【18禁】てとくち

クナリ

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第一章 ずっとずっと好きだったけれどもういけない

決壊しかけたことがある2

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「鮎草……さん」とつぶやいた海の手足から力が抜けて、立ち上がれなくなった。

 クラスの中ではずぬけて成績も性格もいい亜由歌は、友人が多く、だれからも一目置かれている。教室でも随一の人気者といってもよかった。
 五人の女子は、教師にいたずらを見つけられた子供のようにひるんだ。
 自分たちのしようとしたことがいかに正しくないか、彼女たちはもう分かっている。

 海もまた、なにも言えずに、身動きもできずにいた。
 亜由歌には、自分のしてきたことを知られたくなかった。
海にとって、亜由歌は正しさの象徴だった。
仲もいい。気も許している。もし海が、地球上の誰か一人に悩みを打ち明けるとしたら、間違いなく亜由歌を選ぶだろう。
大人しいけれど明るくて誰にでも親切な亜由歌に、もし軽蔑の目を向けられたらと思うと、ほかの誰にそうされるよりもつらい。背筋に寒気さえ走った。
 
「あ、違うの、亜由歌。これはただ……」と森山。
「ただ、どうしたの? なんだか、変な感じだけど……」

 そこで、横尾が前に進み出た。
海は、以前、横尾が亜由歌の陰口を叩いているのを聞いたことがある。
人気者だからといって誰からも好かれているとは限らないのも、また本当だった。

「あたしたちは、青四季くんの変な噂聞いたから、青四季くんのためにも確認しようとしただけだよ。なに、鮎草さん、上からじゃん」
「上からだなんて、私はただ訊いただけだよ」

「あー、あー、もう、先生みたい。先生は怒ってるんじゃないぞ、訊いてるんだー」

 海は、そうおどける横尾を見て、醜いと思った。
 対して、困り顔を浮かべている亜由歌は、ただ困っているだけなのに、神々しくさえ見える。
 でも、彼女を困らせているのは、自分だ。そう思うと、息が苦しくなった。

 横尾はさらに続けた。

「青四季くんがさあ、女の人と夜中にホテルに入ってくの見た子がいるわけ。よくないでしょ、そんなの。嘘なら嘘って言えば言いだけだし。あたしたちだって心配してんだから。『委員長』は、それ聞いてどう思うの?」
「そんなのただの噂でしょう。放っておけばいいじゃない。嘘でも、訊かれること自体が嫌なことって、あるでしょう。これがそうじゃないの?」

「あー、訊かれるのがそもそも嫌なことね、あるよね、『委員長』にも。だから、訊かないどいてあげたじゃん」

 亜由歌の顔から、それまで備わっていた気丈さが、さっと引いた。
 ちょっと、とほかの女子が横尾の袖をつかむが、横尾は止まらなかった。

「青四季くんと同じような噂流れてるよね。『委員長』は、池袋だっけ。ホテルじゃなくてファミレスだけどさ。パパ活でしょ? おじさんから茶封筒もらうところまでばっちり見た人いるんだから。別にお金に困ってないだろうに、よくやるよね」

 海は息を飲んだ。
 知らない。なんだ、それは。

「横尾さん!」と森山がとがめる。
 しかし、横尾以外の四人は、遠慮がちにしながらも、亜由歌の反応を見たがっている。
 どう答えるんだろう。否定するのか、まさか肯定するのか。否定するとしたら、その様子は嘘くさくはないか? 事実だからこそ、大げさに否定するか? ――事実だったらいいのに。
 そんな表情を浮かべて。

「やめろよ」

 海の声は、自分が思っているよりも、低く大きく響いた。
 女子五人が、びくりと体をこわばらせる。
 海は今度こそ立ち上がった。亜由歌に、こんな質問には、イエスともノーとも答えさせたくない。事実でも嘘でもどちらでもいい。こんな話の相手をさせたくない。

「失礼過ぎるだろう。仮に心配してのことなら、そんな訊き方にならないはずだ。……行こう、鮎草さん。今、ここにいる必要はないよ」

 海は、亜由歌に歩み寄る。
 女子たちに――特に横尾に――一言言ってやりたくはあったが、下手に煽るとさらに悪い方向へ行くかもしれないと思い、やめておく。
 亜由歌の肩を押してやろうとして、やめた。今、触れる気にはなれない。
 亜由歌は海に促されて、教室を出る。海が続いた。引き戸を閉め、廊下を歩き出す。
 女子たちは追いかけてこなかった。
 廊下には誰もいない。
 二人だけで、三メートルほど歩いた時。

「……本当なの」と亜由歌が小さい声で言った。
「……そうか」

「でも、いやらしいこととかをしたわけじゃなくて、……ただ、男の人とご飯を食べただけ。それだけなのに、……五千円もらった」

 安いんじゃないか、と海は直感的に思った。縁もゆかりもない赤の他人が、鮎草亜由歌と食事をして、五千円?
 ただ、パパ活界隈の相場を知らないし、明らかに余計な一言なので、口には出さないようにする。

「一回だけ。八月のお盆過ぎくらいに、一度だけ。もうやらない」
「そうか」

 ほかの言葉を忘れてしまったように、海は相槌を繰り返した。
 危惧はある。こうした行為は、一度手を染めたら、もう一度やる人間が非常に多い。もうやらないと言いながら、ほとんどがまたやると言っていい。色々な言い訳をして、これが最後だと言って、最後にしない。そうして次第に歯止めは緩まっていき、状況は悪化していく。亜由歌のような子が、意外に危ないような気もする。
 それでも、今、亜由歌の過ちを口にする気にはなれなかった。

「本当だよ。私、本当に、その一回だけ」
「疑ってないよ」

「その時、どうしても、お金が欲しくて……でも、怖かった。相手の人がじゃなくて、あんなに簡単に、アルバイトの何倍ものお金が手に入るっていうことが……」
「あ、バイトしてるんだ?」

分かるよ、とも、どうしてそんなにお金が必要だったの、とも言えず、海は話の矛先をそらす。

「うん、本屋さん」

 亜由歌が嫌でないならその書店に行ってみたいな、と海は思った。

「……青四季くん、私、……なんでパパ活なんてしたのか、言ってもいい?」
「おれが聞いていいなら」

「凄くくだらないよ。情けないって思うかも」
「思わないと思うよ」

 それには自信がある。

「……私、アルバイト代が月々いくらなのかまで、全部両親に言ってるのね。だから私の収入や貯金に回すお金は、完全に家族に把握されてるの」
「うん」

「そ、それでね、……私いまだに、私服って、お母さんが買ってくれてるものがほとんどなの。家の方針で、高校生が自分で服なんて買う必要なんてないっていう、……その分、勉強のために使ったり進学のために貯金しておくものだって。もともと、あんまりお金持ちじゃないのもあって」
「……それはまた」

 珍しくはあるが、ありえなくはないのかもしれない。
 亜由歌が親に強力に抗弁するたちならともかく、あまりそういうふうには見えないので、大人しく言うことを聞いているのだろう。

「だから私、友達と遊びに行くのでも、中学生みたいな服しかなくて、誘われても断ったりしちゃってて。……だって、カーディガンにさくらんぼのマークとかついてるんだよ」

 後半が不意打ちで、とっさにその姿を想像してしまい、海は危うく吹き出しそうになった。
しかし、いけない。これはなかなか深刻な話だ。

「それで……夏休みに一人で柏を歩いてたら、……凄くかわいいスカートを見つけたの……。その時、私ってアルバイトをしていても自分が自由に使えるお金って全然ないんだなって、思って……。でも、どうしても欲しいなって……どうしてか、そう思って……」

 そうして亜由歌は、一つの選択へ手を伸ばした。親の干渉を受けずに収入を得る、それも単発の日雇いのような「仕事」。
 なるほど、と海は胸中でうなずいた。海にももちろん心当たりがある。

 海にも、亜由歌にも、その気になれば、「それ」ができてしまう。必要とあればいつでも手を伸ばせるところに、その選択肢はある。
 働き出して自立すれば、欲しい服くらい買えるようになるだろう。
しかし、それでは遅いのだ。今、どうしても必要なものがある。たかがスカート一枚でも、どうしても欲しいものというのはある。それはきっと本当は、「たかがスカート」ではないのだから。

海には、亜由歌の気持ちが、理解はできる。
でもそのために、踏み出すべきではない場所に踏み出させるわけにはいかない。
そんなことはしなくてもいい、と鮎草亜由歌に伝えるために、青四季海は今、ここにいた。

「そのスカートは、もう買ったの?」
「ううん、五千円じゃ足りないから」と亜由歌が苦笑した。

「鮎草さん、誕生日いつ?」
「え? 十月だけど……」

 答えてから、亜由歌がはっとした表情になる。

「青四季くん!?」
「もうすぐだね。今度、そのお店教えてね。柏なんでしょう?」

「うそでしょ? い、いや、嘘嘘! スカートなんて欲しくない! 今の全部嘘!」
「いいじゃないか、クラスメイトなんだし、プレゼントくらい」

「そ、そうかなあ!? 私はあまり見たことないけど!? クラスメイトにスカート買ってあげる男子!」

 急に声量と表情の豊かさが増した亜由歌と、気がつけば、昇降口まで来ていた。
 学校の中だというのに、誰ともすれ違わないまま。海は、ずいぶん、特別な時間を過ごした気がした。

「もう、青四季くん、本当にいいんだからね。……ちゃんと、自分で買うから。なんとか予定がついたんだ」
「あ、そうなの? 買えそうなんだ?」

「うん。夏休みの終わりに、両親に、私のアルバイト代は一部、私のお小遣いとして好きに遣わせてって交渉したの。そうしたら、オーケーが出たから。今月中に買うつもり」
「交渉? 親と? そうなんだ、それは結構がんばったんじゃ?」

「そうだよ。だって、……」

 海は、まだ下校するつもりはなかったが、亜由歌を校門まで送って行こうと、靴を履き替えて鞄を持った。しかし、当の亜由歌が、少し後ろで立ち止まっている。

「鮎草さん?」
「だって……」

「だって、なに?」

 まだ夕焼けには早い。しかも、ここは校舎の中である。しかし、亜由歌の顔は、日陰でも分かるくらい真っ赤に染まっていた。

「だって、……私、青四季くん、私ね!」
「うん?」

 亜由歌が、両手でスカートの両脇を握り締めている。指の間に汗がにじんでいた。
 一方、海は、パパ活についての話がひと段落したので、反動で気が緩んでいた。のんきに首をかしげて、亜由歌の言葉を待っている。

「私、……好きな男の子がいて!」
「えっ」

「その人のこと考えたら、私は、こんなこともうしちゃいけないって、思ったの!」

 亜由歌の眼鏡の奥で、双眸が潤んでいる。
 好きな人がいる。そう聞いて、海もまた、涙が込み上げそうになった。どうしてかは分からない。ただ、強い衝撃が胸と頭を同時に激しく揺さぶった。
 恋人でもない同級生に、好きな人がいると聞いただけで、こんなに動揺する理由が、海には分からなかった。どうやら、自分で思っていたよりも、亜由歌に対しては強い思い入れがあったらしい。一応妥当に、そう、結論づける。
 務めて冷静な口調で、海は答えた。

「そうか……それで、親と交渉することを選んだんだ。確かに、おれもそれが正しいと思うよ。凄いね、鮎草さん。立派だよ。羨ましいな、その男子」

 なんとか笑っていた、と自分では思う。
 口にした言葉はすべて本音だが、なぜだかまったくの嘘を口にしたようにも思えた。

「羨ましい? ……本当?」
「本当に決まってるだろう」

 その時、思い出したように、昇降口にほかの生徒の声が聞こえてきた。
 男子も女子も、がやがやと騒ぎ立てながら、こちらへ集まってきている。部活か、なにかの集会が終わったらしい。
 もうあまりデリケートな話はできないな、と少し残念に思いながら、海は亜由歌を促した。
 亜由歌が慌てて靴をローファに履き替え、外に出てくる。

「おれ、まだ少し用事あるからまた校舎内に戻るけど、校門まで一緒に行かない?」
「うん、行くっ」

 再び、二人は並んで歩き出した。
 短時間でできそうな適当な話題を探す海だったが、ちょうどいいものが思い浮かばず、天気の話くらいしか思いつかない。
 さすがにそれはどうなんだと思っていたら、あっという間に校門に着いてしまった。

「じゃあね、青四季くん。へ、変な話して、ごめんね」
「いや、おれのほうこそ、……ありがとう」

「あ、教室でのこと? 噂がどうだ、みたいな」
「うん。救われた。なのに、そのせいで鮎草さんが」

「私は全然平気だよ。……あ、でも」
「ん?」

「もし、なにかお礼してくれるのなら」
「あ、いいよ。なんでも言ってくれよ」

「私、小学生の時、名字のせいでからかわれたことがあるの。草むしりしてたら鮎が草食べてるとか、あと、笑うことを草って言うでしょう。それとかで」
「ああ……しょうもないけど、なんとなく、想像がつくような」

 つけたくもなかったが。

「だから、……し、下の名前で呼んでくれると、うれしいかも」
「亜由歌、さん?」

「それだと、先輩後輩みたいだし、よ、……呼び捨てで」
「……亜由歌?」

 海は、これでいいのかと確認の意味で、軽く口にした。
 しかし、亜由歌のほうが、またもぼんと赤面してしまう。

「ん、まずかった?」
「う、ううううん、全然大丈夫! そ、そう、そんな感じ!」

 あ、と海が思いついたように言う。

「なら、おれのことも海って呼んでくれよ」
「えっ!? そ、そんなのいいの!?」

「いいもなにも、一緒だろう、おれが亜由歌って言うのと」
「そ、そっか、そうだね! で、では……海くん?」

「くんがつくんだ」
「くんはいいの。海くん!」

「はい」
「は、はいって。出席とってるんじゃないんだから」

 確かに、と二人で笑い合う。

「じゃあ、帰るね。また明日、……海くん」
「ん、また明日。亜由歌さん」

 そうして海は、亜由歌の背中が見えなくなるまで見送った。亜由歌も、角を曲がるまで、何度も振り返ってきた。
 さて、とつぶやいて、海は踵を返す。

(おれが、鮎……亜由歌さんに、えらそうなこと言えた義理じゃないよな)

 スマートフォンを取り出す。
 そして、今日の逢瀬を約束していた陽菜にメッセージを送った。
 直接保健室に行ってもいいのだが、あまり二人でいるところを見られたくない。

「今日の予約ですが、いつもの旧校舎は危なそうです。おれのやってることが噂になってるみたいなので。どこか別の場所って心当たりありますか? それとも今日はやめますか?」

 ややあって、返事が来る。
 海はそのメッセージを、購買のついた食堂の隅で開封した(小腹が空いたので、パンを買いに来たのだ)。
 そして、しばらくの間、動きを止める。

「ほんとか、これ……」

 陽菜から指定された場所は、彼女の自宅だった。
 
 なぜか、赤面した亜由歌の顔を思い出す。
 好きな人がいると、真っ赤になって口にした亜由歌。
 体を売り物にした「仕事」をやめた後もずるずると、好きでもない女たちと肌を重ねる自分。
 ついさっきまで、同じ廊下を歩いて、同じ校門に立っていたのに。
 それなのにずいぶんと離れた場所にいる。
 そう思えた。
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