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番外編
湖底の女王④
「……と、いうわけだ。で結局、余はどのぐらいの時間潜っておったのかな」
「ざっと2時間ぐらいでしょうか……」
「なに? 2時間しか経っておらぬとな。すると湖底城での一日はこちらの1時間に相当するというわけだな。それにしても不思議な体験であった……」
冥王は湖底での出来事をしみじみと振り返った。するとナシェルは突然目くじらを立てて怒りだしたのである。
「はあぁ? 何ですって!?」
「……ん?」
「今の、聞き捨てなりませんね陛下! では私の心配をよそに貴方は『二日間も』、水女の国で呑気に歓待を受けておられたということでしょう!」
「あ」
冥王は墓穴を掘ったことを悟ったが、時すでに遅しである。
「……二日間も女ばかりの国で何をしておられたか、白状しなさいっ!」
「女ばかりと云っても、水女どもはあの通りフナ顔の異形ゆえそなたが疑うようなことは何もないよ」
「湖底の女王だけは凄い美貌だったんでしょう!」
「いや、女王はブヨブヨの水のかたまりのようで、じつは実体がなくてだな……」
冥王は、湖底の女王が、こちらが希む姿をとって現れることができるのだということを話して聞かせた。
「余は、そなたの母の姿を自然と思い浮かべていたのだよ。だから女王はその姿で余をもてなしてくれた。ただそれだけだ」
「もてなした……母上の姿で? 単に酌をしただけではありますまい」
「それは……その、」
ナシェルは白状しろと云いながらも、返答に窮しまごつく王のようすを見るや否や、胸倉を掴んで首筋を締め上げにかかった。
「どうせ口に出して話せないようなことをなさっていたんでしょう! 私が心配しているのをよそによくもそんなふしだらなッ!!」
「お……落ち着きなさい。馳走は振る舞われたが誓って何もしておらぬ。遠い昔に死に別れたそなたの母に思いがけず再会したようだった、と話しただけなのに何故余がふしだらなのだ」
「……いやいや私の母じゃないでしょそれは! 水妖族の女王が化けたのだったんでしょうが! 千年樹の粉ばかり吸っているからそんな目くらましにあっさり引っかかるんです!」
ナシェルは王の胸倉から手を離すと、こんどは桟橋の上で服を脱ぎ始めた。
「? そなた何をしておるのだ」
「だいたいあの怪物魚を退治したのは私なんですよ。私の方にこそ歓待を受ける権利がある! 今までの経緯を女王に説明してキスで目覚める所からやり直してもらいます」
「待て待て、そんなことをして一体、何が望みだ?」
「だって水底の女王はこちらの望む姿で現れてくれるのでしょう。だったら私もセファニアの姿をした女王と楽しいことしてくるッ」
「待て待て、待てというに」
冥王は水に飛び込もうとしたナシェルの腕を掴んで辛うじて引き止めた。嫉妬してくれているのは分かるのだが、発散の仕方がいつもながらおかしい。
「そんなことをしても空しさばかりが残るだけだよ。余がここに今抱いている空虚感を、そなたにまで味わわせたくない」
「また、そんな調子の良いことばかり云って……」
冥王は構わず、吾子の体を掻き抱いた。
「湖底の女王は所詮は水女の族長だ、そなたの母にもセフィにも、むろん姫にとてなり得ぬ。吐息は氷のようにつめたいのだ。女王は口付けで余を前後不覚にせしめんとしたが、口付けされればされるほどに余は我に返って、そなたの母を喪った時の悲しみを思い出しただけだ。判るであろう」
「……」
ナシェルは諦めたように体の力を抜いて王に随った。
「……案じていたのです、たとえ二時間といえど私には永劫に感じられた」
「赦しておくれ」
「貴方が居ないと気づいて、私がどれだけ取り乱したか分かりますか」
怒った口調の奥底に、己への恭愛が籠っているのを覚り、冥王は眼を細める。
取り乱し、余を呼んでいたのだね。
――優越感と吾子への慈愛が、胸に満ちてくる。
双神は桟橋からテラスへ、そして開け放たれた掃出し窓から寝室にとって返した。
融け合わさった二つの影が、幾重にも重なった紗幕の奥処でしっとりと動きはじめる頃、湖面ではさっそく水女たちが女王の命を受けて、あたらしい黒睡蓮の種を湖岸の土に撒き始めた。
新しい花が愉しめるまでには数月ほども掛かるであろうが、それは冥王らにとって、さしたる時間ではないのだ。
<追補>
……双神がそのように離宮の寝室で、ふたたび甘く安らかな刻を過ごした後のこと。
離宮に突然の訪問者があった。精霊たちにそれを告げられた冥王は、隣ですやすやと、疲れ切った(だが満足げな)表情で寝入っているナシェルを起こさぬようにして寝室を出、戸口に立ってみずから客人に応対した。
「陛下。御休みのところご宸襟を騒がせ奉り、申し訳ありませぬ」
「なんだ、公爵か……」
客人といってもそれは王の部下の9人の魔族、頼りになる冥界公爵のひとり、一番年若のヴァルトリス公爵ファルクであった。かの者は腐樹界の領主にして毒薬・劇薬類製造の、専門家である。
ここは私的な離宮ゆえ側近たちとて寄り付けぬように、普段人払いしている。公爵とてそれは承知の上であろうのにわざわざ訪ねてきたのは、何が重大事が起こった証か。
「陛下のお耳に入れたき火急の仕儀がございまして、このように罷り越した次第、」
「明日には冥府へ戻ろうと思っていたのだがな。明日まで待てぬのか。話ならば王宮でじっくり聞いてやろうものを」
言外に「王子との甘い時間を割きたくない」と滲ませるのだが、公爵は真剣な面持ちで食い下がった。
「いえ陛下。今この離宮においてこそ聞いて頂かねばなければなりませぬ。というのも――」
冥王はその時になってようやく気づいた。公爵は2名の家僕らしき者を連れていて、それらの者の手にそれぞれ、大きな釣り竿と魚網が握られているのを見て取ったのである。
ヴァルトリス公ファルクが、冥王の疑問を解くように奏上した。
「実は我が領地で飼っておりました巨大魚が一匹、逃げ出しまして、疏水を通ってこの湖に逃げ込んだやもしれぬのです」
「……巨大魚……」
「わたくしがありとあらゆる成長薬を用いて手塩をかけて育てた、世にも珍しい雑食魚なのですが、堰を越えて川へ出て行ってしまったのです。非常に体格が大きく性格が獰猛で、もしこの湖に迷い込んでいれば陛下と殿下に危害が及ぶやもしれませぬ。どうか捜索のご許可を賜りたく――」
「赤鼠色の、花を喰らう魚であろう? それならば、王子が既に退治してしまったよ」
「えっ殿下が……お怪我はありませんでしたか」
「……大丈夫だったが、色々と騒動になった……(首を絞められたり……)」
「それは重ねてお詫び申し上げます、お許しください」
公爵は魚が死んだと聞いて少し安堵の表情を浮かべた。
「実は巨大化しすぎて正直手を焼いていたのです。殿下が始末してくださったのでしたら、一言お礼を申し上げてからおいとましたいと存じますが……」
冥王は少し考え、首を振った。
「――いや、よしておけ。そなたの愛玩魚だったなどとナシェルが知ったら、そなた恐らく今度こそ生きて帰れはすまい」
王はそのようにしてファルクを追い返した。
寝室に戻るとナシェルが起きていて、
「誰か来たのですか。人の声がしましたが――」
と、長い睫毛に縁取られた白いまぶたを擦っている。
「否。気のせいだ……」
冥王は笑いを噛み殺し、後朝の愛撫を施すために、王子の手をとって寝台の上に横たえた。
番外編「湖底の女王」 了
「ざっと2時間ぐらいでしょうか……」
「なに? 2時間しか経っておらぬとな。すると湖底城での一日はこちらの1時間に相当するというわけだな。それにしても不思議な体験であった……」
冥王は湖底での出来事をしみじみと振り返った。するとナシェルは突然目くじらを立てて怒りだしたのである。
「はあぁ? 何ですって!?」
「……ん?」
「今の、聞き捨てなりませんね陛下! では私の心配をよそに貴方は『二日間も』、水女の国で呑気に歓待を受けておられたということでしょう!」
「あ」
冥王は墓穴を掘ったことを悟ったが、時すでに遅しである。
「……二日間も女ばかりの国で何をしておられたか、白状しなさいっ!」
「女ばかりと云っても、水女どもはあの通りフナ顔の異形ゆえそなたが疑うようなことは何もないよ」
「湖底の女王だけは凄い美貌だったんでしょう!」
「いや、女王はブヨブヨの水のかたまりのようで、じつは実体がなくてだな……」
冥王は、湖底の女王が、こちらが希む姿をとって現れることができるのだということを話して聞かせた。
「余は、そなたの母の姿を自然と思い浮かべていたのだよ。だから女王はその姿で余をもてなしてくれた。ただそれだけだ」
「もてなした……母上の姿で? 単に酌をしただけではありますまい」
「それは……その、」
ナシェルは白状しろと云いながらも、返答に窮しまごつく王のようすを見るや否や、胸倉を掴んで首筋を締め上げにかかった。
「どうせ口に出して話せないようなことをなさっていたんでしょう! 私が心配しているのをよそによくもそんなふしだらなッ!!」
「お……落ち着きなさい。馳走は振る舞われたが誓って何もしておらぬ。遠い昔に死に別れたそなたの母に思いがけず再会したようだった、と話しただけなのに何故余がふしだらなのだ」
「……いやいや私の母じゃないでしょそれは! 水妖族の女王が化けたのだったんでしょうが! 千年樹の粉ばかり吸っているからそんな目くらましにあっさり引っかかるんです!」
ナシェルは王の胸倉から手を離すと、こんどは桟橋の上で服を脱ぎ始めた。
「? そなた何をしておるのだ」
「だいたいあの怪物魚を退治したのは私なんですよ。私の方にこそ歓待を受ける権利がある! 今までの経緯を女王に説明してキスで目覚める所からやり直してもらいます」
「待て待て、そんなことをして一体、何が望みだ?」
「だって水底の女王はこちらの望む姿で現れてくれるのでしょう。だったら私もセファニアの姿をした女王と楽しいことしてくるッ」
「待て待て、待てというに」
冥王は水に飛び込もうとしたナシェルの腕を掴んで辛うじて引き止めた。嫉妬してくれているのは分かるのだが、発散の仕方がいつもながらおかしい。
「そんなことをしても空しさばかりが残るだけだよ。余がここに今抱いている空虚感を、そなたにまで味わわせたくない」
「また、そんな調子の良いことばかり云って……」
冥王は構わず、吾子の体を掻き抱いた。
「湖底の女王は所詮は水女の族長だ、そなたの母にもセフィにも、むろん姫にとてなり得ぬ。吐息は氷のようにつめたいのだ。女王は口付けで余を前後不覚にせしめんとしたが、口付けされればされるほどに余は我に返って、そなたの母を喪った時の悲しみを思い出しただけだ。判るであろう」
「……」
ナシェルは諦めたように体の力を抜いて王に随った。
「……案じていたのです、たとえ二時間といえど私には永劫に感じられた」
「赦しておくれ」
「貴方が居ないと気づいて、私がどれだけ取り乱したか分かりますか」
怒った口調の奥底に、己への恭愛が籠っているのを覚り、冥王は眼を細める。
取り乱し、余を呼んでいたのだね。
――優越感と吾子への慈愛が、胸に満ちてくる。
双神は桟橋からテラスへ、そして開け放たれた掃出し窓から寝室にとって返した。
融け合わさった二つの影が、幾重にも重なった紗幕の奥処でしっとりと動きはじめる頃、湖面ではさっそく水女たちが女王の命を受けて、あたらしい黒睡蓮の種を湖岸の土に撒き始めた。
新しい花が愉しめるまでには数月ほども掛かるであろうが、それは冥王らにとって、さしたる時間ではないのだ。
<追補>
……双神がそのように離宮の寝室で、ふたたび甘く安らかな刻を過ごした後のこと。
離宮に突然の訪問者があった。精霊たちにそれを告げられた冥王は、隣ですやすやと、疲れ切った(だが満足げな)表情で寝入っているナシェルを起こさぬようにして寝室を出、戸口に立ってみずから客人に応対した。
「陛下。御休みのところご宸襟を騒がせ奉り、申し訳ありませぬ」
「なんだ、公爵か……」
客人といってもそれは王の部下の9人の魔族、頼りになる冥界公爵のひとり、一番年若のヴァルトリス公爵ファルクであった。かの者は腐樹界の領主にして毒薬・劇薬類製造の、専門家である。
ここは私的な離宮ゆえ側近たちとて寄り付けぬように、普段人払いしている。公爵とてそれは承知の上であろうのにわざわざ訪ねてきたのは、何が重大事が起こった証か。
「陛下のお耳に入れたき火急の仕儀がございまして、このように罷り越した次第、」
「明日には冥府へ戻ろうと思っていたのだがな。明日まで待てぬのか。話ならば王宮でじっくり聞いてやろうものを」
言外に「王子との甘い時間を割きたくない」と滲ませるのだが、公爵は真剣な面持ちで食い下がった。
「いえ陛下。今この離宮においてこそ聞いて頂かねばなければなりませぬ。というのも――」
冥王はその時になってようやく気づいた。公爵は2名の家僕らしき者を連れていて、それらの者の手にそれぞれ、大きな釣り竿と魚網が握られているのを見て取ったのである。
ヴァルトリス公ファルクが、冥王の疑問を解くように奏上した。
「実は我が領地で飼っておりました巨大魚が一匹、逃げ出しまして、疏水を通ってこの湖に逃げ込んだやもしれぬのです」
「……巨大魚……」
「わたくしがありとあらゆる成長薬を用いて手塩をかけて育てた、世にも珍しい雑食魚なのですが、堰を越えて川へ出て行ってしまったのです。非常に体格が大きく性格が獰猛で、もしこの湖に迷い込んでいれば陛下と殿下に危害が及ぶやもしれませぬ。どうか捜索のご許可を賜りたく――」
「赤鼠色の、花を喰らう魚であろう? それならば、王子が既に退治してしまったよ」
「えっ殿下が……お怪我はありませんでしたか」
「……大丈夫だったが、色々と騒動になった……(首を絞められたり……)」
「それは重ねてお詫び申し上げます、お許しください」
公爵は魚が死んだと聞いて少し安堵の表情を浮かべた。
「実は巨大化しすぎて正直手を焼いていたのです。殿下が始末してくださったのでしたら、一言お礼を申し上げてからおいとましたいと存じますが……」
冥王は少し考え、首を振った。
「――いや、よしておけ。そなたの愛玩魚だったなどとナシェルが知ったら、そなた恐らく今度こそ生きて帰れはすまい」
王はそのようにしてファルクを追い返した。
寝室に戻るとナシェルが起きていて、
「誰か来たのですか。人の声がしましたが――」
と、長い睫毛に縁取られた白いまぶたを擦っている。
「否。気のせいだ……」
冥王は笑いを噛み殺し、後朝の愛撫を施すために、王子の手をとって寝台の上に横たえた。
番外編「湖底の女王」 了
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