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番外編
湖底の女王②
水妖たちは冥王の姿に気づくと、その優雅な裸身に縋りついて助けを乞うた。
水妖族たちの申すところによれば、どこからかこの湖に迷い込んできた大魚が黒睡蓮の花を喰らい尽くしたがゆえに、彼女らの族長である“湖底の女王”は愉しみにしていた蜜の養分を得られず、塞ぎ込んで床についてしまったのだ、という。
女王が本来の働きをしなくなったこの湖は、すでに水が濁りはじめ、長引けば他の生物へもますます影響を与えてしまうことになる、と。
しかし大魚はあまりに獰猛で、とても水女たちの適う相手ではなかった。黒睡蓮の養分を得てますます力をつけているようなのだ、という。
『何と……、そなたら一族には女王が居ると申すか』
冥王がまず興味を示したのは湖底に住まうという高貴な女性の存在であった。
水女たちは答えた。はい、冥王様のように歳経ることのない悠久の命を持つ、見目麗しくあでやかなる女王様です、と。
そこで冥王は早速、湖底の女王を救うために水女たちに己を水妖族の湖底城まで案内させることにした。
道中、水女たちが冥王に次々に口づけすると、王は不思議と水中でも楽に息が吸えるようになるのだった。
この湖の底に、かくも絢爛な宮殿が存在していたとは、王とて思いもよらぬことであった。
水女たちに聞けば、本来ならば水妖族のみしか見ることのできぬ隠れ城であるとか。これを視認できるのはひとえに冥王が絶大な神司をもつがゆえである。
水妖とは、冥王ら神族にとっては、取るに足らぬ弱小の妖魔族の類。冥王が彼女らに謙る必要はないとはいえ、一つの妖魔族の長に会うのだから裸というわけにはゆかぬ。冥王は水女たちに着る物を用意させ、藻のような深緑色をした長衣に袖をとおした。
そして色とりどりの円い石の嵌めこまれた、水女の城ならではの装飾に溢れた廊下を歩み、水妖族の女王の寝む間へと通されることとなった。
◇◇◇
そのころナシェルは、父が潜ったままなかなか浮上して来ぬのを訝みはじめていた。
「……おかしい。なかなか上がっておいでにならぬ。例の大魚の餌食になったか? ……まさかな」
ナシェルは父王の神司を感知しようと水底へ向けて神経を砥ぎ澄ませた。微かに父の気配を感じる。あの光神と天冥の二界を分け合う闇神が、まさかこのような所で命を落とすとは思えぬので、無事だとは思うのだが。
「……まさか湖底の川藻に足でも取られているのじゃないだろうな……」
川藻に足をとられて藻掻いている父王の姿を想像し一瞬笑いかけたが笑い事では済まぬ。
急に不安になってきて、ナシェルは釣り竿を放り出して服を脱ぎ、王を捜すために水の中へ飛び込んだ。
しかし捜せども捜せども、水の中に王の姿は無いのである。
「一体、どういうことだ」
水面に顔を上げたナシェルは明らかに自分が狼狽していることを覚った。
「――父上は何処へ消えた?」
ナシェルは、黒くぬめる湖水の中に不穏な気配を感じて一旦舟に上がった。
あわてて服を着て、桟橋に舟をつけて離宮のテラスに戻った。もしものために剣を取りに行ったのである。
テラスから寝室に駆け込み置いてあった二振りの神剣のうち己の剣を取ると、少し迷った末に父神の剣も脇に抱え、再び舟に戻った。
「お前のあるじは一体何処へ行ったのだろうな?」
父神の剣に嵌った紅玉を撫でるが、特に感じ取れる変化はない。
異変を察知して緊張しているナシェルに気づいてか、死の精だけでなく闇の精も湖の周囲に集まりはじめていた。
――王子神よ、我が主は何処へ赴かれたか?
ナシェルは唇に指を当てて闇の精たちを黙らせた。
「それを聞きたいのは私の方だ。しかし案ずるな、父上の気配は消滅してはおらぬ――と、思う」
あるじが消えて不安そうな精霊たちを宥めながら、彼自身とていつにない不安を覚えていた。
剣をいつでも抜けるように傍らにして、水面を注意深く観察する。
すると舟の下を驚くほど大きな黒い物体が、泳ぎ掠めていくのが見て取れた。
一見してもナシェルが両手を拡げたぐらいの大きさはある。鯉のような形だが鰭も鰓も鋭くとがっている。色は確かに父の見たとおり赤鼠色であった。
「! あれが父上の仰っていた大魚か、確かに見間違いでは済まぬ。……というより途轍もない大物ではないか……!」
思わずごくりと唾を呑みこむ。こんな舟戯び用の細い竿を持ちだしたのは端から間違いであった、と、ナシェルは舳にたてかけてある釣り竿に目をやった。
と思うや、突然その釣り竿がガタンと倒れた。尖端が引っ張られて舟縁にひっかかった。ぴいんと釣糸が張っている。
「驚いたな、エサの幻花に本当に喰いつくとは……、!」
針を食んだ大魚が暴れ、船べりに引っ掛かった釣り竿のせいで小舟は大きく右に左に揺れた。ナシェルは抜き身の剣を手に舟の上で蹈鞴を踏む。
大魚は餌の幻花を喰らったせいなのか、盲滅法に暴れはじめていた。
小舟が壊れるのではないかと思うほど激しく体当たりされ、ナシェルは舟の上から放り出されて湖水の中へ落ちた。
この大魚は美しいものを好むのである。この湖の黒睡蓮を喰い尽くしたのも、大魚のふるさとである腐樹界の濁り池には咲いておらぬ美花だったからだ。
――そして大魚は今、花などよりももっと美しい獲物を見つけて狂喜していた。
ナシェルはぶくぶくとした水泡の世界の中で、剣を水平に構え、大口を開けてこちらへ迫ってくる大魚を待ち構えた。そして、鋭い一撃を口から喉の奥へと浴びせてやった。
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