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第一部 血族
2 冥王の御子②
“煩いの”はごつごつした岩を苦労してよじ登り、相当時間がかかってようやく崖の上に到達した。
ゼイゼイと荒い息をつきながら、踵を打ち合わせて敬礼してみせる。黒の軍服の肩は激しく上下していた。
「お探し申し上げました……領主殿下」
丁寧な口調とは裏腹に、どしりと座った目が、今度こそ逃がすものかと云っていた。
この軍服姿の魔族は、アシュレイドという。
冥界軍・暗黒界方面軍司令官にして、暗黒界の領主であるナシェルの、執務を補佐する者だ。
補佐官というと聞こえはいいが、要は目付け役である。ヴァニオンのような冥界貴族ではなく、一般階級の魔族だが、冥王が彼に世継ぎの補佐を任せているのは、その実務能力を買ってのことである。
深い蒼のマントの下から、将軍職であることを示す銀の記章が誇らしげに覗いている。
ナシェルはうんざりと目を眇めアシュレイドを一瞥した。
「何の用だ、アシュレイド。私は忙しいぞ」
「ほう! お忙しい! そうはお見受けできませんな、なぜなら貴方は一枚の書類も手にしていらっしゃらない! 書類は執務室に山積みになって殿下のお帰りをお待ちしております。
云っておきますが見回りだの視察だのという言い訳はもう通用しませんぞ。まあしかし貴方のさぼり癖も今に始まったことじゃない、さぼるならさぼるで構いやしませんが、せめてどちらに行かれるかだけでもあらかじめお伝え頂きたいものですな。用があるたびにあちこち駆けずり回る私の身にも……」
と得意の小言を浴びせかけ始める。
ナシェルは途中からすでに聞いてはおらず、漆黒のマントを翻してエレボス城へ歩き出している。
ヴァニオンが慌てて後を追いながら、後ろを振り返った。アシュレイドはまだ、ナシェルがいた場所に向かって説教を垂れている。
「……おい、ほっといていいのか」
「構わんさ」
しばらく経つと、
「殿下、聞いておられるのですか!」
という声がだんだん近づいてきて、ナシェルの後ろにぴたりとつけた。
「まったくいつまでも若様気分が抜けきらないでいらっしゃる! こうしている間にも冥王陛下は氷獣界へまで軍を進めかの地の妖魔を調伏し、新たに領地を拡大しておられるのですぞ。今の暗黒界の御政務ですら完璧なこなしようとは云いがたいのに、もしもこのうえ更に殿下のご領地が増えるようなことになったら……御政務は溜まる一方で……き、聞いておられますか殿下ッ」
おそらく広大な城中を探し回ったのであろう彼の、ぜいぜいという喘ぎ声にナシェルは気分を害したが、仕方なく立ち止まって彼を待ってやった。
乳兄弟のヴァニオンは面白そうに二人を見比べた。
「アシュレイ、なにかナシェルに用があったんじゃねえのか」
「はっ! そうでした。陛下からの伝文です」
彼が懐に手を突っ込んで取り出したそれは、くしゃくしゃになっているがたしかに伝文のようだった。
「なんだ父上からか。どうせくだらん宴の誘いか舟遊びの誘いに決まっている。無視して捨て置けばよい」
ナシェルは受け取るや否やポイとヴァニオンに回してしまう。本気で急ぎの用件であるなら王の手持ちの精霊をナシェルに向けて直接遣わせたほうが早い。
つまり、仰々しくはあるが大した用件ではないということだ。
「そんなはずはないでしょう、伝令兵が一番足の速い黒天馬を乗り継いで今しがた届いたものです。なにか前線で大事があったのかもしれませんぞ」
とアシュレイドがムキになる横で、ヴァニオンが代わりに開いて読み上げた。
「吾、幻獣界にて黒天馬の群見つけしも孤軍奮闘せり、至急来援されたし」
「ほらみろ、黒天馬狩りの誘いだ。すごい群れを見つけたからそなたも来るがいい程度の意味合いであろう。端から真剣とも思えぬ」
「そんなバカな!」
アシュレイドはヴァニオンから書状を奪い返し、裏返し裏返ししたが、それ以上の文言はないようだった。
「幻獣界? 氷獣界の前線におられると伺っておりましたが」
「父上の現在地の詳細など私の知ったことか。……まあしかし、冥界軍の妖魔退治の状況にはさして進展がないということと、父上が気晴らしに幻獣界まで引き上げたらしいということは想像がつく。
……アシュレイド、その手紙で判ると思うが私のさぼり癖は父の遺伝だ。文句は父上に云え。
ちなみにその伝文に返信は無用だ」
優雅にマントを翻して歩み去るナシェルを、アシュレイドは呆然と見送った。
ヴァニオンがその肩にポンと手を置いて、なにか言葉をかけてくれる素振りをみせたが、やはりなにも思いつかなかったのか、無言でナシェルの後を追っていってしまう。
「……お待ちください殿下! その階段を上がってそのまま右! 右ですぞ!」
「……うるさいな、判っている」
めげずに執務室への最短ルートを指示してくる目付け役であった。
◇◇◇
「なあ、そういえばお前、王妃とまだ続いちゃいないよな? まさかとは思うけど」
エレボス城の執務室。
乳兄弟ヴァニオンは来客用の長椅子に寝そべった姿勢で、顔にかぶせた本をずらして視線だけナシェルの方に向けた。
「王妃?」
ナシェルは、羽筆を手に苛立たしげに問い返す。城外で油を売っていたせいで執務室に缶詰状態なのだ。
おまけに目の前でヴァニオンにだらだらのんびりと過ごされては、たまったものではない。
「ヴァニオン。私の色恋を気にする暇があったら、貴様も炎獄界に帰ったらどうだ。冥府にいる公爵殿から領地のことを任されているくせに」
「ウチはいいのよォ。執事のグレイドルが優秀だからネ。それに親父が冥府から遠隔操作してるし。ヴェルキウス家における俺の役割は今のところ、お前の護衛とお守りだけだよ」
「ふん、そのわりに居たり居なかったり。護衛にしても守役にしても無責任極まりない。守役というのはもっと役に立つものかと思っていたが」
ナシェルは頬杖をつく。
「あれ? ご機嫌斜めだな。何かして欲しいことがあるなら何なりとお役にたちますよ、王子。本当にお前が困ったとき俺がそばに居なかったことって、ある?」
ヴァニオンはパタンと本を閉じて起き上がる。
『ある……たくさんある!』と即座に思ったが、ナシェルは口には出さず、代わりに羽筆を突き出した。
「では、たまには私の役に立て。私の代わりに書類をさばけ。こっちの山は幻霧界に抜けるトンネルの掘削工事関連だ。こっちのは軍備関係だから、おかしな決裁をしてもアシュレイドがチェックを入れるから大丈夫だ」
「大丈夫だって云われても……お前は何すんの」
「私は出かけてくる。アシュレイドが来ても何とか誤魔化せ」
「はあ!? 一体どこ行くのよ」
ナシェルは唇に指を当ててヴァニオンを黙らせた。
「声が大きい。……王妃に会いに行く。父上はまだ幻獣界にいるというし、絶好の機会だ」
「ちょちょちょ……本気か? まだ王妃と続いてたのか?もう止しとけってあれだけ忠告したのに!」
「煩いな、誰と付き合おうが私の勝手だ。天の神族の男を攫ってきて囲ってるお前に云われたくはない」
『王妃』というのは冥王の現在の妻・セファニア女神のことだ。
ナシェルを産んだ母・ティアーナ女神を失った後、冥王は悲嘆に暮れた。王子を文字通り溺愛することで寂しさを紛らわそうとしたようだが、ナシェルが青年となり領地の一部であるここ暗黒界を譲って独立すると、もはやその寂しさは耐えられぬものとなったのであろう。ティアーナに面影の似たセファニア女神を、天界から奪い取ったのだった。
その経緯についてナシェルは詳細を知らぬ。天王と冥王がセファニアを巡って激しく闘ったのかどうかなど、別にどうでもいいし聞きたくもない。ともあれセファニア女神は天界から冥界に降嫁した。
ある日突然“後妻”を紹介されたナシェルは戸惑い、混乱したが、冥王がこれで自分への執着をやめるならと、王妃を表面上は受け入れた。
……結果、どうなったか?
冥王は後妻を娶ったというのにナシェルへの執着を一向にやめようとはせず、
ナシェルは王妃のいる手前、冥王を丁重に突き放した。
……そして、今、彼女の腹には命が宿っている……。
「王妃と付き合ってどうする。その先には何もないんだぜ。陛下に知られでもしたらどうなるか、考えてみろ。危険すぎるぞ」
「父に知られでもしたら……ふ、どうなるかな。試すのもいい」
視線をそらしたナシェルの、唇の端には薄い笑みすら浮かんでいる。
(父上はその事実を知ったらどうするだろう? この私に罰を与えるだろうか?)
「……お前ってやつは、どうしてそう自分を追い込む必要があるんだ。まるで奈落の崖っぷちへ目隠しして自分から歩み寄っているように見える。これ以上それ続けてると、本当にあとがなくなるぜ?」
「すでに引き際などないのだ、ヴァニオン。もう遅い。彼女の腹にいるのは私の子だ、たぶん……」
「……!?」
絶句し、硬直したヴァニオンとは裏腹に、重大な秘密を暴露したナシェルは、ほっと嘆息してみせる。
「……じょ、冗談だろ?」
「笑えない冗談を云う趣味は、私にはない。とにかくこのことを話すのはお前が初めてだ。誰にも口外するなよ」
「ちょ……待て、待てって。ナシェル、とにかく行くな!」
混乱と苛立ちを隠さずに、ヴァニオンはナシェルの腕を掴む。その闇色の瞳には怒りの色さえ見える。ナシェルはその手を振り払い、壁際に掛けてある漆黒のマントを取った。
「これ以上話したところでどうにもならぬ。どう云われようと、私はこの戯れをやめるつもりはないんだ。……いや、戯れとは呼べぬな。私は本気で王妃を愛している。最初は……ほんの気紛れ、父への意趣返しのつもりであったのだが」
「ナシェル……」
「忠告には感謝する。だが理性だけではどうにもならぬこともあるのだ。……恋に身を焦したことのあるお前なら、分かってもくれよう」
ナシェルは度重なるヴァニオンの制止を振り切って執務室のドアを開け、外に人影がないかを確認した。追って来てなおも説得しようとする彼を押しとどめ、
「書類、頼んだぞ」
と部屋の中に押し込む。中からくぐもった罵詈雑言が聞こえてくるも、無視した。
ヴァニオンが自分の身を案じてくれるのは有難いが、もはや、後戻りなどできぬ状況だった。
(……このまま、堕ちるところまで堕ちてみるのも良い)
そんな、自棄的な心境でさえあった。
『泉界のアリア』本編
表紙画:syuka様
―――
(※作者よりごあいさつ)
はじめまして。
この話、一貫して父子カップルの濃ゆい近親愛の物語なのですが、最初のうち寵愛から逃げていたり過去の因縁がある等、なかなか一筋縄でいかない二人です。
途中、つらい展開もありますし、父神以外にも攻めが複数出てきます。
あと作品の主軸ではありませんが第一部中盤まで主人公が女神に惹かれるなどNL風味な箇所があります。
波瀾万丈な物語も、濃すぎる血縁関係もファンタジーとして楽しめる方にお勧めです。
ぜひ完結までお付き合いいただければ幸いです。
(アルファで初連載ということでご挨拶失礼しました。以降、黙々と載せます)
ゼイゼイと荒い息をつきながら、踵を打ち合わせて敬礼してみせる。黒の軍服の肩は激しく上下していた。
「お探し申し上げました……領主殿下」
丁寧な口調とは裏腹に、どしりと座った目が、今度こそ逃がすものかと云っていた。
この軍服姿の魔族は、アシュレイドという。
冥界軍・暗黒界方面軍司令官にして、暗黒界の領主であるナシェルの、執務を補佐する者だ。
補佐官というと聞こえはいいが、要は目付け役である。ヴァニオンのような冥界貴族ではなく、一般階級の魔族だが、冥王が彼に世継ぎの補佐を任せているのは、その実務能力を買ってのことである。
深い蒼のマントの下から、将軍職であることを示す銀の記章が誇らしげに覗いている。
ナシェルはうんざりと目を眇めアシュレイドを一瞥した。
「何の用だ、アシュレイド。私は忙しいぞ」
「ほう! お忙しい! そうはお見受けできませんな、なぜなら貴方は一枚の書類も手にしていらっしゃらない! 書類は執務室に山積みになって殿下のお帰りをお待ちしております。
云っておきますが見回りだの視察だのという言い訳はもう通用しませんぞ。まあしかし貴方のさぼり癖も今に始まったことじゃない、さぼるならさぼるで構いやしませんが、せめてどちらに行かれるかだけでもあらかじめお伝え頂きたいものですな。用があるたびにあちこち駆けずり回る私の身にも……」
と得意の小言を浴びせかけ始める。
ナシェルは途中からすでに聞いてはおらず、漆黒のマントを翻してエレボス城へ歩き出している。
ヴァニオンが慌てて後を追いながら、後ろを振り返った。アシュレイドはまだ、ナシェルがいた場所に向かって説教を垂れている。
「……おい、ほっといていいのか」
「構わんさ」
しばらく経つと、
「殿下、聞いておられるのですか!」
という声がだんだん近づいてきて、ナシェルの後ろにぴたりとつけた。
「まったくいつまでも若様気分が抜けきらないでいらっしゃる! こうしている間にも冥王陛下は氷獣界へまで軍を進めかの地の妖魔を調伏し、新たに領地を拡大しておられるのですぞ。今の暗黒界の御政務ですら完璧なこなしようとは云いがたいのに、もしもこのうえ更に殿下のご領地が増えるようなことになったら……御政務は溜まる一方で……き、聞いておられますか殿下ッ」
おそらく広大な城中を探し回ったのであろう彼の、ぜいぜいという喘ぎ声にナシェルは気分を害したが、仕方なく立ち止まって彼を待ってやった。
乳兄弟のヴァニオンは面白そうに二人を見比べた。
「アシュレイ、なにかナシェルに用があったんじゃねえのか」
「はっ! そうでした。陛下からの伝文です」
彼が懐に手を突っ込んで取り出したそれは、くしゃくしゃになっているがたしかに伝文のようだった。
「なんだ父上からか。どうせくだらん宴の誘いか舟遊びの誘いに決まっている。無視して捨て置けばよい」
ナシェルは受け取るや否やポイとヴァニオンに回してしまう。本気で急ぎの用件であるなら王の手持ちの精霊をナシェルに向けて直接遣わせたほうが早い。
つまり、仰々しくはあるが大した用件ではないということだ。
「そんなはずはないでしょう、伝令兵が一番足の速い黒天馬を乗り継いで今しがた届いたものです。なにか前線で大事があったのかもしれませんぞ」
とアシュレイドがムキになる横で、ヴァニオンが代わりに開いて読み上げた。
「吾、幻獣界にて黒天馬の群見つけしも孤軍奮闘せり、至急来援されたし」
「ほらみろ、黒天馬狩りの誘いだ。すごい群れを見つけたからそなたも来るがいい程度の意味合いであろう。端から真剣とも思えぬ」
「そんなバカな!」
アシュレイドはヴァニオンから書状を奪い返し、裏返し裏返ししたが、それ以上の文言はないようだった。
「幻獣界? 氷獣界の前線におられると伺っておりましたが」
「父上の現在地の詳細など私の知ったことか。……まあしかし、冥界軍の妖魔退治の状況にはさして進展がないということと、父上が気晴らしに幻獣界まで引き上げたらしいということは想像がつく。
……アシュレイド、その手紙で判ると思うが私のさぼり癖は父の遺伝だ。文句は父上に云え。
ちなみにその伝文に返信は無用だ」
優雅にマントを翻して歩み去るナシェルを、アシュレイドは呆然と見送った。
ヴァニオンがその肩にポンと手を置いて、なにか言葉をかけてくれる素振りをみせたが、やはりなにも思いつかなかったのか、無言でナシェルの後を追っていってしまう。
「……お待ちください殿下! その階段を上がってそのまま右! 右ですぞ!」
「……うるさいな、判っている」
めげずに執務室への最短ルートを指示してくる目付け役であった。
◇◇◇
「なあ、そういえばお前、王妃とまだ続いちゃいないよな? まさかとは思うけど」
エレボス城の執務室。
乳兄弟ヴァニオンは来客用の長椅子に寝そべった姿勢で、顔にかぶせた本をずらして視線だけナシェルの方に向けた。
「王妃?」
ナシェルは、羽筆を手に苛立たしげに問い返す。城外で油を売っていたせいで執務室に缶詰状態なのだ。
おまけに目の前でヴァニオンにだらだらのんびりと過ごされては、たまったものではない。
「ヴァニオン。私の色恋を気にする暇があったら、貴様も炎獄界に帰ったらどうだ。冥府にいる公爵殿から領地のことを任されているくせに」
「ウチはいいのよォ。執事のグレイドルが優秀だからネ。それに親父が冥府から遠隔操作してるし。ヴェルキウス家における俺の役割は今のところ、お前の護衛とお守りだけだよ」
「ふん、そのわりに居たり居なかったり。護衛にしても守役にしても無責任極まりない。守役というのはもっと役に立つものかと思っていたが」
ナシェルは頬杖をつく。
「あれ? ご機嫌斜めだな。何かして欲しいことがあるなら何なりとお役にたちますよ、王子。本当にお前が困ったとき俺がそばに居なかったことって、ある?」
ヴァニオンはパタンと本を閉じて起き上がる。
『ある……たくさんある!』と即座に思ったが、ナシェルは口には出さず、代わりに羽筆を突き出した。
「では、たまには私の役に立て。私の代わりに書類をさばけ。こっちの山は幻霧界に抜けるトンネルの掘削工事関連だ。こっちのは軍備関係だから、おかしな決裁をしてもアシュレイドがチェックを入れるから大丈夫だ」
「大丈夫だって云われても……お前は何すんの」
「私は出かけてくる。アシュレイドが来ても何とか誤魔化せ」
「はあ!? 一体どこ行くのよ」
ナシェルは唇に指を当ててヴァニオンを黙らせた。
「声が大きい。……王妃に会いに行く。父上はまだ幻獣界にいるというし、絶好の機会だ」
「ちょちょちょ……本気か? まだ王妃と続いてたのか?もう止しとけってあれだけ忠告したのに!」
「煩いな、誰と付き合おうが私の勝手だ。天の神族の男を攫ってきて囲ってるお前に云われたくはない」
『王妃』というのは冥王の現在の妻・セファニア女神のことだ。
ナシェルを産んだ母・ティアーナ女神を失った後、冥王は悲嘆に暮れた。王子を文字通り溺愛することで寂しさを紛らわそうとしたようだが、ナシェルが青年となり領地の一部であるここ暗黒界を譲って独立すると、もはやその寂しさは耐えられぬものとなったのであろう。ティアーナに面影の似たセファニア女神を、天界から奪い取ったのだった。
その経緯についてナシェルは詳細を知らぬ。天王と冥王がセファニアを巡って激しく闘ったのかどうかなど、別にどうでもいいし聞きたくもない。ともあれセファニア女神は天界から冥界に降嫁した。
ある日突然“後妻”を紹介されたナシェルは戸惑い、混乱したが、冥王がこれで自分への執着をやめるならと、王妃を表面上は受け入れた。
……結果、どうなったか?
冥王は後妻を娶ったというのにナシェルへの執着を一向にやめようとはせず、
ナシェルは王妃のいる手前、冥王を丁重に突き放した。
……そして、今、彼女の腹には命が宿っている……。
「王妃と付き合ってどうする。その先には何もないんだぜ。陛下に知られでもしたらどうなるか、考えてみろ。危険すぎるぞ」
「父に知られでもしたら……ふ、どうなるかな。試すのもいい」
視線をそらしたナシェルの、唇の端には薄い笑みすら浮かんでいる。
(父上はその事実を知ったらどうするだろう? この私に罰を与えるだろうか?)
「……お前ってやつは、どうしてそう自分を追い込む必要があるんだ。まるで奈落の崖っぷちへ目隠しして自分から歩み寄っているように見える。これ以上それ続けてると、本当にあとがなくなるぜ?」
「すでに引き際などないのだ、ヴァニオン。もう遅い。彼女の腹にいるのは私の子だ、たぶん……」
「……!?」
絶句し、硬直したヴァニオンとは裏腹に、重大な秘密を暴露したナシェルは、ほっと嘆息してみせる。
「……じょ、冗談だろ?」
「笑えない冗談を云う趣味は、私にはない。とにかくこのことを話すのはお前が初めてだ。誰にも口外するなよ」
「ちょ……待て、待てって。ナシェル、とにかく行くな!」
混乱と苛立ちを隠さずに、ヴァニオンはナシェルの腕を掴む。その闇色の瞳には怒りの色さえ見える。ナシェルはその手を振り払い、壁際に掛けてある漆黒のマントを取った。
「これ以上話したところでどうにもならぬ。どう云われようと、私はこの戯れをやめるつもりはないんだ。……いや、戯れとは呼べぬな。私は本気で王妃を愛している。最初は……ほんの気紛れ、父への意趣返しのつもりであったのだが」
「ナシェル……」
「忠告には感謝する。だが理性だけではどうにもならぬこともあるのだ。……恋に身を焦したことのあるお前なら、分かってもくれよう」
ナシェルは度重なるヴァニオンの制止を振り切って執務室のドアを開け、外に人影がないかを確認した。追って来てなおも説得しようとする彼を押しとどめ、
「書類、頼んだぞ」
と部屋の中に押し込む。中からくぐもった罵詈雑言が聞こえてくるも、無視した。
ヴァニオンが自分の身を案じてくれるのは有難いが、もはや、後戻りなどできぬ状況だった。
(……このまま、堕ちるところまで堕ちてみるのも良い)
そんな、自棄的な心境でさえあった。
『泉界のアリア』本編
表紙画:syuka様
―――
(※作者よりごあいさつ)
はじめまして。
この話、一貫して父子カップルの濃ゆい近親愛の物語なのですが、最初のうち寵愛から逃げていたり過去の因縁がある等、なかなか一筋縄でいかない二人です。
途中、つらい展開もありますし、父神以外にも攻めが複数出てきます。
あと作品の主軸ではありませんが第一部中盤まで主人公が女神に惹かれるなどNL風味な箇所があります。
波瀾万丈な物語も、濃すぎる血縁関係もファンタジーとして楽しめる方にお勧めです。
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