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第三部 天 獄
52それぞれの檻②
午後の授業も終わり、子供たちはめいめい迎えの天馬や馬車に乗せられて、それぞれの住む浮遊島へ帰っていく。
ルーシェは他の少女たちとともに先生に呼ばれ、初日からこってりとしぼられた。
大乱闘を演じた少女たちとの間には友誼など到底生まれそうにないが、あの中で唯一乱闘に参加しなかったエゼルだけは、あとでルゥの頬にできたひっかき傷に黙って手布を当ててくれた。ルゥは花精を奪ったことを詫びたが、エゼルは首を振り、怒っていないのだと微笑んだ。
(ちゃんと精霊を使えるようになって、エゼルと花の精を分け合わなくちゃ……)
この少女との間にだけは、友誼を結んでもよいかなと思える。
手布は、菫の優しい香りがした。
「のっけからすさまじい乱闘を演じたそうじゃないか、じゃじゃ馬姫」
「その呼び方、やめてくれない」
とびきり豪華な2頭立ての白天馬の馬車でルゥを迎えにきたのは、何とあのアドリスだった。教室に残っていた他の子供たちが、思いがけない高位の保護者の登場にざわつく中、ルゥは彼の先導で建物を出た。
「4、5人伸したって聞いたぜ? 何云われたか知らないけどさ、先に手を出したのはよくないなぁ。てか何で、代わりに迎えに来ただけのオレまで先生に小言云われなきゃいけないんだろう」
栗毛の青年神は、ルゥの頬の盛大なひっかき傷や体のあちこちに出来たアザを眺めて、不平とは裏腹に今にも笑いだしそうな顔をしている。ルゥは借りた手巾で頬を押さえ、苦虫を噛み潰した。
「ルゥたちを攫ってきたあなたに、そんな説教されたくないもん。そもそもなんであなたが迎えにきたの」
「まあ、伯父貴に頼まれたからだよ」
「……そう、ふうん。なんだ、偉そうにしててもあなた、レオン伯父さまの使いっ走りってわけね」
「うわ……兄妹揃っていちいちムカつくな……。せっかくこのまま兄貴の宮に寄ってやろうと思ってるのに、ナシェルに会いたくないのかよ」
「え、兄さまに!?」
ルゥの表情は一変する。促されるままいそいそと馬車に乗り込んだ。金の象嵌が施された天井つきの豪華な馬車だ。
「あ、でもルゥのこんな顔見たら、暴れたことがバレバレだわ……兄さまに何て云われるかなぁ」
ルゥを座らせて扉を閉めようとしたアドリスは、彼女と眼が合うと一瞬奇妙な顔をした。
「あれ……。お姫さま、なんか最初に会った時と、顔の印象が違うな……なんでだろう?」
「どうせルゥの今の顔、傷だらけでぶさいくですよーだ」
「いや、そういうことじゃなくて……。まあいいや、気のせいかもしんない。帰るぜ」
アドリスは肩を竦め、ルゥの鼻先で、馬車の扉をバタンと閉めた。
扉の内側には身繕い用の鏡が小さく嵌め込まれている。それに名誉の傷痕も鮮やかな自分の顔を映してみて、ルゥはすぐにアドリスの云ったことを理解した。
(目がちがうんだ。ルゥの、瞳の色が、変わっちゃってる……)
生まれてこのかたずっと翠色をしていたはずの瞳。
それは今、深海よりも夜空よりもずっと澄んだ、群青色をしていた。
鏡を、そして自分の顔を、そっと指で触れてみた。
(ルゥの瞳の色。本当はこんなにも、吸い込まれそうな深い色をしていたんだ。
切なくなるぐらいに綺麗な青……。これはにいさまの色だわ……)
初対面の時ルゥをガキ呼ばわりし、大してよく見もしていなかったアドリスが、翠と青……その微妙な目の色の違いを見逃していたのも無理からぬことだろう。
その素晴らしい濃青が、真実の己の出自を示す色であることを、ルゥは幼なながらにはっきりと確信した。
◇◇◇
馬車は天王宮の一角に横づけされ、ルゥはアドリスに連れられて迷路のような王宮を進み、レストルの住居に案内される。
兄神ナシェルは薄暗い部屋の寝台の上に身を起こし、ルゥを出迎えた。
「ルゥ、会いたかった」
「兄さま……」
ナシェルの長く美しい腕が伸ばされ、ルゥが寝台に上がるのを手伝ってくれる。抱きよせられて、ルゥはその腕が心なしか細っていることに気づいた。
白い夜着に身を包んだ兄の姿は、日焼けすることのない白い肌と相俟って、透けるように美しい。ほつれの一切ない艶やかな黒髪は、やはりこの世界の誰と比べても、劣るどころかずっとずっと美しさで勝っているとルゥは思う。
彼はルゥの金の巻き毛に指を埋め、髪に何度も唇を寄せた。
「こんな所まで連れて来られて、さぞ不安だっただろう。元気にしていたか?」
「見てのとおりルゥは元気よ。兄さまこそ、ちゃんとごはん食べてるの?」
「私は大丈夫だよ」
それが本心ではないことぐらい、ルゥにも判る。兄の広い胸に頬を埋めながら、彼女は兄の神司の明らかな弱まりを感じ取っていた。
(やっぱり、この世界はあんまり得意じゃないんだわ……疑似天が、ぎりぎりの線だったのかな)
逆にこの天上界におけるルゥの神司の高まりを感じ取ったのか、ナシェルは彼女の連れている精霊たちを眺めて云う。
「……また今日はたくさん精霊を連れているな」
「うん、まあ色々あって。兄さまのは一匹もいないね」
「仕方がない。この世界には死の精も闇の精もいないからな。それにしてもルゥ、体中が傷だらけではないか」
「はー、そうなの……。実をいうとね……」
ルゥはここに連れて来られてからのこと、とりわけ途方もなく長かった今日一日のことをナシェルに話してきかせた。ほとんどは幼稚園に対する愚痴だ。しかしルゥが同年代の神族の少女たちと素手で闘い、一方的な勝利を収めたと知ると、ナシェルはよくやったと褒めてくれる。
「だが顔にまで傷を創るのはよくない。そなたが何よりまず学ぶべきは美しい闘い方というものだ」
「……そうかなぁ?」
ルゥのひっかき傷の残る頬に指を滑らせ、両手で挟み込み、ルゥの顔を覗き込んだナシェルの表情が、瞬間、僅かに翳った。
「どうしたの、兄さま」
「…………」
(目の色のことに、気づいたんだわ)
ナシェルが躊躇いがちに口を開いたので、ルゥは慌てて先んじた。
「あ、ルゥの目の色、いつのまにかこういう色になってたの。びっくりしちゃった。だからって別に、どうってことはないんだけど」
「ルゥ……そのことだが、そなたに……話しておかねばならないことがあるんだ」
「いいの!」
ルゥは遮った。
「いいの兄さま。何も云わないで。ルゥと兄さまは……今までどおりでいいの。だってそのことで別に誰かが今、困るわけじゃないもん。そうでしょ?」
「ルゥ………」
ナシェルの瞳が見開かれた。二人は暫し、同じ色をした瞳で見つめ合う。
ナシェルは己の娘が、瞳の色から読み取れる真実に気づいたのだと悟り、ルゥはナシェルが、それを悟ったことを察知した。
「何も云わないで。兄さまは今までどおり、ルゥの兄さまでいてくれればいいの」
「…………」
ルゥの頬を挟むナシェルの指はかすかに強張っていた。ルゥは兄の膝の上に置いていた腕を伸ばして顔を近づけた。
(いいの……。あなたが誰であってもいい。ただひとつ大事なのはあなたがルゥの、たいせつな存在っていうこと)
唇が触れ合うと、それだけで感じ取れてしまう。
ナシェルが何かに傷つき、苦しんでいるのが――手に取るように。
それが果たしてこの瞳の色のことと関係しているのかどうかは、わからないけれど。
いや、もしかしたらもっと大きなことかもしれない。彼の……存在自体に関わるような。
だって……こんな姿は初めて見る。こんなに疲れ切っている彼の姿は……。
「兄さま、なにかして欲しいことはある?どこか痛いなら、ルゥに云って」
唇を離したルゥは真剣な眼でナシェルを見上げた。
「……大丈夫だよ、ありがとう」
「うそ、大丈夫じゃない……兄さま、ぜんぜん大丈夫じゃないでしょ? 様子が変だもの」
云い募るルゥを、ナシェルはもぎ離す。
「本当に何ともないんだよ。さあ、もうそろそろ行きなさい、ルゥ。サリエルはどうしているかな……よろしく伝えてくれ」
「兄さま……」
(ルゥが、しっかりしなきゃ。ルゥが、なんとかしてあげなきゃ……兄さまが……)
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