出るようじゃ重症だけど、仕方ないよな、初恋なんだしさ、とひとりごちる。
陽菜との待ち合わせの時間までには、まだ余裕があった。ある程度学校から人が減った時間にならないとリスクが上がる。
特に行きたいところもないので、海はとりあえず教室へ向かった。
引き戸を開けると、五人ほどの女子生徒が残っていた。一塊になっておしゃべりしていたらしい。
心なしか、彼女たちは一度海を見て、それから気まずそうに視線をそらした気がする。
気にはなったが、まあいいか、と自分の席に向かう。話す必要があることなら、向こうから話してくれるだろう。
すると、女子の一人が、そろそろと海に近づいてきた。話す必要があるらしい。
「……なにか?」
「あ、青四季くん。ちょっといい? ちょっと前のことなんだけど」
ちょっとが多いな、と思いながら海は適当な微笑みを浮かべる。
「ちょっとって?」
「あ、うん、一学期とか、その前くらい」
そう聞いただけで、嫌な予感がした。それが当たる予感もした。
「ん。そのくらいの時に、なに?」
「その、新宿で、青四季くんを見たって、いう子がいて。夜、遅い時間に」
「へえ。誰が見たの? その中にいる?」
そう言って、海は女子たちをざっと見回した。
五人の名前は、時田、横尾、坂下、大野、近づいてきたのが森山。
その誰にも、あまり夜の繁華街をうろついてるイメージはないのだが。
森山がかぶりを振る。
「ううん、私たちじゃなくて、私と坂下さんが行ってる塾の子。あの、青四季くんかっこいいから、ほかの学校の子に写真を見せたりしてたのね。そしたら、一人の子が、この人見覚えがあるって、……夜、歌舞伎町で、かなり年上の女の人と、その、……ホテルに。かっこいいから覚えてるって、写真見たらいきなり言ってきたの」
勝手に人の写真でなにをしているんだ、とは思ったが、それくらいならとがめられるようなことでもないのかもしれない。
でも、無責任な噂を立てられるのは感心しない。それが嘘であっても、事実であっても、同じくらいよくない。
自分が、女子たちから好意的な目を向けられているのは知っている。その主な理由が容姿だということも。うれしくないわけではない。でも、大してうれしいことでもない。
そして、こういうトラブルが招かれることは、はっきりとうとましかった。
この次には、あれがくるだろう。
「それでね、私たち……噂を、聞いたんだけど、……青四季くんが、学校で」
そう。これがくる。
へえ、学校で。おれが。なにをしているって?
そう追求すれば、後戻りはできなくなる。
ばれてはいけない。
陽菜や杏子にも迷惑がかかることになる。
だから感情的になるのはまずい。
重々承知だった。
しかし、秘密が露見することへの恐怖と同じくらいに、海の中で、刺激的な噂で人を追い詰めにくる人間の無責任さへの怒りも強く込み上げた。
自業自得だ、と言われればその通り。でも、嫌いなものは嫌いだ。
恐怖と怒り、片方だけならどうにでも抑えられただろう。しかし、異なる二つの感情の蜂起を抑えられるだけの精神力が、この時の海にはなかった。
海は今まで、自暴自棄になったことはほとんどない。自分でも、同世代の中でも落ち着いた性格だと思っていた。
だから、やけを起こすのはこれが初めてではないか。これも、失恋による傷心のせいなのか。自分が持つすべての力が、片手落ちの、不完全な、低劣なものになっている感覚。
気づかない間に、こんなことになるものなのか。手に入るはずのないものが手に入らない、たったそれだけで。
もういい、か。
海は立ち上がろうとした。立って、吐露しようとした。
楽になりたかった。その時々では良かれと思いながらいつの間にか自分の器量を超えて抱えていたものを、一つ二つでも下ろしてしまいたい。
陽菜や杏子に関わるところだけは避けて、話してしまおう。
そう思った。
海が、腰を浮かせた瞬間。
「どうしたの?」
いつの間にか、教室の入り口に、海の見知った女生徒が立っていた。
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