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第一部 血族
22哀しき知らせ②
もはや神司を失っている自分は、この男の魔力の所為で、おそらく容姿も今以上に魔族に変貌してゆくのだ。
それに、もう遅すぎる。
今ここでこの男に屈したら、自分が今まで抵抗してきた百年あまりの時間は何だったのか。全く意味のない無駄な時間になってしまう。
百年前に、ヴァニオンの愛を受け入れて魔族の一員となっていれば、幽閉などされず、もしかしたらそれなりに暖かい暮らしができたのかもしれない。
一生屈するまいと、あのとき誓っていなければ……。
(レオンさま……、どうしたらいいのですか……)
何度もくじけて、ヴァニオンの求愛を受け入れそうになった。けれどもそのたびに、手勢を率いて救出に来てくれるレオンの姿が浮かび、それができなかった。
サリエルは、今では少しづつ、この魔族の青年のことが解りはじめてきていた。
醜い魔物と思って最初は眼にも入れたくなかった。攫われてきた当初は顔を見ることさえ拒絶していた。
最近では、この男のことを少しは客観的に見ることができるようになってきた。
好青年と呼ぶに足る男である。身分は冥界公爵の嫡男だというが、彫りの深い顔立ちにはどことなく愛嬌があり、それでいて精悍さも持ち合わせている。
そして、それなりに優しい所もある。
不器用で、サリエルに面と向かって優しい言葉をかけることはあまりないが、それでも体を蝕まれているサリエルを気遣うような素振りもみせる。先ほどのように、掴んだ手を、しまったとばかりにすぐに引っこめたり…。
若く、魔族の中では地位の高い冥界貴族が、嵐のような縁談を全て断って未だに独身でいるのは、密かに屋敷に置いているサリエルへの想いがあまりに一途だからだ。
今も自分を覚えているかさえ判らない、そんなレオンの頼りない愛――もしかしたらその愛は、サリエルの妄想だったのかもしれない――とは違い、ここにいる男の自分への愛は、間違いなく本物なのだ……。
「サリエル…………?」
敷布の上に倒れ込み、烈しく慟哭するサリエルを、ヴァニオンはどうしてよいか判らず覗きこむ。
セファニアの死が、それほど衝撃だったのだろうか……。
(無理もない。セファニア王妃は同じ境遇の神族として、こいつの拠り所だったんだろうからな)
複雑な胸中のまま、ヴァニオンはサリエルの背をぎこちなく撫でてやる。
彼はサリエルが、自分への気持ちに素直になれずどうしても肯くことのできない自分を情けなく思っていることなど、気付きもしないのである。ヴァニオンは、サリエルが未だ全身全霊をもって天王レオンを慕っていると、思い込んでいるのだ。
嫉妬に狂い、見たこともないレオンへの憎しみばかりが胸中に宿る。
ふつふつと煮え滾るその感情を振り払うように、ヴァニオンはやおら立ち上がりサリエルから離れた。
「今日はもう行こう……。そんなに泣かれてちゃ、その気にならねえや」
サリエルの髪に軽く唇を寄せ、立ち去ろうとするヴァニオンを、サリエルは思わず呼びとめていた。
「待って……待って下さい」
ヴァニオンの足が驚いたように止まる。サリエルが自分から口を開くことも珍しいが、ヴァニオンを呼びとめることなど、今まで一度として無かったことだ。
「……何だ?」
サリエルは伏せていた貌を上げた。涙にぬれた瞳が瞬きを繰り返しながらヴァニオンを見つめた。サリエルは恐る恐る言葉を口にした。
「お願いがあるのです……。鳥琴の…鳥琴の弦を」
「弦?」
ヴァニオンは、壁際の椅子の上に置かれていた鳥琴に眼を遣った。何本かの弦のうち、一本が切れていた。これでは弾くことはできまい。
「ああ……切れちまってたのか。どうりで今日は音がしないと思った」
「……一本でいいので…お願いします」
サリエルの瞳から涙が溢れた。深々と頭を下げて懇願するサリエルの姿に、ヴァニオンは胸を突かれた。
たかが琴の弦一本さえ手に入れることのできない不自由な暮らし……それを強いているのは自分なのだ。
この弦はいつから切れていたのだろう? 自分が留守にしている間、サリエルは唯一の手慰みであるこの楽器さえ弾けずに暮らしていたのかもしれない。
「そうか…気がつかなくて悪かったな。すぐに取り寄せよう」
ヴァニオンは肯いて付け加えた。
「お前が物を欲しがるなんて初めてだな。他に欲しいものがあるなら遠慮することはない」
サリエルは黙って首を振る。
「そうか」
ヴァニオンは照れたようにくるりと向きを変え、足早に部屋を出た。サリエルに頼みごとをされたということが嬉しく、小躍りしたいほどの喜びに包まれていた。早く弦をもってきてサリエルを喜ばせてやりたいと思う。
あの鳥琴が奏でる曲は、すべて天王に捧げるものだと判っていても、今のヴァニオンにはそんなことはどうでも良かった。
ヴァニオンが出て行くのを見送って、サリエルはほっと息をつく。
以前ほどヴァニオンに触れられるのを嫌悪しているわけではないが、それでも躯を求められるのは今の弱った自分にとっては苦痛だ。
ヴァニオンも恐らくそれが判っているのだろう、最近は、ここへ来ても昔ほど暴力的にサリエルを抱いたりはしない。
弦が欲しいと口にした時の彼の驚いた表情が、サリエルの頭から離れなかった。
そして頷いたときの嬉しそうな顔も。
どうしてあんなにも優しく頷くのだろう。なぜ以前のように横暴に振舞ってくれないのだろう。
なぜ、殺したいほど憎ませてくれないのだろう……。
会うたびに、蓄積されていた憎しみがなくなってゆく。ヴァニオンのさまざまな表情を知ってしまうたびに、怒りと憎悪が、なにか別の考えたくない感情に変換されていくのだ。
(魔族……忌まわしい魔物だと思っていたのに……)
心に言い聞かせるが、決してそうではないこともまた、サリエルはすでに知ってしまっている……。
不意に喉が詰まり、サリエルは咳込んだ。
口の中に血の味が拡がった。口を抑えてなんとかおさまったが、手を離してみると、掌に夥しい量の血が吐き出されていた。
(ああ……、どこにこれだけの血が残っていたのだろう……。あとどのくらい吐いたら、体中の血がなくなるのだろう)
このまま、ヴァニオンに対する答えを出せぬまま死ぬのだろうか……。誰にも居場所を知られることもなく、ここでひっそりと消滅の時を迎えるのだろうか。
消滅! それは神の死を意味する言葉だ。この世界から消え、魂が創世界へ転位してより高位の次元の神となる、その旅立ちを意味する語だ。
だが、もはや神ではなくなっている自分に、そもそもそのような言葉が当てはまるのだろうか?
サリエルはぼんやりと、そんなことを考えた。
壁に立てかけられた大事な鳥琴に、視線を奔らせる。
(早く……しなければ。決断しなければ。最期まで誇りを失わずに神族として死ぬか。それとも強がりをやめ、彼の愛を受け入れるべきか……)
徐々に消え行こうとしている命の灯。
決断を下すべき刻が、刻々と迫りつつあった。
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