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第三部 天 獄
2 暁光に見(まみ)ゆ②
射しはじめた条光が精霊たちの透明な羽に鏡のように反射し、暁の空全体が細氷の如くきらきらと綺羅めく。
干上がった荒野には相応しからぬ、幻想の一場面がサリエルの眼前で繰り広げられていた。
精霊達は女神に接吻し離れるや、命じられるでもなく守りを固めはじめる。
まさしくこれこそがエベールのいう『鍵』。堕神であるサリエルが己で精霊を使役できぬ以上、上位神たるルゥの神司こそが、天に『存在』を気づかせるために必要なのだ。
「サリー……ここどこなの?」
小さな白い手がサリエルの袖を掴み、不安げにぎゅっとしがみついてくる。彼女は夥しい数の精霊をいま支配下にしておきながら、全くそのことには頓着していないのだった。まだ幼い彼女にとって頭上に群れをなす精霊はただの付属品、集めておきながらも、身を守るために使役するという概念はそもそもないのだ。
サリエルは彼女を抱きとめながら髪を優しく撫でた。
「姫様……、地上界まで連れてきてしまったこと、お許し下さい。すべて私の身勝手な想いからなのです……」
「地上界……?」
辛うじて呑み込んだのはその言葉だけだったのか、桃色のふっくらした唇は単語のみをぼんやりと繰り返した。
「ルゥ、やだよ、こんなとこ……。はやくお城に帰ろう。おなかも空いたよ……」
帰りたい第一の理由はそこなのかと一瞬思ったが、まだ語彙の少ない彼女では、この地上界の混沌としたざわめきを嫌悪するのに的確な表現が見つからないのだろう。
「すみません……、もう少し待ってください。誰か天の仲間が気づいて降りてきてくれるまで……」
そうすれば、王女とは永久の別れになる……。
「天の仲間って? 誰のこと?」
「天上界の、神々のことです。姫様、もうじきここで私達はお別れです。
あのとき、消滅しかけていた私を救ってくださったこと、本当に感謝しております。ありがとうございました。そして、折角救って頂いた命ですのに、共に生きてはいかれぬこと……本当に、申し訳ありません」
サリエルは涙を溜め、女神に向かって切々とこうべを垂れる。幼いながらになんとか意味を解しようと努めているのか、ルーシェはただただサリエルの言葉に聞き入っていた。
そうしている間にも暁闇の空は、朝焼けの橙色に徐々に侵食される。
地平の彼方より煌々とした旭日が登りはじめた。疑似天でいつも目にしていた虚構の陽ではない、真実の曙光であった。
まことの光とはこれほどに眩しいものであったのかと、かたや懐かしさに、かたや初対面の朝日のあまりの煌きに、心奪われて思わず目を細めた。
「ねえ、サリエル……」
やがてルーシェが沈黙を破り、翠色の眸を眩しき地平に向けたまま茫然と呟く。
「ねえ……なんか、怖いよ……」
暁光差す地平の彼方に一体なにを感じ取ったのか、セファニア譲りの愛らしい顔に浮かんだのはまたも戦慄の表情だった。サリエルの腕を掴む彼女の指が、かたかたと震えはじめる。
だがもはや神としての司を失って久しいサリエルには、何をも感じ取ることはできぬ。せいぜい精霊の動きが見えるだけだ。
サリエルは虚空を見上げた。頭上に侍る王女の精霊達が、何も命ぜられぬのに左右にざあっと分かれて道を作るのを見た。まるで崇高なものに頭を垂れるが如く。
「ねえ……なんか来るよ? こっちに……!」
王女は這うようにしてサリエルの背後に廻り隠れる。
サリエルもはっきりと、かつての同族の気を察知した。
姫様の大きな気を感じて、誰かがこちらにやって来る……速い……!
それは待ちに待った迎えの前触れであった。
王女の出番はここまでだ。これ以上、世話になった者を巻き込むわけにはいかない。
サリエルは精霊達の作った虚空の道を凝視しながら膝で後ずさり、背後で怯えるルーシェの体を例の『裂け目』のほうに押しやった。
「姫様、本当に今までのこと、ありがとうございました。これでお別れです。
その後ろの岩の下に穴が開いているでしょう。私たちはその裂け目を抜けて来たんです。そこを通れば疑似天に帰れます。
さあ、あの穴に入って、壁伝いに真っ直ぐお行きなさい。今すぐ」
…だがあろうことか王女はサリエルの服を掴んだまま頑として離さぬ。
「嫌だよ、サリーも一緒に帰ろう!」
「姫様、それは無理です。私はあの世界では、生きる糧をもう見出せません……、天に帰るしかないのです」
「どうして? サリーが居なくなったら皆悲しいよ、アシュタルも、イリスも、にいさまたちも、ヴァニオンも!」
「…ッ」
サリエルはその名を聞くなりぐっと眸を閉じて、王女を岩穴のほうへ再度押しやる。
もたもたしてはいられない。
「姫様、お願いです……これ以上ここにいてはいけない。あなたまで彼等と会わせるわけにはいかないんです。云うことを聞いて下さい。退って、あの穴を抜けて行くんです。急いで」
「いや! サリーも帰るの!」
強情に縋る彼女を半ば引きずるようにして、サリエルは岩穴の裂け目のほうに戻った。
「姫様、早く」
「イヤ!」
裂け目の岩穴の前でしばし揉み合う。華奢なサリエルは力いっぱいルーシェにしがみつかれ、彼女を穴の中に押し戻すのに苦労した。
「降りていくんです! 壁をつたって!」
サリエルは王女を暗い岩穴の中に放り出すようにし、喚き出した彼女の声を掻き消すように、半ば懇願するように叫んだ。
「私のことは忘れて! 振り向かずに行ってください!」
さようなら、ルーシェ。私の可愛い女神……!
……だが。
事態はサリエルの思惑ほど甘くはなかった。
必死に王女と揉み合っていたせいで、背後に気配を殺していち早く降り立った者の存在に気づかずにいたのだ。
音も立てず宙天より舞い降りた者は、素早く動いてサリエルの背に、抜き身の剣をぴたりと突きつけた。
「待て、動くな。……両手を挙げてゆっくりこちらを向け」
背中の中央……肩甲骨の間に鋭利な感触を感じつつ、サリエルは息をゆっくりと吸い、目を閉じ、云われたとおりにした。
まだ穴の入り口にはルーシェがいるのだ。ここをどくわけにはいかない……。
早く走り去ってください、姫様!
念じ終え、閉じた目をふたたび開いた。
干上がった荒野には相応しからぬ、幻想の一場面がサリエルの眼前で繰り広げられていた。
精霊達は女神に接吻し離れるや、命じられるでもなく守りを固めはじめる。
まさしくこれこそがエベールのいう『鍵』。堕神であるサリエルが己で精霊を使役できぬ以上、上位神たるルゥの神司こそが、天に『存在』を気づかせるために必要なのだ。
「サリー……ここどこなの?」
小さな白い手がサリエルの袖を掴み、不安げにぎゅっとしがみついてくる。彼女は夥しい数の精霊をいま支配下にしておきながら、全くそのことには頓着していないのだった。まだ幼い彼女にとって頭上に群れをなす精霊はただの付属品、集めておきながらも、身を守るために使役するという概念はそもそもないのだ。
サリエルは彼女を抱きとめながら髪を優しく撫でた。
「姫様……、地上界まで連れてきてしまったこと、お許し下さい。すべて私の身勝手な想いからなのです……」
「地上界……?」
辛うじて呑み込んだのはその言葉だけだったのか、桃色のふっくらした唇は単語のみをぼんやりと繰り返した。
「ルゥ、やだよ、こんなとこ……。はやくお城に帰ろう。おなかも空いたよ……」
帰りたい第一の理由はそこなのかと一瞬思ったが、まだ語彙の少ない彼女では、この地上界の混沌としたざわめきを嫌悪するのに的確な表現が見つからないのだろう。
「すみません……、もう少し待ってください。誰か天の仲間が気づいて降りてきてくれるまで……」
そうすれば、王女とは永久の別れになる……。
「天の仲間って? 誰のこと?」
「天上界の、神々のことです。姫様、もうじきここで私達はお別れです。
あのとき、消滅しかけていた私を救ってくださったこと、本当に感謝しております。ありがとうございました。そして、折角救って頂いた命ですのに、共に生きてはいかれぬこと……本当に、申し訳ありません」
サリエルは涙を溜め、女神に向かって切々とこうべを垂れる。幼いながらになんとか意味を解しようと努めているのか、ルーシェはただただサリエルの言葉に聞き入っていた。
そうしている間にも暁闇の空は、朝焼けの橙色に徐々に侵食される。
地平の彼方より煌々とした旭日が登りはじめた。疑似天でいつも目にしていた虚構の陽ではない、真実の曙光であった。
まことの光とはこれほどに眩しいものであったのかと、かたや懐かしさに、かたや初対面の朝日のあまりの煌きに、心奪われて思わず目を細めた。
「ねえ、サリエル……」
やがてルーシェが沈黙を破り、翠色の眸を眩しき地平に向けたまま茫然と呟く。
「ねえ……なんか、怖いよ……」
暁光差す地平の彼方に一体なにを感じ取ったのか、セファニア譲りの愛らしい顔に浮かんだのはまたも戦慄の表情だった。サリエルの腕を掴む彼女の指が、かたかたと震えはじめる。
だがもはや神としての司を失って久しいサリエルには、何をも感じ取ることはできぬ。せいぜい精霊の動きが見えるだけだ。
サリエルは虚空を見上げた。頭上に侍る王女の精霊達が、何も命ぜられぬのに左右にざあっと分かれて道を作るのを見た。まるで崇高なものに頭を垂れるが如く。
「ねえ……なんか来るよ? こっちに……!」
王女は這うようにしてサリエルの背後に廻り隠れる。
サリエルもはっきりと、かつての同族の気を察知した。
姫様の大きな気を感じて、誰かがこちらにやって来る……速い……!
それは待ちに待った迎えの前触れであった。
王女の出番はここまでだ。これ以上、世話になった者を巻き込むわけにはいかない。
サリエルは精霊達の作った虚空の道を凝視しながら膝で後ずさり、背後で怯えるルーシェの体を例の『裂け目』のほうに押しやった。
「姫様、本当に今までのこと、ありがとうございました。これでお別れです。
その後ろの岩の下に穴が開いているでしょう。私たちはその裂け目を抜けて来たんです。そこを通れば疑似天に帰れます。
さあ、あの穴に入って、壁伝いに真っ直ぐお行きなさい。今すぐ」
…だがあろうことか王女はサリエルの服を掴んだまま頑として離さぬ。
「嫌だよ、サリーも一緒に帰ろう!」
「姫様、それは無理です。私はあの世界では、生きる糧をもう見出せません……、天に帰るしかないのです」
「どうして? サリーが居なくなったら皆悲しいよ、アシュタルも、イリスも、にいさまたちも、ヴァニオンも!」
「…ッ」
サリエルはその名を聞くなりぐっと眸を閉じて、王女を岩穴のほうへ再度押しやる。
もたもたしてはいられない。
「姫様、お願いです……これ以上ここにいてはいけない。あなたまで彼等と会わせるわけにはいかないんです。云うことを聞いて下さい。退って、あの穴を抜けて行くんです。急いで」
「いや! サリーも帰るの!」
強情に縋る彼女を半ば引きずるようにして、サリエルは岩穴の裂け目のほうに戻った。
「姫様、早く」
「イヤ!」
裂け目の岩穴の前でしばし揉み合う。華奢なサリエルは力いっぱいルーシェにしがみつかれ、彼女を穴の中に押し戻すのに苦労した。
「降りていくんです! 壁をつたって!」
サリエルは王女を暗い岩穴の中に放り出すようにし、喚き出した彼女の声を掻き消すように、半ば懇願するように叫んだ。
「私のことは忘れて! 振り向かずに行ってください!」
さようなら、ルーシェ。私の可愛い女神……!
……だが。
事態はサリエルの思惑ほど甘くはなかった。
必死に王女と揉み合っていたせいで、背後に気配を殺していち早く降り立った者の存在に気づかずにいたのだ。
音も立てず宙天より舞い降りた者は、素早く動いてサリエルの背に、抜き身の剣をぴたりと突きつけた。
「待て、動くな。……両手を挙げてゆっくりこちらを向け」
背中の中央……肩甲骨の間に鋭利な感触を感じつつ、サリエルは息をゆっくりと吸い、目を閉じ、云われたとおりにした。
まだ穴の入り口にはルーシェがいるのだ。ここをどくわけにはいかない……。
早く走り去ってください、姫様!
念じ終え、閉じた目をふたたび開いた。
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