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第二部 虚構の楽園
32穢れた風①
コト……と音がして盤上の駒が動いた。
「……しまった、」
ヴェルキウス公ジェニウスは自分の拙守を悔やんだが時すでに遅い。
冥王の『蛇女』の駒が浮き上がり、公爵の『竜』の駒と入れ替わったのだ。
盤上から追い出された『竜』の駒は、ふわふわと浮き上がり相手の手元に移動する。
重要な大駒を不覚にも奪われてしまった。ジェニウスは唸り、残された持ち駒でどう守るかを考え始めた。
最初は公爵が攻め、王が守る展開であったが、いつの間にか攻守は逆転している。
「どうした……ジェニウスらしくもないな」
冥王は静かに濾過酒の高脚杯を弄んでいる。
「投了したほうがよいのではないか?」
手元にある、奪った駒の数を目で数えながら、王はそう云ってジェニウスの動揺を誘うのだった。
時おり冥王は、ヴァニオンの父・ジェニウスを相手にこうして盤駒に興じる。
冥界軍の長官らしく大攻勢の戦略に長けるジェニウスであるが、ひとたびその攻勢を防ぎきれば、そこからはいつも冥王の展開であった。
考え込み始めたジェニウスを、駒の先に腰掛けた闇の精たちが不思議そうに見上げている。
冥王は駒を動かすときでも一切手を触れぬ。
精霊の見えぬ者には、王の駒がひとりでに動いているように見えるだろう。
彼の駒を動かすのは、駒上に鎮座する闇の精たちであった。言葉を発さずともその意のままに駒を進めてくれる。
はじめは精霊を相手に勝負しているのかと錯覚したジェニウスの目にも、それは今やもう見慣れた光景だった。
冥王の緻密な戦略と大胆な戦術の前にジェニウスはどう見ても追い詰められており、投了も間近だったが、ジェニウスが諦めぬ限りは付き合ってやるか……と、冥王は黙って杯を干していた。
開け放たれた露台から生温い風が入ってくる。死者どもの腐臭をのせ、暗黒界の方角から吹きつけてくる風。
冥王はジェニウスの次の一手を待ちながら、手持ち無沙汰に露台の方に視線を遣った。
露台の向く方角には暗黒界がある。
何をしていても忘れることのない、己の半身ともいうべきナシェルのいる方角。
冥王は遠く離れた半身に想いを馳せる。
本当はただただ常に傍に置き、思うままに彼を寵愛することこそ本意なのだが、その想いを隠してナシェルを暗黒界に幇じたのは冥王自身であった。公私混同する愚には冒されておらぬ王の、それは統治者としての判断だった。
そのナシェルの許に向かわせていた闇の精が戻ってきて、冥王の耳元に何事かを囁く。
「…そうか」
冥王は独り言のように呟き、幽かに唸った。
「陛下…。どうなさったのです?」
盤と睨みあいを続けていたジェニウスが顔を上げて問いかけてくる。冥王は杯を卓に置いて立ち上がり、露台に足を向けた。
「ナシェルのことだ」
「殿下がどうかされましたか」
「うむ……」
冥王は露台に立って遙か暗黒界の方角を目を眇めて睨み、そのまま視線を左にずらした。ここ冥王宮と、暗黒界とに挟まれる形で、その方角に――目視は出来ぬが――疑似天がある。
「ジェニウス、そなたは感じぬか」
「感じる? 何をです」
急に話題を振られ、ジェニウスは盤駒を諦めて席を離れ、冥王の背後に立った。
「最近なにやらこの風に、不純物が混じっているように感じるのだ……」
「風に……ですか? 臣にはいつもの風に感じられますが……」
ジェニウスの声には怪訝の色が浮かぶ。
「不純物とはいかなるものでございますか」
「何やら余にもよく分からぬが……、不快な風の匂いだ。よからぬものが余の領土に紛れ込んでおるような……」
「侵入者でありますか!?」
息を呑み体を強張らせるジェニウスを、冥王は片手で制する。
「よくは分からぬと云っておろう。侵入者と断ずることはできぬ。未だかつてあの三途の河を越えてまで、この世界に侵入してきた者はおらぬ。羽虫の一匹とてそうやすやすと忍び込めるものではない。
万が一、地上界の愚か者がそれを果たしたところで、ここの瘴気は、生身の人間どもには一日と耐えられぬものであろう。
それにこの冥界の入り口たる暗黒界は、そなたの指揮する冥界軍が三重の城砦をもって護っておるのだろう。いざとなれば王子もおる。そう色めき立つことではない」
「では、何が陛下の御心を波立たせているのでしょう?」
「うむ……。強いていえば『穢れた風』とでも云い表せばよいのか……微細すぎていまいち余にもその正体が判らぬのだ」
「穢れた風……?」
ジェニウスは吹き込んでくる風に向けて神経を尖らせてみたが、魔族にすぎぬ彼にはやはり、王のいう微妙な風の変化など悟るべくもなかった。
冥王もまたその極微な違和感の原因を悟ろうと風に耳を澄ませ、しばし二人は無言で露台に佇んだ。
「……ナシェルは気づいておるだろうか…」
「殿下をお呼びになりますか」
「いや、大ごとにするつもりはないのだ。気のせいということもある。だが一応、あれにその原因を調べさせようと思って、精霊を飛ばしたのはいいが……」
「?」
「疑似天の入り口で弾き返され、精霊が今しがた戻ってきおった。ナシェルめまた疑似天に逃げ込んでおるらしい」
冥王は僅かに眉を顰めた。
「まったく……。思いつきで余が作ってやった小世界とはいえ、その入口に赤子だったルーシェルミアがあんな鉄壁の防御を敷くとはな……。余の精霊一匹、忍び込むこと叶わぬとは」
冥王は指先に止まらせた闇の精を見下ろし、唇の端に苦笑を浮かべる。
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