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番外編
湖底の女王①
(幻霧界の離宮での、小さな騒動)
***
死の神ナシェルは、あるとき幻霧の森の湖に舟を浮かべていた。
舳の水乙女の彫像がランタンを掲げて水面を照らしている。
冥王より賜った例のみやびな小舟である。
億劫げに舟べりに左肘を預け、右手で持った何かを舟の外へ出して、ゆらゆらと揺らしている。
眷族である死の精霊達が、ふわふわとあるじに近づいてきて問うた。――御子神よ、その長い棒のようなものは何だ。一体ここで何時間も、そうして何を待っておられるのかと。
王子は眠たそうな口調で答えた。
「これか。これはな、釣り竿というのだ。父上が『この湖で毒々しい赤鼠色をした、不気味な形の大魚が泳ぐのを見たから釣りあげよう』と仰って、そのくせ自分では竿を持たずに私にこんな詰らぬことをさせているのだ。
試しに聞くがお前たち、――ここでそんな大魚を見た事があるか」
精霊たちはいいえ、と首を振る。
王子神は長く嘆息した。
「そうだろう。私もないのだ。この湖にいるのはせいぜい雑魚と、水乙女の一族ぐらいであろう。
私は、そんなものは父上の目の錯覚か、幻覚ではないかと思っている。…千年樹の葉っぱの吸いすぎだ。
しかし父上は、『この湖の黒睡蓮がとつぜん枯れてしまった原因は、あの赤鼠色の大魚ではないかと思う』などと仰せられて一歩も譲られぬ」
そう云われて死の精たちは湖の彼方此方を見廻した。確かに彼らの主神の云う通り、この湖の象徴ともいうべき存在であった黒睡蓮の大輪の花々は枯れ、今は茶枯れた茎と葉だけが残って、湖水の端々に無残に流れ漂っている。
異なことであった。彼らの知る限り、黒睡蓮の枯れた事など一度としてなかったことだ。
あの美しい白亜の離宮のテラスからのぞむには、それはあまりに興を醒まさせる光景だ。一体この湖に何が起こったというのだろう?
本当にあるじの父神の云う通り、その大魚に原因があるのだろうか?
「だから私もこうして父上のお気が済むまで謎解きに付き合っているというわけだ。私も以前よりは随分、温順になったものさ」
王子神は自賛し、また気だるげに舳に寄りかかって、安蘭樹の枝で造られた細い釣り竿を揺らした。
「こんな竿でそんな大物が釣れるとは思えぬのだが、な」
ところで死の精たちの主神のそのまたあるじ、つまり冥王たる闇の神セダルはというと、舟の上でナシェルに釣り糸を垂らさせておいて、己は黒睡蓮の花の枯れた原因を直接探るべくローブを脱ぎ捨てて、湖の中へと潜っていた。
湖底深く潜ってから水面を見上げると、ナシェルの垂らした釣り竿の浮が、魚を誘うようにふわふわと動いているのが見える。
王は優雅に水を掻いて上へ泳ぎ、湖上へ顔を出した。舟の上から半身が痺れを切らしたように話しかけてきた。
「我がきみ……何か原因は掴めましたか」
「未だ分らぬ。しかし常になく水の中もひっそりと鎮まり返っているのだ。普段ならば賑やかな水女たちも何故か姿を現さず、湖底の岩陰にひそんで何やら嘆いておる。悲しみが深いのか余の姿にも気付く素振りもない。ただよゝと泣く声が聞こえてくるのみだ。水の透明度も、心なしか損なわれておる」
王は舟べりに手をかけ、もう片方の手で濡れた黒髪を後ろへ掻きやった。
「赤鼠色の大魚には出会いましたか」
「いや、そなたにそのことを話して以来見かけておらぬ。しかし目の錯覚などではないぞ。あの大魚が、手折った黒睡蓮をくわえて泳いでおるのを余は確かに見た」
「……魚が花なんか喰うものですか。しかしそれが事実だとするならば、餌が細蟹では変でしょう」
「黒睡蓮を餌にせよというのか? とはいえあれはもう、すっかり枯れ尽くしてしまったしな。餌に問題があるというなら、そなたもただ糸を垂れるばかりでなく何か工夫を致せ」
手伝ってやっているのにその云い草は何だとばかり、王子は一瞬面差しに険を差したが、すぐに表情を改めて云った。
「……それにしても水女たちの様子がおかしいのは気になります。そういえば普段なら舟べりに集まってくるものなのに、今日は一匹も姿を見ておりませぬ。父上、彼女らに問うてみてはいかがでしょう」
「簡単に申すが、吾子よ、湖底はかなり深いのだ。さしもの余でも最奥まで潜るには限度がある。もっと若ければ息も長う続こうが……」
暗に交代を求められていることに気づき、王子は釣り竿を握り締め身を固く震わせた。
「都合の良い時だけ年寄ぶるのは止してください。得体の知れない大魚に喰われるかもしれない湖の底に、愛しい世継ぎを行かせようというおつもりですか。私になにかあったらどうします」
「そなたこそ、こういう時だけ蒲柳ぶるのだから。まあ善い、云い出したのは余であるしな。もう少し長く潜ってみるとしよう」
そういうと闇の神は胸郭に深く息を入れ、鵜のように鋭く水中に潜って行った。ナシェルの知る限りにおいて、自分と同じ姿形をしていておまけに精力絶倫であるあの父王が、体の衰えを口にするなどそもそも笑止なのである。この時とて激しく情を交わした後朝のことであるのだから、ナシェルが疲れているのは無理ないことだし、冥王も重ねて“一緒に潜れ”などと無思慮なことは云わぬのであろう。
ナシェルはほっと一安心し、云われた通り釣り餌を変えてみようかと思案しはじめた。
「魚が花を喰い尽くした、か」
ほかに花など何処にある、と他人事のように嘯く王子に、精霊たちが指さす。
御子神よ、ほら見て、千年樹の枝先に白い花が咲いている。
「あれか……。幻花をこんな用途に用いるのはいささか気が引けるが――まあこの際だ、あれを餌にしてみることとしよう。お前たち、摘んできてくれるか。喰べてはならぬぞ、べろべろに酔って前後不覚に陥るからな」
一方、闇の王は湖底を目指して垂直に泳いだ。そして岩場に辿りつくと、めそめそと泣いている水妖族の民たちに語りかけた。
『水女たちよ、何を憂う。水が濁り、黒睡蓮が枯れたことを嘆いておるのか。将又、毒々しい大魚に縄張りを荒らされておるがゆえか?』
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