文字の大きさ
大
中
小
214 / 262
番外編
ヴェルベットの闇①
(ごく初期の番外編です。ナシェルがツンデレ)
◇◇◇
それは幾億の夜半にも増して崇高な、あでやかな宵であった。
とおく暗黒界の方角から吹き荒んでくるはずの腥い風はこの夜、いつになく凪ぎ、殷賑の都は閑寂とした闇に包み込まれている。
星無き宙。まるで今にも覆い被さって来そうな、重たい瘴気の雲。
それらはこの混沌の世界に於けるありふれた情景であるが、今宵はそれに加えて、思わず耳鳴りを錯覚するほどの、息苦しいまでの静寂があった。
零下にまで落ち込んだ大気は、都通りを行くうらぶれた魔族たちの息を、白くこごらせた。
泉下の全土を統べる王は、その深々とした夜辺、
彼の愛してやまぬ半身をひさかたぶりに傍らに招致いて、満悦であった。
暖炉には双神のために燠火が点され、
ぱちぱちと炭の爆ぜる音が耳に心地よい。
外との気温差でかすかに結露の降りた螺鈿細工の窓辺には、闇の精霊たちと死の精霊たちがそれぞれ領土を主張するようにひしめきあい、神々の対局の行末を巡ってひそひそと云い争う。
――今宵の軍配はさてどちらの主神に。
卓上に置かれた駒盤を挟んで向き合うのは、鏡のような双面の男神。
それぞれ銀の糸で織られた厚手の長衣を纏っている。
片方はその上に濃紫色の蘭花模様のローブを重ね着し、豊かな黒髪を背の中央でゆるく纏めて、絹の髪紐と共に椅子の下にまで垂らしている。
睡る前の寛いだひとときゆえ、指に嵌めた大きな紅玉以外に身を飾る宝飾品はないが、その神の存在自体の美の精緻の前には、そもそも装飾など蛇足。
指輪と同じ色をした瞳は、さきほどから駒盤を見つめるよりもむしろ、その斜め上にある愛しい顔を眺める時間の方が長いようだ。
もう一方の神は、灰色の毛長織の襟巻に首を埋め、片割れと同じ長さの黒髪は結わえることなく肩から前へ流している。
白皙の容貌をほんのりと酔い染め、こちらも寛いだ様子。
ひじ掛けの上では、長衣のふくらんだ袖に右の手首をしまって、奪った手駒をかちりかちりと指で玩ぶ。
少し、重たい瞬きを繰り返す。
緩慢な、無防備な仕草。
しかしその瞼の発する何気ない艶めかしさを、自覚してはおらぬ。
椅子に斜に腰かけ、金縁の背凭れに行儀悪く片肘をあずけて、ときに半身と視線を交し、相手の次の手を探るのだが、そうした一挙一動の全てが、相手に瓜二つ。
冥府の王と、死の神である。
おもむろに、肘掛けに置かれた死神の手指が小さく揺れ、その動きと呼応するように、盤上の【騎士】の駒が音もなく歩を進める。
駒を動かしている『見えない手』は、云わずもがな彼のしもべ達であった。
精霊たちにそうして駒を動かさせておいて、彼自身は口唇にかるく指先を当て、『ふぁぁ…』と目尻に小さな涙の粒を溜める。
そろそろ勝敗のつかぬ盤駒にも厭いて、眠たくなってきていた。
酒肴と雑談を交じえた、こうした攻防は、昨今ではなかなか終局を迎えるのに時間がかかってしまう。
今や力量はほぼ互角。
昔であれば、こらえ症のない己が駒を猛進させて返り討ちに遭っていたか、はたまた持久戦に持ち込まれ、集中力を切らした所を一網打尽にされていたか。
どちらにしろ盤の上の世界に於いてさえ、寝所の中と同じように降伏させられることが多かった。
それが今はどうだ。こうして決着のつかぬこともしばしば。
時には戦巧者の王を破ることもある。
成長の証だと王は云うが、ナシェルは昨今の盤駒の勝敗比率にさえ様々に思いを散らさざるを得ぬ。
自分が成長したかどうかは、よくわからない。
王が衰えたという可能性は?
まさかな。目の前にあるこの溌剌した見目のどこに、衰えなど感じられる?
それよりも、たとえば……。
王が私をわざと勝たせているという可能性は?
王はそうやって、私に世継であることの自覚を持てと促しているつもりなのかもしれない。
つまり王の負けは、私がそのような思考に至るよう、王によって巧みに誘導された結果なのかもしれぬ。
私はたまの勝利さえ、うまく錯覚させられているだけで、
実は彼によって時おり勝たされているに過ぎないのかも。
本当は、数十歩以上先の手を読みこなすことのできる彼によって、
この盤駒の始まりから終わりまでの全てを、既に仕切られてしまっているのかもしれない。
私自身の……これまでの生と同様に。
そういう疑惑に思いを致すと、とたんに眠気が遠ざかってゆく気がする。
ナシェルは欠伸するのをやめ、目を眇め、無言のままセダルの美しい相貌を見つめた。
なんらかの真意を測ろうと、彼の紅の瞳をじっくりと観察してもみた。
冥王はこともなげに闇の精霊を使って自軍の駒を動かすと、肘掛けに肘をつき、少し貌を傾げて、そんな半身の様子を面白そうに冷笑まじりに眺める。
「何だ、どうしたナシェル。ほらまた、そなたの番だぞ」
ナシェルの眉間の皺が深く刻まれてゆくにつれ王は破顔してゆき、最後にはとうとう肩を小刻みにくつくつと揺らし出した。
「……何が可笑しいのです?」
「何って。そなたの表情がころころと、めまぐるしく変わるのが面白いからだ。
さっきまで手駒を増やして上機嫌に酔っていたかと思えば今はもう、そのような仏頂面で余を睨んでおる。
しかも、どういう思考を経てそうなったか、あながち当てられなくもない所が、実に可笑しい」
◇◇◇
それは幾億の夜半にも増して崇高な、あでやかな宵であった。
とおく暗黒界の方角から吹き荒んでくるはずの腥い風はこの夜、いつになく凪ぎ、殷賑の都は閑寂とした闇に包み込まれている。
星無き宙。まるで今にも覆い被さって来そうな、重たい瘴気の雲。
それらはこの混沌の世界に於けるありふれた情景であるが、今宵はそれに加えて、思わず耳鳴りを錯覚するほどの、息苦しいまでの静寂があった。
零下にまで落ち込んだ大気は、都通りを行くうらぶれた魔族たちの息を、白くこごらせた。
泉下の全土を統べる王は、その深々とした夜辺、
彼の愛してやまぬ半身をひさかたぶりに傍らに招致いて、満悦であった。
暖炉には双神のために燠火が点され、
ぱちぱちと炭の爆ぜる音が耳に心地よい。
外との気温差でかすかに結露の降りた螺鈿細工の窓辺には、闇の精霊たちと死の精霊たちがそれぞれ領土を主張するようにひしめきあい、神々の対局の行末を巡ってひそひそと云い争う。
――今宵の軍配はさてどちらの主神に。
卓上に置かれた駒盤を挟んで向き合うのは、鏡のような双面の男神。
それぞれ銀の糸で織られた厚手の長衣を纏っている。
片方はその上に濃紫色の蘭花模様のローブを重ね着し、豊かな黒髪を背の中央でゆるく纏めて、絹の髪紐と共に椅子の下にまで垂らしている。
睡る前の寛いだひとときゆえ、指に嵌めた大きな紅玉以外に身を飾る宝飾品はないが、その神の存在自体の美の精緻の前には、そもそも装飾など蛇足。
指輪と同じ色をした瞳は、さきほどから駒盤を見つめるよりもむしろ、その斜め上にある愛しい顔を眺める時間の方が長いようだ。
もう一方の神は、灰色の毛長織の襟巻に首を埋め、片割れと同じ長さの黒髪は結わえることなく肩から前へ流している。
白皙の容貌をほんのりと酔い染め、こちらも寛いだ様子。
ひじ掛けの上では、長衣のふくらんだ袖に右の手首をしまって、奪った手駒をかちりかちりと指で玩ぶ。
少し、重たい瞬きを繰り返す。
緩慢な、無防備な仕草。
しかしその瞼の発する何気ない艶めかしさを、自覚してはおらぬ。
椅子に斜に腰かけ、金縁の背凭れに行儀悪く片肘をあずけて、ときに半身と視線を交し、相手の次の手を探るのだが、そうした一挙一動の全てが、相手に瓜二つ。
冥府の王と、死の神である。
おもむろに、肘掛けに置かれた死神の手指が小さく揺れ、その動きと呼応するように、盤上の【騎士】の駒が音もなく歩を進める。
駒を動かしている『見えない手』は、云わずもがな彼のしもべ達であった。
精霊たちにそうして駒を動かさせておいて、彼自身は口唇にかるく指先を当て、『ふぁぁ…』と目尻に小さな涙の粒を溜める。
そろそろ勝敗のつかぬ盤駒にも厭いて、眠たくなってきていた。
酒肴と雑談を交じえた、こうした攻防は、昨今ではなかなか終局を迎えるのに時間がかかってしまう。
今や力量はほぼ互角。
昔であれば、こらえ症のない己が駒を猛進させて返り討ちに遭っていたか、はたまた持久戦に持ち込まれ、集中力を切らした所を一網打尽にされていたか。
どちらにしろ盤の上の世界に於いてさえ、寝所の中と同じように降伏させられることが多かった。
それが今はどうだ。こうして決着のつかぬこともしばしば。
時には戦巧者の王を破ることもある。
成長の証だと王は云うが、ナシェルは昨今の盤駒の勝敗比率にさえ様々に思いを散らさざるを得ぬ。
自分が成長したかどうかは、よくわからない。
王が衰えたという可能性は?
まさかな。目の前にあるこの溌剌した見目のどこに、衰えなど感じられる?
それよりも、たとえば……。
王が私をわざと勝たせているという可能性は?
王はそうやって、私に世継であることの自覚を持てと促しているつもりなのかもしれない。
つまり王の負けは、私がそのような思考に至るよう、王によって巧みに誘導された結果なのかもしれぬ。
私はたまの勝利さえ、うまく錯覚させられているだけで、
実は彼によって時おり勝たされているに過ぎないのかも。
本当は、数十歩以上先の手を読みこなすことのできる彼によって、
この盤駒の始まりから終わりまでの全てを、既に仕切られてしまっているのかもしれない。
私自身の……これまでの生と同様に。
そういう疑惑に思いを致すと、とたんに眠気が遠ざかってゆく気がする。
ナシェルは欠伸するのをやめ、目を眇め、無言のままセダルの美しい相貌を見つめた。
なんらかの真意を測ろうと、彼の紅の瞳をじっくりと観察してもみた。
冥王はこともなげに闇の精霊を使って自軍の駒を動かすと、肘掛けに肘をつき、少し貌を傾げて、そんな半身の様子を面白そうに冷笑まじりに眺める。
「何だ、どうしたナシェル。ほらまた、そなたの番だぞ」
ナシェルの眉間の皺が深く刻まれてゆくにつれ王は破顔してゆき、最後にはとうとう肩を小刻みにくつくつと揺らし出した。
「……何が可笑しいのです?」
「何って。そなたの表情がころころと、めまぐるしく変わるのが面白いからだ。
さっきまで手駒を増やして上機嫌に酔っていたかと思えば今はもう、そのような仏頂面で余を睨んでおる。
しかも、どういう思考を経てそうなったか、あながち当てられなくもない所が、実に可笑しい」
感想 71
あなたにおすすめの小説
邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ
世間に秘された名門男子校・平坂学園体育科
空手の名選手であった高尾雄一は、新任教師として赴任する
高潔な人格と鋼のように鍛えられた肉体
それは、学園にとって最高の生贄の候補に他ならなかった
至高の筋肉を持つ、精神を削られ意志をなくした青年を太古の神に捧げるため、“水”、“風”、“土”の信奉者達が暗躍する
意志をなくし筋肉の操り人形と化した“デク”
消える教師
山奥の男子校で繰り広げられるダークファンタジー
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
上司、快楽に沈むまで
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
冤罪で堕とされた最強騎士、狂信的な男たちに包囲される
王国最強の聖騎士団長から一転、冤罪で生存率0%の懲罰部隊へと叩き落とされたレオン。
泥にまみれてもなお気高く、圧倒的な強さを振るう彼に、狂った執着を抱く男たちが集結する。
秘花~王太子の秘密と宿命の皇女~
☆俺はお前を何度も抱き、俺なしではいられぬ淫らな身体にする。宿命という名の数奇な運命に翻弄される王子達☆
―俺はそなたを玩具だと思ったことはなかった。ただ、そなたの身体は俺のものだ。俺はそなたを何度でも抱き、俺なしではいられないような淫らな身体にする。抱き潰すくらいに抱けば、そなたもあの宦官のことなど思い出しもしなくなる。―
モンゴル大帝国の皇帝を祖父に持ちモンゴル帝国直系の皇女を生母として生まれた彼は、生まれながらの高麗の王太子だった。
だが、そんな王太子の運命を激変させる出来事が起こった。
そう、あの「秘密」が表に出るまでは。
【BL】惚れた男に嫌われたくなくて「男遊びならしてもいい」と言ったら、本当に男遊びを始められて絶望している侯爵令息の話
多額の借金で没落寸前の実家を救うため、結婚相手を探していた男爵令息のラキにカムグロス侯爵家から求婚状が届く。
お相手は同性のディートリヒで、初対面で歓迎されるどころか冷たく突き放されてしまう。
『必要最低限関わるな』
『愛人を作るな』
『男遊びならしてもいい』
ディートリヒから実家の借金を完済する条件を言われたラキは、学園で令息たちとの交流を満喫中。
褒め上手なラキの周りには可愛い令息が集まり、推し活状態に。
一方、ディートリヒだけが嫉妬で胃を痛める日々。
ラキへの恋心を隠し続けた不器用侯爵令息に、幸せな未来は訪れるのか?
.