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第三部 天 獄
19虜囚②
もやもやと再び微睡に落ちたナシェルは、白い迷宮に舞い戻る。
もはや追おうにもセフィの姿はどこにもなく、己をつかまえて罰してくれるかにみえた冥王の非情な手もまた、闇ごと消滅していた。
ナシェルは肩の激痛に膝をつき、限りなく続く光道のあまりの明るさに吐き気を催し、屈んで嘔吐いた。
肩の傷口からは未だ、鮮血が溢れてくる。
夢だというのにどうしてこうも、痛みや不快感だけははっきりしているのだろう。
壁に片腕をつくが、膝が震え立ち上がることができない。
白壁に向かってうずくまるナシェルの肩に、ふと誰かが触れてきた。
はっと振り返れば、そこに立っていたのは先程消えたはずの、セファニアだった。
(継母上)
驚愕と歓びのあまり、舌が縺れて呼ばわることさえできぬ。
ナシェルは口元を拭いながら汗みずくの顔で見上げた。
目の前に立った女神はあの日の姿のまま……ふっくらとした頬、容のよい唇、長い手足、細くしなやかな胴、控えめな丘を描く胸、波打つ金色の髪に一輪の花を挿して……軽やかな白のドレスを纏い、背後の迷宮に溶け込んでしまうかのように白く輝いている。
だがその白は、決して、ナシェルを吐瀉させたような背景の皓白と同じ要素のものではなかった。
やっと逢えた、というように彼女は微笑んだ。そんな風に笑い掛けられたことはなかった。ナシェルはどんな顔をしてよいか分からずに、茫然と可憐な相貌を見上げた。かつて初めて彼女を目の前にしたとき抱いた感情を思い出した。それまで一時たりとて己を卑下したことのなかったナシェルであるが、こんなにも美しいものを眼の前にしては、その自信は脆くも潰えかける。
この一点の曇りなき英知なる美と対比して、己は何と黒く歪んでいることか、と。
かつて冥王がそう感じていたように。
『じっとしててね……治してあげる』
女神がナシェルの肩の傷に手をかざすと、すうっと痛みが遠のいてゆく。
癒えてゆく傷から、彼女の優しい表情に視線を戻したナシェルは、そこで脳天を突くような衝撃に見舞われる。
群青色の瞳……。己と同じ!
『動かないでね、兄さま』
『……!』
セファニアだと思って追いかけていたものは己が娘であったのだ。
いつかエベールの水晶玉で見た、成長した我が娘。
なんということだろう……継母と、娘を、間違えるなど。
瑞々しい処女神に成長したルーシェは、こともなげにナシェルの肩の傷を癒していく。沈黙の中ナシェルは至近に、年頃に成長した娘の姿を……継母と見まごう容貌を、穴が開くほど見つめていた。
やがて絶大なる癒しの司をして傷を塞ぎ終えると、ルゥはにっこりと笑む。
『さあ、もう大丈夫だよ。行こ!』
明らかにそれは……その屈託のない口調は継母ではなく、ルゥのものだった。
ルゥの手がナシェルの指を掴んで立ち上がらせた。蝕まれていた体に、ルゥのお陰で力が少し、戻ったような気がした。
『……行くとは、どこへ』
『もお、しっかりして兄さま。帰りたいのでしょ? ルゥが出口まで案内してあげる。こっちだよ』
引っ張られるように歩き出すが、ナシェルの足取りはやはり覚束ない。じれったそうに手を離したルゥが、数歩先を踊るような足取りでゆく。鼻歌交じりに…呑気なものだ。
手を貸して欲しかったが、前をゆくルゥはナシェルの腕をさらっとすり抜け、悪戯な微笑みをみせてくるくる回り出す。
両手を広げ、裸足のまま白い床を即興で跳ねる。幼い頃と同じように。
『ルゥ、待ちなさい、……待ってくれ』
ナシェルは霞む意識の中で何とか声を投げた。彼女の快活さと反比例して、己の四肢は気怠さを増す。鉛の負荷を負ったように。
こっちこっちと云いながら、ルゥは遙かに遠ざかって行く。先導役であるはずなのに、あの後ろを省みない足取りは何なのだ。
たくさん血が流れたからだろうか…まだひどく、寒い。足が思うよう運べぬ。土塊のように重い。
ルーシェ、私のだいじな女神。
そんなにも成長したお前はもう気づいているはず、自分の父が誰であるのか……。
なのにお前は未だ、私を兄と呼ぶのだね。
『待ってくれ、ルゥ』
金色の、ぬくもった残香をのこして、彼女は遠ざかる。
澱んでいく愛しい姿へ向け、ナシェルは絞り出すように呼ばわった。
お前まで見失っては、私はもう、この薄気味悪い光の中で再び弱り逝くしかないではないか。
……また激しい落下感に襲われ、叩きつけられるように現に戻る。
びくっと体を震わせ、彼は目覚めた。
全身を硬直させ、あえかな吐息をつきながら、ナシェルは突然脳裏から毟り取られた幻をどうすれば取り戻せるかと、未練がましく愚考を巡らせた。
一呼吸ごとに我に返っていく。
するとずしりと重い現実が伸し掛かってくる。
……夢だ。届かぬ夢。
ルゥの触れた肩が、指が、まだほんのり温かいような気がした。
仄かに残り香がまだ漂っている気さえした。気のせいだろう……、彼女が、ここにいるはずはない。
薄らいでいた意識はやがて完全にナシェルの脳に居どころを定めた。
彼は幽かに頭を振りながら慎重に辺りを見回した。
彼は、生白い光で覆われた一室に囚われていた。
みっともなく床の上に仰向けに転がっていたことに気づくが、未だ動くのはやめにする。
だだっ広い部屋だ。調度品すらない。天井は惜しげもなく高く、ドーム状に開いた大窓から、蒼穹と、それを打ち消すほどの太陽光が降り注いで彼を包んで(ある意味、拘束して)いた。
「……焼き殺す気か?」
皮膚が焦がされるのではという日光に、ナシェルは忌々しげに呻いた。擦れた咽喉から久々に声を発したような気がするが、いったい、どれぐらいの時間が過ぎたのか?
それにしても嫌がらせとしか思えない。天の女神の血が混じっているとはいえ、闇の属性を持つ自分に、その状況はあまりにも気力を萎えさせる。夢の中で吐き気を催したのはこの光のせいだろう。
むかむかする感じは消え去るどころか、太陽が天頂に近づくにつれ弥増している。
さらに最低な状況と云わしめるのが、実際に彼の体を繋いでいる光の束ならぬ、太い鎖だった。
汗ばんだ額にはりつく前髪を掻きあげようと手を動かして、初めてナシェルはその存在に気づいた。
長い鎖は天井から垂らされ撓んで、床の上で蛇のようにとぐろを巻いている。そしてその大蛇のような鎖が彼の左手首に噛み付いているのだ。
猛獣でも繋いでいるかのような厳重な扱いに、ナシェルは不愉快を通り越してむしろ失笑した。
そして、当分動かすのは無理だろうとあきらめていた右腕を試しに持ち上げてみて、驚いた。
多少引き攣れるような感覚はあるが、充分動く。そして貫かれたときのあの、灼熱の痛みはどこかへ消えていた。
「……!?」
ナシェルは弾かれるように上体を起こし、たしかに負ったはずの肩の槍傷を確めるべく、己の躯に視線を落とした。
血まみれだった黒衣はいつの間にか脱がされ、代わりに在り合わせらしい白い前あわせの襯衣がボタンも留めずに羽織らされていた。下服は自分の物を穿いているが、それには乾いた血糊が点々とこびりついている。
はだけた襯衣の前袷せから左手を忍び込ませ、右肩の傷に触れてみた。
「……!」
傷口が、塞がっている。
何故だ。いくら長時間気を失っていたとはいえ、肩に開いたあの大穴が塞がるほど長く眠っては、おらぬはず。なぜ、癒えている?
脳裏に浮かぶのは、夢の中でルゥが肩にかざした、癒しの手。
まさか。あれは夢だ。夢の中の出来事だった。いくらルゥでも遠く離れた己を夢ごしに癒すなど出来はすまい。それに第一まだルゥは、ほんの小さな子供だ。
……とある可能性に思いを来たし、ナシェルは内心で必死にそれを否定する。
自分が地上界の荒野で神々と対峙し、敗れてから、あの場では一体どんな収拾がつけられたのか?
ヴァニオンはどうなったのだ!? ルゥは……サリエルは?
あれらは疑似天に無事帰り着いただろうか?
肩の傷跡をなぞりながら嫌な予感に鬱々としていた処、突如、扉の開く音がした。
全身に緊張が奔る。
「……起きてるみたいだな、丁度いい」
入室してきたのは三人の見知らぬ金髪の男たちであった。――神族!
それを見てナシェルは、はっきりと理解した。
ここは『アルカディア』という名の光の牢獄なのだと。
もはや追おうにもセフィの姿はどこにもなく、己をつかまえて罰してくれるかにみえた冥王の非情な手もまた、闇ごと消滅していた。
ナシェルは肩の激痛に膝をつき、限りなく続く光道のあまりの明るさに吐き気を催し、屈んで嘔吐いた。
肩の傷口からは未だ、鮮血が溢れてくる。
夢だというのにどうしてこうも、痛みや不快感だけははっきりしているのだろう。
壁に片腕をつくが、膝が震え立ち上がることができない。
白壁に向かってうずくまるナシェルの肩に、ふと誰かが触れてきた。
はっと振り返れば、そこに立っていたのは先程消えたはずの、セファニアだった。
(継母上)
驚愕と歓びのあまり、舌が縺れて呼ばわることさえできぬ。
ナシェルは口元を拭いながら汗みずくの顔で見上げた。
目の前に立った女神はあの日の姿のまま……ふっくらとした頬、容のよい唇、長い手足、細くしなやかな胴、控えめな丘を描く胸、波打つ金色の髪に一輪の花を挿して……軽やかな白のドレスを纏い、背後の迷宮に溶け込んでしまうかのように白く輝いている。
だがその白は、決して、ナシェルを吐瀉させたような背景の皓白と同じ要素のものではなかった。
やっと逢えた、というように彼女は微笑んだ。そんな風に笑い掛けられたことはなかった。ナシェルはどんな顔をしてよいか分からずに、茫然と可憐な相貌を見上げた。かつて初めて彼女を目の前にしたとき抱いた感情を思い出した。それまで一時たりとて己を卑下したことのなかったナシェルであるが、こんなにも美しいものを眼の前にしては、その自信は脆くも潰えかける。
この一点の曇りなき英知なる美と対比して、己は何と黒く歪んでいることか、と。
かつて冥王がそう感じていたように。
『じっとしててね……治してあげる』
女神がナシェルの肩の傷に手をかざすと、すうっと痛みが遠のいてゆく。
癒えてゆく傷から、彼女の優しい表情に視線を戻したナシェルは、そこで脳天を突くような衝撃に見舞われる。
群青色の瞳……。己と同じ!
『動かないでね、兄さま』
『……!』
セファニアだと思って追いかけていたものは己が娘であったのだ。
いつかエベールの水晶玉で見た、成長した我が娘。
なんということだろう……継母と、娘を、間違えるなど。
瑞々しい処女神に成長したルーシェは、こともなげにナシェルの肩の傷を癒していく。沈黙の中ナシェルは至近に、年頃に成長した娘の姿を……継母と見まごう容貌を、穴が開くほど見つめていた。
やがて絶大なる癒しの司をして傷を塞ぎ終えると、ルゥはにっこりと笑む。
『さあ、もう大丈夫だよ。行こ!』
明らかにそれは……その屈託のない口調は継母ではなく、ルゥのものだった。
ルゥの手がナシェルの指を掴んで立ち上がらせた。蝕まれていた体に、ルゥのお陰で力が少し、戻ったような気がした。
『……行くとは、どこへ』
『もお、しっかりして兄さま。帰りたいのでしょ? ルゥが出口まで案内してあげる。こっちだよ』
引っ張られるように歩き出すが、ナシェルの足取りはやはり覚束ない。じれったそうに手を離したルゥが、数歩先を踊るような足取りでゆく。鼻歌交じりに…呑気なものだ。
手を貸して欲しかったが、前をゆくルゥはナシェルの腕をさらっとすり抜け、悪戯な微笑みをみせてくるくる回り出す。
両手を広げ、裸足のまま白い床を即興で跳ねる。幼い頃と同じように。
『ルゥ、待ちなさい、……待ってくれ』
ナシェルは霞む意識の中で何とか声を投げた。彼女の快活さと反比例して、己の四肢は気怠さを増す。鉛の負荷を負ったように。
こっちこっちと云いながら、ルゥは遙かに遠ざかって行く。先導役であるはずなのに、あの後ろを省みない足取りは何なのだ。
たくさん血が流れたからだろうか…まだひどく、寒い。足が思うよう運べぬ。土塊のように重い。
ルーシェ、私のだいじな女神。
そんなにも成長したお前はもう気づいているはず、自分の父が誰であるのか……。
なのにお前は未だ、私を兄と呼ぶのだね。
『待ってくれ、ルゥ』
金色の、ぬくもった残香をのこして、彼女は遠ざかる。
澱んでいく愛しい姿へ向け、ナシェルは絞り出すように呼ばわった。
お前まで見失っては、私はもう、この薄気味悪い光の中で再び弱り逝くしかないではないか。
……また激しい落下感に襲われ、叩きつけられるように現に戻る。
びくっと体を震わせ、彼は目覚めた。
全身を硬直させ、あえかな吐息をつきながら、ナシェルは突然脳裏から毟り取られた幻をどうすれば取り戻せるかと、未練がましく愚考を巡らせた。
一呼吸ごとに我に返っていく。
するとずしりと重い現実が伸し掛かってくる。
……夢だ。届かぬ夢。
ルゥの触れた肩が、指が、まだほんのり温かいような気がした。
仄かに残り香がまだ漂っている気さえした。気のせいだろう……、彼女が、ここにいるはずはない。
薄らいでいた意識はやがて完全にナシェルの脳に居どころを定めた。
彼は幽かに頭を振りながら慎重に辺りを見回した。
彼は、生白い光で覆われた一室に囚われていた。
みっともなく床の上に仰向けに転がっていたことに気づくが、未だ動くのはやめにする。
だだっ広い部屋だ。調度品すらない。天井は惜しげもなく高く、ドーム状に開いた大窓から、蒼穹と、それを打ち消すほどの太陽光が降り注いで彼を包んで(ある意味、拘束して)いた。
「……焼き殺す気か?」
皮膚が焦がされるのではという日光に、ナシェルは忌々しげに呻いた。擦れた咽喉から久々に声を発したような気がするが、いったい、どれぐらいの時間が過ぎたのか?
それにしても嫌がらせとしか思えない。天の女神の血が混じっているとはいえ、闇の属性を持つ自分に、その状況はあまりにも気力を萎えさせる。夢の中で吐き気を催したのはこの光のせいだろう。
むかむかする感じは消え去るどころか、太陽が天頂に近づくにつれ弥増している。
さらに最低な状況と云わしめるのが、実際に彼の体を繋いでいる光の束ならぬ、太い鎖だった。
汗ばんだ額にはりつく前髪を掻きあげようと手を動かして、初めてナシェルはその存在に気づいた。
長い鎖は天井から垂らされ撓んで、床の上で蛇のようにとぐろを巻いている。そしてその大蛇のような鎖が彼の左手首に噛み付いているのだ。
猛獣でも繋いでいるかのような厳重な扱いに、ナシェルは不愉快を通り越してむしろ失笑した。
そして、当分動かすのは無理だろうとあきらめていた右腕を試しに持ち上げてみて、驚いた。
多少引き攣れるような感覚はあるが、充分動く。そして貫かれたときのあの、灼熱の痛みはどこかへ消えていた。
「……!?」
ナシェルは弾かれるように上体を起こし、たしかに負ったはずの肩の槍傷を確めるべく、己の躯に視線を落とした。
血まみれだった黒衣はいつの間にか脱がされ、代わりに在り合わせらしい白い前あわせの襯衣がボタンも留めずに羽織らされていた。下服は自分の物を穿いているが、それには乾いた血糊が点々とこびりついている。
はだけた襯衣の前袷せから左手を忍び込ませ、右肩の傷に触れてみた。
「……!」
傷口が、塞がっている。
何故だ。いくら長時間気を失っていたとはいえ、肩に開いたあの大穴が塞がるほど長く眠っては、おらぬはず。なぜ、癒えている?
脳裏に浮かぶのは、夢の中でルゥが肩にかざした、癒しの手。
まさか。あれは夢だ。夢の中の出来事だった。いくらルゥでも遠く離れた己を夢ごしに癒すなど出来はすまい。それに第一まだルゥは、ほんの小さな子供だ。
……とある可能性に思いを来たし、ナシェルは内心で必死にそれを否定する。
自分が地上界の荒野で神々と対峙し、敗れてから、あの場では一体どんな収拾がつけられたのか?
ヴァニオンはどうなったのだ!? ルゥは……サリエルは?
あれらは疑似天に無事帰り着いただろうか?
肩の傷跡をなぞりながら嫌な予感に鬱々としていた処、突如、扉の開く音がした。
全身に緊張が奔る。
「……起きてるみたいだな、丁度いい」
入室してきたのは三人の見知らぬ金髪の男たちであった。――神族!
それを見てナシェルは、はっきりと理解した。
ここは『アルカディア』という名の光の牢獄なのだと。
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