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第二部 虚構の楽園
1 王女の箱庭①
※ここから第二部となります。第一部からおよそ200年経っています。
第二部は冥府・暗黒界・腐樹界、そして「王女の箱庭世界」が主な舞台です。
◇◇◇
吹き抜ける風に、花弁が舞い散った。
乱れ咲く花々の園を、少女は駆けていく。
いや、幼女と呼ぶべきだろうか、まだ随分と幼い。
金の髪に花冠を戴き、手には一輪の赤い花を持っている。
ふっくらした絨毯のような草花に時おり、裸足をとられそうになりながら。
追いすがる者に振り返っては、悪戯な微笑を浮かべて。
少女の唇から吐息とともに無邪気な笑声が零れた。
「待ってください、ルゥ」
これ以上走れない、と追いかける少年は立ち止まり、肩で息をついた。
自由奔放な乳妹にいつも振り回されている。
「早く早く、アシュタル。だって、とおさまが来たのよ!」
立ち止まり、振り返った少女が指差した前方に、人影が見える。
少年は慌てて花園に膝をついた。
「とおさま!」
少女はあどけない声で呼びかけ、金の巻き毛を揺らして駆け寄る。
両手を広げた背の高い人影が、飛びついてきた少女を抱き上げる。
白詰草の王冠がはらりと落ちた。
額に接吻され、少女は翠色の瞳をきらきらと輝かせた。
世界は光にあふれているように見えた。
視界の端までも花で埋め尽くされていた。
夢の庭園……それは少女のためだけの広大な箱庭。
死者の他には魔なるものしか存在しないこの冥界において、そこだけが唯一、光溢れる場所であった。
蒼穹の空は幻。太陽のような光もまた。
少女は冥界に咲く一輪の華。妃神であったセファニアの忘れ形見として愛され、この疑似天を与えられた王女。ルーシェルミアという。
そしてそのルーシェを抱き上げた人影は。
「ルゥ。違うよ。父様ではない」
穏やかな声が間違いを正す。長い黒髪が微風をはらんで揺れた。
清冽な美貌の青年神が、小さな女神の翠の瞳を覗き込んでいた。
「……お前の、兄様だ」
「にいさま?」
少女は云い直したが、本当に違いが判っているとは思えなかった。
幼いルゥにはまだ、双子のように同じ姿をした父と兄の区別がつかないのだ。
父との違いはただ瞳の色のみ。冥王の瞳は流血の如き紅玉をしているのに対し、彼のそれは地上界の夜空のような群青色をしていた。
冥王の嗣子にして暗黒界の統治者。死の影の王の名を戴く者。
死の神である。
まだ自分と冥王の区別がつかない幼子から、とおさまと呼ばれるたびにナシェルの心は締めつけられるのだった。
違うよルゥ、どうして私を父と呼ぶのだ。
そのたびに傷つく私の心の内を知ってわざとそうしているわけではあるまいに。
吾が娘、いかにも私はお前の本当の父……名乗ることなどできはせぬが。
お前の呼びかけは結局のところ正しいのだ。
心の中でそう応じる。
「兄様だ、分かるだろう」
「うん」
こくりと頷くそのあどけなさに、思わず笑み、ふわふわと揺れる巻き毛を撫でてやる。
「あのね、幸運の花を見つけたの。これ。きれいでそ」
「ああ、そうだな」
ナシェルにはそこらに咲いているのとどう違うのか判らない。お前のほうが何倍も美しい、と思う。
「これをみつけたらしわやせになれるの。いいでそ」
少女がにこっと笑うと頬にえくぼが浮かんだ。
ルゥはしばらく考えた後、手にした赤い花をナシェルに差し出した。
「これ、にいさまにあげる」
「おや、どうして。ルゥが見つけた大事な花だろう」
「にいさまがさびしそうなお顔をしているから。ルゥはまたさがしてくるからいいもん」
ナシェルは驚いて腕の中の小さな女神を見つめた。心の内を読まれたわけではあるまい。
ルゥは不思議そうにナシェルの瞳を覗き込み、首を傾げるばかりだ。
「お花きらいだった?」
「……いや、そうではないよ。ありがとう……大切にするよ」
金色の巻き毛をかきあげて額に唇を寄せると、娘もそれを真似てナシェルの白皙の額に口付けする。
花を受け取り降ろしてやると、小さな妖精は白いドレスの裾を揺らし踊るように駆け出した。
途中でくるりと振り返っては無邪気な笑顔を見せ、また走って行く。
この楽園すべてが赤子であった己の生み出した紛い物であることを、本当に判っているのか?
女神よ……。
花園の向こうでは、本当の兄妹のように育つ乳兄のアシュタルが……彼もまだ年端も行かぬ幼子なのに、律儀に膝をついたままナシェルに礼をして、ルゥに引っ張られ走り出していく。
幼子たちのあどけない後姿を見送るナシェルの掌の中で、もらったばかりの大輪の花が忽ち生気を失って萎れ、花びらが舞い落ちた。
ナシェルは一瞬前まで美しい花だったその残骸を無造作に投げ捨てた。
死を司る者……、力弱く儚きものはすべて、彼の指先に触れられただけで生きてはいられないのだ。
(この花たちの美しさも所詮、虚構にすぎない。
この世界で唯一真実なのはルゥ、お前の美しさだけだ)
どこからか吹き込んでくる風が、常に満開に咲き誇る花々の上を掠めて色とりどりの花弁を舞い上げる。
花園の中にナシェルはただ独り佇み、物想いに沈んだ。
花園から直接、煉瓦の階段で城の地階に上がると、サリエルが軒下で王女の茶の用意をしていた。
「これは、ナシェル殿下……」
月の麗神であった者は意外な場所から現れた王子に驚き、そして微笑み僅かに腰を折る。
「そのようなこと、侍女にやらせればいい。あまり体を酷使するな、サリエル」
「お気遣いありがとうございます。ですが……私はここに置いていただいている身ですし」
「体の具合はどうだ」
「ええ、姫様のおかげをもちまして、だいぶ……」
冥界の瘴気に毒されて神の死病にかかり、危うく創世界の門をくぐりかけていた彼を、まだ赤子であった女神ルーシェが救ったのだ。
生気に満ち溢れていた命の女神を、ナシェルは死に逝かんとしているサリエルの枕元に添わせた。
となりで愛らしい寝息を立てる赤子の、その体から放たれる神司が、サリエルの体から瘴気を徐々に薄めていった。
命の精たちが無邪気に周りを戯れるのを見ながら、サリエルは感激の嗚咽を漏らした。
完治とまではいかないまでも、ルーシェの側にいるだけで、、彼女の凄まじい神気があるていど病を軽くするのだと分かり、その後サリエルはナシェルの格別の配慮によってここ疑似天に王女と住むことを許されたのだ。
女神ルーシェの側にいること。それがサリエルの命を永らえさせる唯一の方法だった。
「ヴァニオン様もこちらに?」
「もちろんだ。裏に馬を繋ぎに行った」
「姫様にお会いになりましたか? 外でアシュタルと遊んでいるようですが」
「ああ、今そこで会った。あいつめ、足が泥だらけだったぞ」
ナシェルは姫を抱き上げたときについたとおぼしき服の泥を払いながら、円卓を囲む椅子に腰掛ける。
第二部は冥府・暗黒界・腐樹界、そして「王女の箱庭世界」が主な舞台です。
◇◇◇
吹き抜ける風に、花弁が舞い散った。
乱れ咲く花々の園を、少女は駆けていく。
いや、幼女と呼ぶべきだろうか、まだ随分と幼い。
金の髪に花冠を戴き、手には一輪の赤い花を持っている。
ふっくらした絨毯のような草花に時おり、裸足をとられそうになりながら。
追いすがる者に振り返っては、悪戯な微笑を浮かべて。
少女の唇から吐息とともに無邪気な笑声が零れた。
「待ってください、ルゥ」
これ以上走れない、と追いかける少年は立ち止まり、肩で息をついた。
自由奔放な乳妹にいつも振り回されている。
「早く早く、アシュタル。だって、とおさまが来たのよ!」
立ち止まり、振り返った少女が指差した前方に、人影が見える。
少年は慌てて花園に膝をついた。
「とおさま!」
少女はあどけない声で呼びかけ、金の巻き毛を揺らして駆け寄る。
両手を広げた背の高い人影が、飛びついてきた少女を抱き上げる。
白詰草の王冠がはらりと落ちた。
額に接吻され、少女は翠色の瞳をきらきらと輝かせた。
世界は光にあふれているように見えた。
視界の端までも花で埋め尽くされていた。
夢の庭園……それは少女のためだけの広大な箱庭。
死者の他には魔なるものしか存在しないこの冥界において、そこだけが唯一、光溢れる場所であった。
蒼穹の空は幻。太陽のような光もまた。
少女は冥界に咲く一輪の華。妃神であったセファニアの忘れ形見として愛され、この疑似天を与えられた王女。ルーシェルミアという。
そしてそのルーシェを抱き上げた人影は。
「ルゥ。違うよ。父様ではない」
穏やかな声が間違いを正す。長い黒髪が微風をはらんで揺れた。
清冽な美貌の青年神が、小さな女神の翠の瞳を覗き込んでいた。
「……お前の、兄様だ」
「にいさま?」
少女は云い直したが、本当に違いが判っているとは思えなかった。
幼いルゥにはまだ、双子のように同じ姿をした父と兄の区別がつかないのだ。
父との違いはただ瞳の色のみ。冥王の瞳は流血の如き紅玉をしているのに対し、彼のそれは地上界の夜空のような群青色をしていた。
冥王の嗣子にして暗黒界の統治者。死の影の王の名を戴く者。
死の神である。
まだ自分と冥王の区別がつかない幼子から、とおさまと呼ばれるたびにナシェルの心は締めつけられるのだった。
違うよルゥ、どうして私を父と呼ぶのだ。
そのたびに傷つく私の心の内を知ってわざとそうしているわけではあるまいに。
吾が娘、いかにも私はお前の本当の父……名乗ることなどできはせぬが。
お前の呼びかけは結局のところ正しいのだ。
心の中でそう応じる。
「兄様だ、分かるだろう」
「うん」
こくりと頷くそのあどけなさに、思わず笑み、ふわふわと揺れる巻き毛を撫でてやる。
「あのね、幸運の花を見つけたの。これ。きれいでそ」
「ああ、そうだな」
ナシェルにはそこらに咲いているのとどう違うのか判らない。お前のほうが何倍も美しい、と思う。
「これをみつけたらしわやせになれるの。いいでそ」
少女がにこっと笑うと頬にえくぼが浮かんだ。
ルゥはしばらく考えた後、手にした赤い花をナシェルに差し出した。
「これ、にいさまにあげる」
「おや、どうして。ルゥが見つけた大事な花だろう」
「にいさまがさびしそうなお顔をしているから。ルゥはまたさがしてくるからいいもん」
ナシェルは驚いて腕の中の小さな女神を見つめた。心の内を読まれたわけではあるまい。
ルゥは不思議そうにナシェルの瞳を覗き込み、首を傾げるばかりだ。
「お花きらいだった?」
「……いや、そうではないよ。ありがとう……大切にするよ」
金色の巻き毛をかきあげて額に唇を寄せると、娘もそれを真似てナシェルの白皙の額に口付けする。
花を受け取り降ろしてやると、小さな妖精は白いドレスの裾を揺らし踊るように駆け出した。
途中でくるりと振り返っては無邪気な笑顔を見せ、また走って行く。
この楽園すべてが赤子であった己の生み出した紛い物であることを、本当に判っているのか?
女神よ……。
花園の向こうでは、本当の兄妹のように育つ乳兄のアシュタルが……彼もまだ年端も行かぬ幼子なのに、律儀に膝をついたままナシェルに礼をして、ルゥに引っ張られ走り出していく。
幼子たちのあどけない後姿を見送るナシェルの掌の中で、もらったばかりの大輪の花が忽ち生気を失って萎れ、花びらが舞い落ちた。
ナシェルは一瞬前まで美しい花だったその残骸を無造作に投げ捨てた。
死を司る者……、力弱く儚きものはすべて、彼の指先に触れられただけで生きてはいられないのだ。
(この花たちの美しさも所詮、虚構にすぎない。
この世界で唯一真実なのはルゥ、お前の美しさだけだ)
どこからか吹き込んでくる風が、常に満開に咲き誇る花々の上を掠めて色とりどりの花弁を舞い上げる。
花園の中にナシェルはただ独り佇み、物想いに沈んだ。
花園から直接、煉瓦の階段で城の地階に上がると、サリエルが軒下で王女の茶の用意をしていた。
「これは、ナシェル殿下……」
月の麗神であった者は意外な場所から現れた王子に驚き、そして微笑み僅かに腰を折る。
「そのようなこと、侍女にやらせればいい。あまり体を酷使するな、サリエル」
「お気遣いありがとうございます。ですが……私はここに置いていただいている身ですし」
「体の具合はどうだ」
「ええ、姫様のおかげをもちまして、だいぶ……」
冥界の瘴気に毒されて神の死病にかかり、危うく創世界の門をくぐりかけていた彼を、まだ赤子であった女神ルーシェが救ったのだ。
生気に満ち溢れていた命の女神を、ナシェルは死に逝かんとしているサリエルの枕元に添わせた。
となりで愛らしい寝息を立てる赤子の、その体から放たれる神司が、サリエルの体から瘴気を徐々に薄めていった。
命の精たちが無邪気に周りを戯れるのを見ながら、サリエルは感激の嗚咽を漏らした。
完治とまではいかないまでも、ルーシェの側にいるだけで、、彼女の凄まじい神気があるていど病を軽くするのだと分かり、その後サリエルはナシェルの格別の配慮によってここ疑似天に王女と住むことを許されたのだ。
女神ルーシェの側にいること。それがサリエルの命を永らえさせる唯一の方法だった。
「ヴァニオン様もこちらに?」
「もちろんだ。裏に馬を繋ぎに行った」
「姫様にお会いになりましたか? 外でアシュタルと遊んでいるようですが」
「ああ、今そこで会った。あいつめ、足が泥だらけだったぞ」
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