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第二部 虚構の楽園
33穢れた風②
「姫君の結界とは、それほどのものですか」
「ああ。王女自身には記憶もないのであろうが……無意識の生存本能というやつだろう。あれはセファニアの神司を受け継ぐ女神だからな。属性は天上界の神族と同じものを有している。
だが、あの自分で張った疑似天の結界の中にありさえすれば、瘴気の影響を受けずにすむようだ」
「では、姫君は、あの疑似天から出たらセファニア様のように病に斃れる可能性が?」
「いや、それはないだろう。セファニアはそうならぬためにルーシェを生んだのだからな。冥界の血を入れたことで、ルーシェの生存能力はセファニアのそれよりも遙かに高まったのだ」
「なるほど……。つまり天界と冥界の混血であるということで、天界の神司を保持しつつ、この冥界の瘴気の中でも生存できると…」
「疑似天はあくまでルゥが居心地を追求した結果に過ぎぬ。
混血というならナシェルにしてもそうだ。その身に流れる亡き母ティアーナの血のおかげで、あれは疑似天にあってもさほど違和感を感じずに居られるはずだ。余はとてもあの場所に近づきたいとも思わぬがな。
まさかそれを利用してあれが、疑似天を逃げ場として使うとは思いもせなんだが……」
「逃げ場、ですか……?」
「ふふ、こちらの話だ」
冥王の指に口づけした闇の精は虚空に飛び立って消えた。それを見送る王の背に、ジェニウスは問いかける。
「陛下、嫌な昔話を持ち出すことをお許しください」
「……うん?」
「陛下もその昔、天界に生を受けられた神族の一人でございましょう。なのに何ゆえ、陛下のみが他の神々と異なり、この冥界で生きていかれるのですか。いい換えれば、なぜ陛下は光ある場所を嫌われますのか。我々魔族ならばともかく、天界を郷里となさる貴方様が」
「本当に嫌なことを訊くやつだな」
冥王は顔を顰めながらも、
「簡単なことだ……。余は創世の父によって闇の神としてこの世に生み出されたときから、この冥界に堕とされることが決まっていたのだ。一緒に生み出された他の連中が我が容姿を忌んで堕としたというよりは、おそらく堕ちることは必然であった。だから容姿もはじめから天の奴らとは違った。天界ではなく、この冥界にこそ適応できる体を与えられていたのだ。
なぜ創世の父が初めから余を冥王としてこの世界に生み出さなかったのかは、余にも判らぬ。
そうなっておれば……、つまり余が初めからここに居れば、そなたら魔族も1000年以上の永きに渡り、部族や種族間での不毛な争いなど繰り広げずにすんだものを。
まあいずれにせよ創世の父の思惑など余にも測ることは叶わぬ。もしかすると天上界の連中と余が、袂を分かつという過程が、必要だったのかも知れぬな。
いつかこの世を離れ転位したら、直接訊いてみる機会も得られようか」
「な……なにを仰います、陛下!」
「ふふ……冗談だ。聞き流せ。そう目くじらをたてるな。
それにしても……、余が天界に居たのはほんの最初の数百年程度であったが、今にして思えばその期間こそ真の苦しみであった。本来居るべきでない場所に、気紛れに生み落とされたのだからな」
冥王は自嘲気味にそう語った。
冥王が本心からそう述べていることは明らかだったが、その笑みはやはりどこかしら作り物めいていて、ジェニウスを慄然とさせる。
やはりこの方の心を蝕んだ狂気は、今とて癒えぬままなのかと。
かつて天界の端まで届いていたという大火山の火口(現在の炎獄界。大火山は噴火によってその高さをすでに失っている)から冥界に堕ち、右も左も分からぬ異界でもう二度と会えはせぬであろう故郷の兄弟姉妹たちを憧憬し、呪い、発狂した冥王である。
彼の味わった壮絶な孤独は1000年にも及んだ。冥王が女神ティアーナの愛を得てかろうじて正気を取り戻し、統一にのりだすまでのその長い間、捨て置かれた彼ら魔族は、彼らの手には届くはずのない覇権を巡って不毛な戦争を繰り広げていたのだ。それは遠い昔の話であった。
だがジェニウスは戦のさなか、初めて彼にめぐり会った時には直感をすでに得ていた。
天の神々を罵りながら思慕し、暗闇の淵にうずくまっていたこの美しい若者を、初めて目に入れた時から。
彼こそが、この混沌の世界を治めるべく遣わされた神であるという直感を。
魔族らの呼びかけにも答えずひたすら壮絶な呪詛と嗚咽を繰り返す彼を、救うことができたのは結局のところ天から降りてきた女神ティアーナの愛だけであったし、彼女をもすぐに失って、王となった後もますますその狂気の色は褪せることはなかったのだが……。
畏まるジェニウスを退がらせ、冥王は独り露台に立つ。
手すりに身を預け、暗黒界と疑似天の方角をかわるがわる見遣った。
先程ジェニウスに話した「穢れた風」……。
それが視線の先の彼方から感じるものである以上、冥王よりもナシェルの方がその近くにいるはずであった。
だが冥王とてそのような気は初めて感じるのであり、また杞憂かと思うほどそれは幽かなものだった。
自分ですらその程度だ。ナシェルはそれを果たして感じ取っているだろうか……。
大ごとにはしたくないが、精霊が届いておらぬということであれば伝令でも出して呼びつけるべきかもしれぬ。
自分を避けるように疑似天に入り浸るナシェルを、冥王は今のところ自由にさせている。
自分への反抗心から彼がわざとそのような行動をとっているのは明らかだった。
だが冥王にとってはそれは所詮、可愛い悪足掻きに過ぎない。
半身がいらいらと眉を顰め、唇を尖らせながらも結局のところ己の許に戻ってくるのが分かっているからだ。
冥王がたっぷりと長い時間をかけて築き上げた二人だけの檻。それは囚われる半身にとっても本来、居心地のよいものであるはずだった。
気概に満ち溢れたナシェルがそこから抜け出してみようと思い立つのは自由だが、本当に囲みを抜け出した後で、途方もない喪失感を味わうのは目に見えている。
ナシェルがこじあけた檻の枠縁に手をかけて振り返り、さあどうすると己を挑発してくる様を、冥王は感じる。
『私は本気で貴方の囲いを抜け出すつもりだ。
止めるなら今だぞ』と。
冥王にはそれが可笑しくて可愛くて、仕方がない。嬉しくすらある。思わず微笑んでしまうのだ。
やってごらん。
その檻を打ち破って、その先に何が見えるのだ?その先にあるのは異端の神としての孤独だけだ。
余は1000年にも及ぶ孤独の狂気を繰り返しそなたに語ってきた。
今やそなたの心にもその壮絶な孤独への恐怖は、まるで己自身で味わったもののように根付いているはず。
それを味わいに往くつもりか?
神々の異端児であった余と、その映し身であるそなた……。
我々は二人きりであるのに?
余を置いて独りでその先へ行くなど、出来はすまい。そなたは母譲りの優しい心の持ち主だから。
そなたは全く余の思い通りに育ってくれた。
余の愛するのはそなたのそうした素晴らしい覇気と優しさだ。
胸の裡にある気高き矜持、しなやかな獣の如き野生、そなたを支配する余への憎しみと反発心。
そして藍青の瞳の奥に秘められた余への畏敬と愛欲。
そういうそなたの全ての気性を余は愛している。
そうなるように育てたのだから。
檻から抜け出すことを本当に望んでいるのか? そうではあるまい。
そなたは余が取り乱し、引きとめ、愛を得るために必死になる姿が見たいだけなのだろう。
まったく、可愛いとしか云いようがないよ、そなたは……。
心の中でそう呼びかける冥王の髪を、暗黒界から吹き抜けてきた風が撫でる。
それに混じる幽けき『穢れ』の正体を、見定めるすべはいまはない。
「ああ。王女自身には記憶もないのであろうが……無意識の生存本能というやつだろう。あれはセファニアの神司を受け継ぐ女神だからな。属性は天上界の神族と同じものを有している。
だが、あの自分で張った疑似天の結界の中にありさえすれば、瘴気の影響を受けずにすむようだ」
「では、姫君は、あの疑似天から出たらセファニア様のように病に斃れる可能性が?」
「いや、それはないだろう。セファニアはそうならぬためにルーシェを生んだのだからな。冥界の血を入れたことで、ルーシェの生存能力はセファニアのそれよりも遙かに高まったのだ」
「なるほど……。つまり天界と冥界の混血であるということで、天界の神司を保持しつつ、この冥界の瘴気の中でも生存できると…」
「疑似天はあくまでルゥが居心地を追求した結果に過ぎぬ。
混血というならナシェルにしてもそうだ。その身に流れる亡き母ティアーナの血のおかげで、あれは疑似天にあってもさほど違和感を感じずに居られるはずだ。余はとてもあの場所に近づきたいとも思わぬがな。
まさかそれを利用してあれが、疑似天を逃げ場として使うとは思いもせなんだが……」
「逃げ場、ですか……?」
「ふふ、こちらの話だ」
冥王の指に口づけした闇の精は虚空に飛び立って消えた。それを見送る王の背に、ジェニウスは問いかける。
「陛下、嫌な昔話を持ち出すことをお許しください」
「……うん?」
「陛下もその昔、天界に生を受けられた神族の一人でございましょう。なのに何ゆえ、陛下のみが他の神々と異なり、この冥界で生きていかれるのですか。いい換えれば、なぜ陛下は光ある場所を嫌われますのか。我々魔族ならばともかく、天界を郷里となさる貴方様が」
「本当に嫌なことを訊くやつだな」
冥王は顔を顰めながらも、
「簡単なことだ……。余は創世の父によって闇の神としてこの世に生み出されたときから、この冥界に堕とされることが決まっていたのだ。一緒に生み出された他の連中が我が容姿を忌んで堕としたというよりは、おそらく堕ちることは必然であった。だから容姿もはじめから天の奴らとは違った。天界ではなく、この冥界にこそ適応できる体を与えられていたのだ。
なぜ創世の父が初めから余を冥王としてこの世界に生み出さなかったのかは、余にも判らぬ。
そうなっておれば……、つまり余が初めからここに居れば、そなたら魔族も1000年以上の永きに渡り、部族や種族間での不毛な争いなど繰り広げずにすんだものを。
まあいずれにせよ創世の父の思惑など余にも測ることは叶わぬ。もしかすると天上界の連中と余が、袂を分かつという過程が、必要だったのかも知れぬな。
いつかこの世を離れ転位したら、直接訊いてみる機会も得られようか」
「な……なにを仰います、陛下!」
「ふふ……冗談だ。聞き流せ。そう目くじらをたてるな。
それにしても……、余が天界に居たのはほんの最初の数百年程度であったが、今にして思えばその期間こそ真の苦しみであった。本来居るべきでない場所に、気紛れに生み落とされたのだからな」
冥王は自嘲気味にそう語った。
冥王が本心からそう述べていることは明らかだったが、その笑みはやはりどこかしら作り物めいていて、ジェニウスを慄然とさせる。
やはりこの方の心を蝕んだ狂気は、今とて癒えぬままなのかと。
かつて天界の端まで届いていたという大火山の火口(現在の炎獄界。大火山は噴火によってその高さをすでに失っている)から冥界に堕ち、右も左も分からぬ異界でもう二度と会えはせぬであろう故郷の兄弟姉妹たちを憧憬し、呪い、発狂した冥王である。
彼の味わった壮絶な孤独は1000年にも及んだ。冥王が女神ティアーナの愛を得てかろうじて正気を取り戻し、統一にのりだすまでのその長い間、捨て置かれた彼ら魔族は、彼らの手には届くはずのない覇権を巡って不毛な戦争を繰り広げていたのだ。それは遠い昔の話であった。
だがジェニウスは戦のさなか、初めて彼にめぐり会った時には直感をすでに得ていた。
天の神々を罵りながら思慕し、暗闇の淵にうずくまっていたこの美しい若者を、初めて目に入れた時から。
彼こそが、この混沌の世界を治めるべく遣わされた神であるという直感を。
魔族らの呼びかけにも答えずひたすら壮絶な呪詛と嗚咽を繰り返す彼を、救うことができたのは結局のところ天から降りてきた女神ティアーナの愛だけであったし、彼女をもすぐに失って、王となった後もますますその狂気の色は褪せることはなかったのだが……。
畏まるジェニウスを退がらせ、冥王は独り露台に立つ。
手すりに身を預け、暗黒界と疑似天の方角をかわるがわる見遣った。
先程ジェニウスに話した「穢れた風」……。
それが視線の先の彼方から感じるものである以上、冥王よりもナシェルの方がその近くにいるはずであった。
だが冥王とてそのような気は初めて感じるのであり、また杞憂かと思うほどそれは幽かなものだった。
自分ですらその程度だ。ナシェルはそれを果たして感じ取っているだろうか……。
大ごとにはしたくないが、精霊が届いておらぬということであれば伝令でも出して呼びつけるべきかもしれぬ。
自分を避けるように疑似天に入り浸るナシェルを、冥王は今のところ自由にさせている。
自分への反抗心から彼がわざとそのような行動をとっているのは明らかだった。
だが冥王にとってはそれは所詮、可愛い悪足掻きに過ぎない。
半身がいらいらと眉を顰め、唇を尖らせながらも結局のところ己の許に戻ってくるのが分かっているからだ。
冥王がたっぷりと長い時間をかけて築き上げた二人だけの檻。それは囚われる半身にとっても本来、居心地のよいものであるはずだった。
気概に満ち溢れたナシェルがそこから抜け出してみようと思い立つのは自由だが、本当に囲みを抜け出した後で、途方もない喪失感を味わうのは目に見えている。
ナシェルがこじあけた檻の枠縁に手をかけて振り返り、さあどうすると己を挑発してくる様を、冥王は感じる。
『私は本気で貴方の囲いを抜け出すつもりだ。
止めるなら今だぞ』と。
冥王にはそれが可笑しくて可愛くて、仕方がない。嬉しくすらある。思わず微笑んでしまうのだ。
やってごらん。
その檻を打ち破って、その先に何が見えるのだ?その先にあるのは異端の神としての孤独だけだ。
余は1000年にも及ぶ孤独の狂気を繰り返しそなたに語ってきた。
今やそなたの心にもその壮絶な孤独への恐怖は、まるで己自身で味わったもののように根付いているはず。
それを味わいに往くつもりか?
神々の異端児であった余と、その映し身であるそなた……。
我々は二人きりであるのに?
余を置いて独りでその先へ行くなど、出来はすまい。そなたは母譲りの優しい心の持ち主だから。
そなたは全く余の思い通りに育ってくれた。
余の愛するのはそなたのそうした素晴らしい覇気と優しさだ。
胸の裡にある気高き矜持、しなやかな獣の如き野生、そなたを支配する余への憎しみと反発心。
そして藍青の瞳の奥に秘められた余への畏敬と愛欲。
そういうそなたの全ての気性を余は愛している。
そうなるように育てたのだから。
檻から抜け出すことを本当に望んでいるのか? そうではあるまい。
そなたは余が取り乱し、引きとめ、愛を得るために必死になる姿が見たいだけなのだろう。
まったく、可愛いとしか云いようがないよ、そなたは……。
心の中でそう呼びかける冥王の髪を、暗黒界から吹き抜けてきた風が撫でる。
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