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第二部 虚構の楽園
2 王女の箱庭②
サリエルが、増えた人数分、茶を淹れ直している。
良かったな……と、ナシェルはその流麗な後姿を見ながら柄にもなく思う。
ナシェルは生まれた直後に生母を、そして心から愛した継母をもその病で失っている。
セファニアと同じ病で、これ以上神が死んでゆくところを見たくなかったから。
そして、親友ヴァニオンのためにも。
やおら、室内から伸びてきた逞しい男の手がサリエルの細腕を取り……軒下から室内に引き入れた。
がしゃんと、茶器が高い音を立てる。
「あ、ヴァニオンさ……ま」
長身の黒い人影が、サリエルの細い肢体を背後から絡め取るようにして、ナシェルの視界から隠す。
硝子戸越しに、室内で熱い抱擁を交わす二人を図らずも目の当たりにし、ナシェルは思わず眉根を寄せた。
「だ、だめ……ですよ……」
こちらを気にし嫌がっていたサリエルが、おずおずと唇を受け入れ彼に身を委ねる様子……その息遣いさえ、伝わってくるようだ。
ナシェルは聞こえるように大きく咳払いした。
お構い無しに長い口付けをようやく終えると、ヴァニオンはサリエルを解放しテラスに下りてくる。
「貴様、人の目の前でいちゃいちゃと……いい加減にしろ」
「おや、嫉妬しておられるのですか? 殿下」
ヴァニオン・ヴェルキウス。冥界公爵ヴェルキウス家の嫡男である。
冥界軍の重鎮として王に仕える父に代わり、領地・炎獄界の統治をせねばならない立場にあるが、優秀な執事に瑣事を押し付けて自らは王子の随行と称し、勝手気ままにナシェルの後をついて回っている。居るときもあれば居ないときもある、護衛としてはまことに当てにならぬ御仁であった。
魔族にしてはやや色素の薄い茶黒の短髪に黒曜石のような瞳を持ち、眼光は鋭いが笑うと愛嬌のある顔立ちだ。
冥界きっての名家の御曹司というだけあって縁談の数は計り知れないが、降って湧くそれらを押しやって、本人はサリエルとの逢瀬に現を抜かしている。
乳兄弟は崩れきった相好でナシェルの隣に腰を降ろした。誰のお陰でいま鼻の下を伸ばしていられると思っているのか。
トレイを運んできたサリエルは二人に給仕しながら恥じらいの表情を浮かべ、視線を合わせようとはしなかった。
……かつて天の神らしい金色だった彼の髪は、長患いの末に銀灰色に変じたまま、もう元には戻らぬ。
全身から光が湧き立つような美しさはもうないが、それでもまだ見る者の視線を留めるものがある。
王女を呼び戻すため、一礼し花園のほうに降りていくその後姿に、ヴァニオンは絡みつくような視線を注いでいる。
「サリエルは体の調子も良さそうだな」
「まあな。この疑似天は瘴気も薄いし、姫さんの力で守られているらしいから」
「お前の監禁から解放された事が、一番良かったのではないのか?」
からかいと皮肉を込めて云ったつもりだったが、ヴァニオンは真剣に受け止めたようだ。サリエルを追っていた視線がこちらを向き、黒曜の瞳に一瞬傷ついた色が浮かぶ。
「そうだろう。俺もそう思う。実はあいつがここに住みはじめてからは一度も抱いてない。生気を損なうから」
「ほう」
ナシェルは磁器製の碗に口をつけることで驚きの表情を隠した。
あれから一度も?
私ならどうだろう。
きっと耐えられない……。
月の運行を司る下級神であったサリエルは、地上界でヴァニオンと出会い攫われてきて、長い間ヴァニオンの屋敷で幽閉されていた。頑なに心を閉ざす彼に対し、ヴァニオンは強引に躯を奪うという方法でしか愛を表現できなかった。
天上界の神は冥界では長くは生きられない。
魔族であるヴァニオンと交わることで神としての力は弱まり、やがて彼は病に倒れた。
癒しの女神であるルーシェが生まれて彼を救っていなかったら、きっと創世界に逝っていただろう。
ルーシェの側にあり、これ以上魔族と交わらないこと。それがサリエルの病を進行させない道なのだとすれば。
ヴァニオンは愛する者を救われた代償に、生殺しに近い苦行を強いられていたのか……。
「まあ、だけど、そういうのも有りだと最近は思うね。大事なのは心さ心。体じゃない。わかる?」
沈下した乳兄弟を引揚げるようにヴァニオンは明るい声を出す。覗き込まれて、ナシェルはうわの空に応じた。
「ん。そうだな……」
心か……。
私の心は何処へ向いているのだろう。
羅針盤を失い、闇に囚われたままだ。
燃え上がるような愛は、既に過去の遺物。
愛する者を失った今、新たな道標もない。
わだかまり、とどまったままの心を包むのは、いまは己が半身の寵愛のみ。
このままでいいのか?
届かぬものに必死に手をのばすような、掻きむしるような、焦がれる想いに再び溺れたい……。
だが閉じた瞼裏の闇に浮かんだのは、狂気と愛に満ちたあの紅玉の双眸。
苛烈な視線で、いつもそれはナシェルを射抜く。
余以外の者を愛するなど赦さぬと、その瞳は宣下する。
余だけを見よ。永遠に。余の影なる者……、余の支配を受けよと。
あの冷酷な、優しい声色で。
……そうだ。迫り来る、えもいわれぬこの寂寥から逃れるためには、王でもいい。
誰かと肌を合わせることで、この渇きから解放されるなら。
そう……今すぐ、肌を合わせたい。
なんだ、結局、私は冥王の束縛を欲しているのか……。
ナシェルを見えない鎖で縛る冥王は、ここにはいない。王は冥府だ。
渇望と欲情のままに王の元を訪い、自ら求めても良かった。自分にはそれが許される。
孤独に冒された王のもとに、唯一遺された半身なのだから。
だがそれはせぬ。
半身への愛が地上の潮のようにいくら胸中に満ちて来ようとも。
それは今はできぬ。
できぬ理由が、ナシェルにはあった。
彼は冥王をできる限り避けていた。
与えられる悦楽を、神司という名の麻薬を、喉から手が出るほど欲しているのに!
ルゥが生まれてからというもの……。
彼女の本当の父は誰であるか、冥王に悟らせぬために、ナシェルは愚かな小細工を積み重ねていた。
ルゥの、己と同じ群青色の瞳を誤魔化すために、毒の公爵ファルクに頼んで瞳の色を変える目薬を造らせているのだ。
気狂いの公爵から求められる代償は徐々に激化し、今や、ときには己の躯を差し出しながら。
そして他の男に身を許す疚しさから、心とは逆にさらに王の許へ向かう足は遠のいた。
ずぶずぶと、底なしの沼に嵌るような気分であった。
「……ナシェル?」
物想いに沈む彼を、ヴァニオンは再び引揚げようと呼びかけてくる。
ナシェルは頭を振って父の紅い双眸から逃れた。目を閉じただけで囚われそうになるとは、己もどうかしている。
心の奥底で求めているということか。
父に欲情するなど、我ながら馬鹿馬鹿しい……。
「何だよ、ぼんやりしてんな。さては陛下のこと考えてただろ……俺が変なこと云ったから」
「ち、違う。何を言う」
「嘘つけ、顔見りゃすぐ分かるよ」
と、茶を啜るヴァニオンの口元は苦笑している。
良かったな……と、ナシェルはその流麗な後姿を見ながら柄にもなく思う。
ナシェルは生まれた直後に生母を、そして心から愛した継母をもその病で失っている。
セファニアと同じ病で、これ以上神が死んでゆくところを見たくなかったから。
そして、親友ヴァニオンのためにも。
やおら、室内から伸びてきた逞しい男の手がサリエルの細腕を取り……軒下から室内に引き入れた。
がしゃんと、茶器が高い音を立てる。
「あ、ヴァニオンさ……ま」
長身の黒い人影が、サリエルの細い肢体を背後から絡め取るようにして、ナシェルの視界から隠す。
硝子戸越しに、室内で熱い抱擁を交わす二人を図らずも目の当たりにし、ナシェルは思わず眉根を寄せた。
「だ、だめ……ですよ……」
こちらを気にし嫌がっていたサリエルが、おずおずと唇を受け入れ彼に身を委ねる様子……その息遣いさえ、伝わってくるようだ。
ナシェルは聞こえるように大きく咳払いした。
お構い無しに長い口付けをようやく終えると、ヴァニオンはサリエルを解放しテラスに下りてくる。
「貴様、人の目の前でいちゃいちゃと……いい加減にしろ」
「おや、嫉妬しておられるのですか? 殿下」
ヴァニオン・ヴェルキウス。冥界公爵ヴェルキウス家の嫡男である。
冥界軍の重鎮として王に仕える父に代わり、領地・炎獄界の統治をせねばならない立場にあるが、優秀な執事に瑣事を押し付けて自らは王子の随行と称し、勝手気ままにナシェルの後をついて回っている。居るときもあれば居ないときもある、護衛としてはまことに当てにならぬ御仁であった。
魔族にしてはやや色素の薄い茶黒の短髪に黒曜石のような瞳を持ち、眼光は鋭いが笑うと愛嬌のある顔立ちだ。
冥界きっての名家の御曹司というだけあって縁談の数は計り知れないが、降って湧くそれらを押しやって、本人はサリエルとの逢瀬に現を抜かしている。
乳兄弟は崩れきった相好でナシェルの隣に腰を降ろした。誰のお陰でいま鼻の下を伸ばしていられると思っているのか。
トレイを運んできたサリエルは二人に給仕しながら恥じらいの表情を浮かべ、視線を合わせようとはしなかった。
……かつて天の神らしい金色だった彼の髪は、長患いの末に銀灰色に変じたまま、もう元には戻らぬ。
全身から光が湧き立つような美しさはもうないが、それでもまだ見る者の視線を留めるものがある。
王女を呼び戻すため、一礼し花園のほうに降りていくその後姿に、ヴァニオンは絡みつくような視線を注いでいる。
「サリエルは体の調子も良さそうだな」
「まあな。この疑似天は瘴気も薄いし、姫さんの力で守られているらしいから」
「お前の監禁から解放された事が、一番良かったのではないのか?」
からかいと皮肉を込めて云ったつもりだったが、ヴァニオンは真剣に受け止めたようだ。サリエルを追っていた視線がこちらを向き、黒曜の瞳に一瞬傷ついた色が浮かぶ。
「そうだろう。俺もそう思う。実はあいつがここに住みはじめてからは一度も抱いてない。生気を損なうから」
「ほう」
ナシェルは磁器製の碗に口をつけることで驚きの表情を隠した。
あれから一度も?
私ならどうだろう。
きっと耐えられない……。
月の運行を司る下級神であったサリエルは、地上界でヴァニオンと出会い攫われてきて、長い間ヴァニオンの屋敷で幽閉されていた。頑なに心を閉ざす彼に対し、ヴァニオンは強引に躯を奪うという方法でしか愛を表現できなかった。
天上界の神は冥界では長くは生きられない。
魔族であるヴァニオンと交わることで神としての力は弱まり、やがて彼は病に倒れた。
癒しの女神であるルーシェが生まれて彼を救っていなかったら、きっと創世界に逝っていただろう。
ルーシェの側にあり、これ以上魔族と交わらないこと。それがサリエルの病を進行させない道なのだとすれば。
ヴァニオンは愛する者を救われた代償に、生殺しに近い苦行を強いられていたのか……。
「まあ、だけど、そういうのも有りだと最近は思うね。大事なのは心さ心。体じゃない。わかる?」
沈下した乳兄弟を引揚げるようにヴァニオンは明るい声を出す。覗き込まれて、ナシェルはうわの空に応じた。
「ん。そうだな……」
心か……。
私の心は何処へ向いているのだろう。
羅針盤を失い、闇に囚われたままだ。
燃え上がるような愛は、既に過去の遺物。
愛する者を失った今、新たな道標もない。
わだかまり、とどまったままの心を包むのは、いまは己が半身の寵愛のみ。
このままでいいのか?
届かぬものに必死に手をのばすような、掻きむしるような、焦がれる想いに再び溺れたい……。
だが閉じた瞼裏の闇に浮かんだのは、狂気と愛に満ちたあの紅玉の双眸。
苛烈な視線で、いつもそれはナシェルを射抜く。
余以外の者を愛するなど赦さぬと、その瞳は宣下する。
余だけを見よ。永遠に。余の影なる者……、余の支配を受けよと。
あの冷酷な、優しい声色で。
……そうだ。迫り来る、えもいわれぬこの寂寥から逃れるためには、王でもいい。
誰かと肌を合わせることで、この渇きから解放されるなら。
そう……今すぐ、肌を合わせたい。
なんだ、結局、私は冥王の束縛を欲しているのか……。
ナシェルを見えない鎖で縛る冥王は、ここにはいない。王は冥府だ。
渇望と欲情のままに王の元を訪い、自ら求めても良かった。自分にはそれが許される。
孤独に冒された王のもとに、唯一遺された半身なのだから。
だがそれはせぬ。
半身への愛が地上の潮のようにいくら胸中に満ちて来ようとも。
それは今はできぬ。
できぬ理由が、ナシェルにはあった。
彼は冥王をできる限り避けていた。
与えられる悦楽を、神司という名の麻薬を、喉から手が出るほど欲しているのに!
ルゥが生まれてからというもの……。
彼女の本当の父は誰であるか、冥王に悟らせぬために、ナシェルは愚かな小細工を積み重ねていた。
ルゥの、己と同じ群青色の瞳を誤魔化すために、毒の公爵ファルクに頼んで瞳の色を変える目薬を造らせているのだ。
気狂いの公爵から求められる代償は徐々に激化し、今や、ときには己の躯を差し出しながら。
そして他の男に身を許す疚しさから、心とは逆にさらに王の許へ向かう足は遠のいた。
ずぶずぶと、底なしの沼に嵌るような気分であった。
「……ナシェル?」
物想いに沈む彼を、ヴァニオンは再び引揚げようと呼びかけてくる。
ナシェルは頭を振って父の紅い双眸から逃れた。目を閉じただけで囚われそうになるとは、己もどうかしている。
心の奥底で求めているということか。
父に欲情するなど、我ながら馬鹿馬鹿しい……。
「何だよ、ぼんやりしてんな。さては陛下のこと考えてただろ……俺が変なこと云ったから」
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