泉界のアリア

佐宗

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番外編

ヴェルベットの闇①

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(ごく初期の番外編です。ナシェルがツンデレ)




◇◇◇





 それは幾億の夜半よわにも増して崇高な、あでやかな宵であった。

  とおく暗黒界の方角から吹き荒んでくるはずのなまぐさい風はこの夜、いつになく凪ぎ、殷賑の都は閑寂とした闇に包み込まれている。

  星無き宙。まるで今にも覆い被さって来そうな、重たい瘴気の雲。
  それらはこの混沌の世界に於けるありふれた情景であるが、今宵はそれに加えて、思わず耳鳴りを錯覚するほどの、息苦しいまでの静寂があった。

  零下にまで落ち込んだ大気は、都通りを行くうらぶれた魔族たちの息を、白くこごらせた。



  泉下の全土を統べる王は、その深々とした夜辺、
  彼の愛してやまぬ半身をひさかたぶりに傍らに招致まねいて、満悦であった。

  暖炉には双神のために燠火おきびが点され、
  ぱちぱちと炭の爆ぜる音が耳に心地よい。
  外との気温差でかすかに結露の降りた螺鈿細工の窓辺には、闇の精霊たちと死の精霊たちがそれぞれ領土を主張するようにひしめきあい、神々の対局の行末を巡ってひそひそと云い争う。

  ――今宵の軍配はさてどちらの主神に。



  卓上に置かれた駒盤を挟んで向き合うのは、鏡のような双面の男神。
  それぞれ銀の糸で織られた厚手の長衣を纏っている。

  片方はその上に濃紫色の蘭花模様のローブを重ね着し、豊かな黒髪を背の中央でゆるく纏めて、絹の髪紐と共に椅子の下にまで垂らしている。
  睡る前の寛いだひとときゆえ、指に嵌めた大きな紅玉ルビー以外に身を飾る宝飾品はないが、その神の存在自体の美の精緻の前には、そもそも装飾など蛇足。
  指輪と同じ色をした瞳は、さきほどから駒盤を見つめるよりもむしろ、その斜め上にある愛しい顔を眺める時間の方が長いようだ。

 もう一方の神は、灰色の毛長織の襟巻に首を埋め、片割れと同じ長さの黒髪は結わえることなく肩から前へ流している。
 白皙の容貌をほんのりと酔い染め、こちらも寛いだ様子。
 ひじ掛けの上では、長衣のふくらんだ袖に右の手首をしまって、奪った手駒をかちりかちりと指で玩ぶ。
 少し、重たい瞬きを繰り返す。
 緩慢な、無防備な仕草。
 しかしその瞼の発する何気ない艶めかしさを、自覚してはおらぬ。
 椅子にはすに腰かけ、金縁の背凭れに行儀悪く片肘をあずけて、ときに半身と視線を交し、相手の次の手を探るのだが、そうした一挙一動の全てが、相手に瓜二つ。

 冥府の王と、死の神である。

  おもむろに、肘掛けに置かれた死神ナシェルの手指が小さく揺れ、その動きと呼応するように、盤上の【騎士】の駒が音もなく歩を進める。
  駒を動かしている『見えない手』は、云わずもがな彼のしもべ達であった。
  精霊たちにそうして駒を動かさせておいて、彼自身は口唇にかるく指先を当て、『ふぁぁ…』と目尻に小さな涙の粒を溜める。
 そろそろ勝敗のつかぬ盤駒にも厭いて、眠たくなってきていた。

 酒肴と雑談を交じえた、こうした攻防は、昨今ではなかなか終局を迎えるのに時間がかかってしまう。
 今や力量はほぼ互角。

 昔であれば、こらえ症のない己が駒を猛進させて返り討ちに遭っていたか、はたまた持久戦に持ち込まれ、集中力を切らした所を一網打尽にされていたか。
 どちらにしろ盤の上の世界に於いてさえ、寝所の中と同じように降伏させられることが多かった。
 それが今はどうだ。こうして決着のつかぬこともしばしば。
 時には戦巧者の王を破ることもある。
 成長の証だと王は云うが、ナシェルは昨今の盤駒の勝敗比率にさえ様々に思いを散らさざるを得ぬ。
 
 自分が成長したかどうかは、よくわからない。
 王が衰えたという可能性は?
 まさかな。目の前にあるこの溌剌した見目のどこに、衰えなど感じられる?

 それよりも、たとえば……。
 王が私をわざと勝たせているという可能性は?

 王はそうやって、私に世継であることの自覚を持てと促しているつもりなのかもしれない。
 つまり王の負けは、私がそのような思考に至るよう、王によって巧みに誘導された結果なのかもしれぬ。

  私は勝利さえ、うまく錯覚させられているだけで、
  実は彼によって時おり勝たされているに過ぎないのかも。
  本当は、数十歩以上先の手を読みこなすことのできる彼によって、
  この盤駒ゲームの始まりから終わりまでの全てを、既に仕切られてしまっているのかもしれない。
  私自身の……これまでの生と同様に。

  そういう疑惑に思いを致すと、とたんに眠気が遠ざかってゆく気がする。
  ナシェルは欠伸あくびするのをやめ、目を眇め、無言のままセダルの美しい相貌を見つめた。
  なんらかの真意を測ろうと、彼の紅の瞳をじっくりと観察してもみた。



  冥王はこともなげに闇の精霊を使って自軍の駒を動かすと、肘掛けに肘をつき、少し貌を傾げて、そんな半身の様子を面白そうに冷笑まじりに眺める。

 「何だ、どうしたナシェル。ほらまた、そなたの番だぞ」

  ナシェルの眉間の皺が深く刻まれてゆくにつれ王は破顔してゆき、最後にはとうとう肩を小刻みにくつくつと揺らし出した。

 「……何が可笑しいのです?」
 「何って。そなたの表情がころころと、めまぐるしく変わるのが面白いからだ。
  さっきまで手駒を増やして上機嫌に酔っていたかと思えば今はもう、そのような仏頂面で余を睨んでおる。
  しかも、どういう思考を経てそうなったか、あながち当てられなくもない所が、実に可笑しい」


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