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第三部 天 獄
33焦燥③
「そなたごときと交わす刃などない。余と一対一の手合わせが、消滅する前の最期の望みだったのならば残念だが希望には添えぬ。威勢よい名乗りも無駄であったな」
「な……っ!」
絶句した狩猟神は、次の瞬間、馬の腹を蹴って冥王に肉迫した。
「云わせておけばッ!」
「陛下!!」
剣を構えすらせぬ王に、周囲から悲鳴に似た叫声が上がる。
冥王が俯き加減の紅玉の眼差しを上げると同時に、すっと剣先が動いた。だが、迫りくる斬撃を受け止める動作ではなく、王は静かに高々と剣を差し上げたのだ。
剣から、闇が湧き起こった。
壮麗にして暗澹たる闇が――戦いに疲弊し、血を流し、斃れた魔族たちの万という魂を一瞬にして安んじるほどの凄まじい闇が――溢れ、たちまち砦を包み込んだ。
砦だけではない。その闇の神司はおそらく冥界の最奥にまで波動となって届いたことだろう。
ベレス神の口から絶叫が迸った。至近に迫っていた男神は、その闇の力を真っ向から全身に受けたのだ。絶叫しながらその神なる肉体が、火に炙られたようにどす黒く変質していく様が、アシュレイドの目にははっきりと見えた。
「ぎぃあああああぁぁぁ……!」
アシュレイドは瞬きをも忘れ、神が絶命していくそのさまを見つめていた。いや、目を逸らしたくとも眦一つ動かせなかった、という方が正しいか。
白い騎馬が苦悶によろけるのと、闇嶺がその力強い脚で地を蹴るのとはほぼ同時であった。
無駄のない動きでベレス神の懐に躍り込んだ冥王は、一度きりの、嵐のような、かつ涼やかな斬撃を見舞った。
磨き上げられた神剣の切っ先は、王の闇の神司を稲妻のように迸らせながら次の瞬間深々と、ベレス神の胴を抉っている。
おぞましい声を上げながら、神が、乗っていた白天馬ごとどうとその場に斃れ伏した。
…その闘いもまた、一騎討ちというにはあまりに片方に主導権の偏りすぎたものであった。
その場にあってこの闘いを見つめていた者は皆、王の創り出したその闇が、戦いの終結を運んできたのだと悟り恍惚の波にしばし呑まれていた。しかし同時に冥王の神司のあまりの威圧感に恐怖を覚え皆へたり込み、立ち上がろうとする者さえおらぬ。
アシュレイドとて、数瞬の呆然ののちようやく、神の骸からなんとか視線を引き剥がすことができたほどである。
「……余がこの地に逃げ隠れただと? 余がかつてどれほど故郷の同族を、恋うておったと……」
冥王の紅玉の双眸が、冷やかな怒りの炎を宿したまま、無礼な神の骸に注がれていた。
目の前の神だけではない。
そこかしこで闘いの震央となっていた神々が、冥王の闇の波動を受けたちどころに苦悶していく。
冥王は畏怖という名の静寂に包まれた砦上から、闇嶺の腹を蹴って宙へと翔けあがり、その優美な象牙色の手で次々と弱った神らに引導を渡していった。あれほどの熾闘の結末にしては呆気ないほどの、数瞬の幕引きであった。
神々が運んできた異界の光は、冥王の発する静謐な闇によって一瞬にして滅却しつくされ、もはやかけらも残ってはおらぬ。光によって侵されかけた世界は、闇神の手によって再び夜の蓋でおおわれ、秩序を取り戻した。
眷属たる精霊たちも、いまや戦歌を歌ってはいない。数十億という数に膨れ上がった彼らは黙し、ただ宙空にぬかづくようにして主神の下知を待っていた。
王馬・闇嶺は力強い翼のはためきと共に、再び砦上に降り立った。
ものの数瞬で十ほどもいた神々を粉砕し消滅させた王であったが、一気に神司を発揮させた反動は大きかったようで、馬を降りたアシュレイドが駆け寄り拝跪したときには、しばらくそれにも気付かぬ様子で佇み、僅かに弾んだ息を整えている。
「陛下……、」
辺りは深々と静まりかえっていた。時折、重傷を負った兵らの呻き声が発されるばかりの砦上に、アシュレイドの呼びかけのみがやけに大きく響く。
生き残った兵らは畏れのあまり半ば腰を抜かし、拝跪すら忘れていた。
「皆、陛下の御前であるぞ!」
「よい。負傷者が先だ……」
馬上から響いた冥王の声が、そうアシュレイドを制した。
「そなたも、早急に被害を纏め報告せよ。取り敢えずは、この砦の被害状況だ。1号、2号砦にも至急部隊を送れ」
「は!」
宣下を得て立ち上がったアシュレイドは、死んだ神の骸に躓きかけ立ち止まった。
この冥界を侵略しようとした敵とはいえ、王と同じ種族……、神族である。この遺体をどう扱うべきか一瞬迷ったアシュレイドに応えるように、王が言葉を投げてくる。
「捨て置けばよい……、アシュレイド。我ら神はな、誰の手も煩わすことなく己の骸をおのれで片付けることができるようになっておる」
聞き返してもよいものか判らず、アシュレイドは冥王を振り仰ぐ。己の骸を、己で片付けるとは?
冥王の、骸を見下ろす瞳は、燃える深紅色でありながら凍てつくように寒々しい。
「じきにそれも、砂塵と化すであろう。異邦の風に舞い、この血臭に満ちた荒野に散じればよいのだ。愚かな侵略者には似合いの葬送であろう。神だからと丁重な埋葬は無用だ」
「砂塵……」
すると神の骸は死したのち、塵となって消えるのか? 目の前にいる王も、アシュレイドの仕える王子も。魂は創世神のいる上界に転位すると聞くが、躯を葬ることもないとは、上位種族にあるまじき哀れな死にざまではなかろうか……。
唐突にアシュレイドは、安堵のあまり忘れかけていた重大な疑問を、思い起こした。
(殿下は!? 殿下はどうなされたのだ?)
……だが目の前にいる父神の湛える怒気を見よ。神々を瞬殺してなお躯内に収めおけぬ憤懣を、未だ殺気の黒い炎として肩から揺らめきたたせているその姿を。
(殿下はいずこにおわすか!?)
アシュレイドは狼狽しながらも、冥王の憤激の気に呑まれて舌は痺れたように痙攣し、その重大な恐ろしい問いかけをどうしても発することができなかった。
「な……っ!」
絶句した狩猟神は、次の瞬間、馬の腹を蹴って冥王に肉迫した。
「云わせておけばッ!」
「陛下!!」
剣を構えすらせぬ王に、周囲から悲鳴に似た叫声が上がる。
冥王が俯き加減の紅玉の眼差しを上げると同時に、すっと剣先が動いた。だが、迫りくる斬撃を受け止める動作ではなく、王は静かに高々と剣を差し上げたのだ。
剣から、闇が湧き起こった。
壮麗にして暗澹たる闇が――戦いに疲弊し、血を流し、斃れた魔族たちの万という魂を一瞬にして安んじるほどの凄まじい闇が――溢れ、たちまち砦を包み込んだ。
砦だけではない。その闇の神司はおそらく冥界の最奥にまで波動となって届いたことだろう。
ベレス神の口から絶叫が迸った。至近に迫っていた男神は、その闇の力を真っ向から全身に受けたのだ。絶叫しながらその神なる肉体が、火に炙られたようにどす黒く変質していく様が、アシュレイドの目にははっきりと見えた。
「ぎぃあああああぁぁぁ……!」
アシュレイドは瞬きをも忘れ、神が絶命していくそのさまを見つめていた。いや、目を逸らしたくとも眦一つ動かせなかった、という方が正しいか。
白い騎馬が苦悶によろけるのと、闇嶺がその力強い脚で地を蹴るのとはほぼ同時であった。
無駄のない動きでベレス神の懐に躍り込んだ冥王は、一度きりの、嵐のような、かつ涼やかな斬撃を見舞った。
磨き上げられた神剣の切っ先は、王の闇の神司を稲妻のように迸らせながら次の瞬間深々と、ベレス神の胴を抉っている。
おぞましい声を上げながら、神が、乗っていた白天馬ごとどうとその場に斃れ伏した。
…その闘いもまた、一騎討ちというにはあまりに片方に主導権の偏りすぎたものであった。
その場にあってこの闘いを見つめていた者は皆、王の創り出したその闇が、戦いの終結を運んできたのだと悟り恍惚の波にしばし呑まれていた。しかし同時に冥王の神司のあまりの威圧感に恐怖を覚え皆へたり込み、立ち上がろうとする者さえおらぬ。
アシュレイドとて、数瞬の呆然ののちようやく、神の骸からなんとか視線を引き剥がすことができたほどである。
「……余がこの地に逃げ隠れただと? 余がかつてどれほど故郷の同族を、恋うておったと……」
冥王の紅玉の双眸が、冷やかな怒りの炎を宿したまま、無礼な神の骸に注がれていた。
目の前の神だけではない。
そこかしこで闘いの震央となっていた神々が、冥王の闇の波動を受けたちどころに苦悶していく。
冥王は畏怖という名の静寂に包まれた砦上から、闇嶺の腹を蹴って宙へと翔けあがり、その優美な象牙色の手で次々と弱った神らに引導を渡していった。あれほどの熾闘の結末にしては呆気ないほどの、数瞬の幕引きであった。
神々が運んできた異界の光は、冥王の発する静謐な闇によって一瞬にして滅却しつくされ、もはやかけらも残ってはおらぬ。光によって侵されかけた世界は、闇神の手によって再び夜の蓋でおおわれ、秩序を取り戻した。
眷属たる精霊たちも、いまや戦歌を歌ってはいない。数十億という数に膨れ上がった彼らは黙し、ただ宙空にぬかづくようにして主神の下知を待っていた。
王馬・闇嶺は力強い翼のはためきと共に、再び砦上に降り立った。
ものの数瞬で十ほどもいた神々を粉砕し消滅させた王であったが、一気に神司を発揮させた反動は大きかったようで、馬を降りたアシュレイドが駆け寄り拝跪したときには、しばらくそれにも気付かぬ様子で佇み、僅かに弾んだ息を整えている。
「陛下……、」
辺りは深々と静まりかえっていた。時折、重傷を負った兵らの呻き声が発されるばかりの砦上に、アシュレイドの呼びかけのみがやけに大きく響く。
生き残った兵らは畏れのあまり半ば腰を抜かし、拝跪すら忘れていた。
「皆、陛下の御前であるぞ!」
「よい。負傷者が先だ……」
馬上から響いた冥王の声が、そうアシュレイドを制した。
「そなたも、早急に被害を纏め報告せよ。取り敢えずは、この砦の被害状況だ。1号、2号砦にも至急部隊を送れ」
「は!」
宣下を得て立ち上がったアシュレイドは、死んだ神の骸に躓きかけ立ち止まった。
この冥界を侵略しようとした敵とはいえ、王と同じ種族……、神族である。この遺体をどう扱うべきか一瞬迷ったアシュレイドに応えるように、王が言葉を投げてくる。
「捨て置けばよい……、アシュレイド。我ら神はな、誰の手も煩わすことなく己の骸をおのれで片付けることができるようになっておる」
聞き返してもよいものか判らず、アシュレイドは冥王を振り仰ぐ。己の骸を、己で片付けるとは?
冥王の、骸を見下ろす瞳は、燃える深紅色でありながら凍てつくように寒々しい。
「じきにそれも、砂塵と化すであろう。異邦の風に舞い、この血臭に満ちた荒野に散じればよいのだ。愚かな侵略者には似合いの葬送であろう。神だからと丁重な埋葬は無用だ」
「砂塵……」
すると神の骸は死したのち、塵となって消えるのか? 目の前にいる王も、アシュレイドの仕える王子も。魂は創世神のいる上界に転位すると聞くが、躯を葬ることもないとは、上位種族にあるまじき哀れな死にざまではなかろうか……。
唐突にアシュレイドは、安堵のあまり忘れかけていた重大な疑問を、思い起こした。
(殿下は!? 殿下はどうなされたのだ?)
……だが目の前にいる父神の湛える怒気を見よ。神々を瞬殺してなお躯内に収めおけぬ憤懣を、未だ殺気の黒い炎として肩から揺らめきたたせているその姿を。
(殿下はいずこにおわすか!?)
アシュレイドは狼狽しながらも、冥王の憤激の気に呑まれて舌は痺れたように痙攣し、その重大な恐ろしい問いかけをどうしても発することができなかった。
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