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番外編
アムレス河畔にて④
ともかく彼の手を借り具足を外し終えると冥王はすぐさまナシェルに飛びかかった。ナシェルはサッと避け、吹き出しながら逃げたが、今度は王のほうが身動きが軽いのである。ずぶ濡れの父の真顔に笑いこけ、息が続かない様子のナシェルは数歩進んだだけでよろけている。たちまち王はナシェルを捕らえ、滝つぼの中央で抱きしめて濡れた耳や首すじに甘く口づけした。
滝の流れる音に聴覚を癒され、草木の柔らかな匂いに包まれて、王子がここをたいそう気に入った様子なのが分かる。冥王もこの滝つぼの場所を頭の地図にしかと書き加えた。
「……誰か追って来ないかな?」
気持ちよさそうに首を反らして唇を受けながら、ナシェルが囁いてきた。耳を澄ませ、周囲を窺うような表情だ。
「騎士たちに休息をとらせてからゆっくり来いとは言うておいたが、どうかな」
「では誰かが来るまでこうして居ましょう」
ナシェルは王の濡れた服の表面に胸の突起が浮き出ているのを見つけ、イジイジと触った。円を描くように指を滑らせ、鼻筋をこちらの顎にすり寄せるようにして、甘えてくる。狩り場では殺気を放っていたのにどういうことだろう。本当にころころと気分を変える子だ。その読めなさが、まるで猫のようで愛おしいのだ。
王はというと、もう待てぬ。是が非でも、誰かが来る前にもっと味わいたい。ナシェルの手を引いて岸に上がると、草の上に横たわらせてさらに雨のような口づけを降らせた。
「ねえ父上……、草がちくちくして痛いです」
性急な王を諫めるように、ナシェルが意見を述べてくる。もっともだ。王はさっき岸に投げ捨てたマントを拾ってきて草の上に広げた。ただし、ほとんど濡れているので寝心地はよくなさそうだ。その横で、ナシェルは上体を起こし、水を吸った黒髪を重そうに両手で束ねて、水分を絞り出している。
王もそれに倣い、立ったまま髪を絞って水を出した。ナシェルが我に返ったようにもやもやを口にする。
「我々は一体、何をしているのでしょう」
「そなたが余を落っことしさえしなければ、今ごろ乾いた服でそなたを拭いてあげられたのに……乾いた布が一枚もないよ」
「ですが恐らく父上が水に落っこちねば、私の機嫌はあのまま直らなかったと思います」
「なるほど確かに。……珍しく客観的に己の分析ができておるな?」
「……寒いです、火を起こしませんか」
唐突にナシェルが訴えてきた。
確かに、ふたりが揃って風邪をひくとまずい。片一方ならまだいいが、冥界を覆う双神の神司がともに衰えたとなれば、どこぞの腕に覚えのある妖魔がまた氷竜ディルムトのように、地中深くから覇権を求め彷徨い出てこぬとも限らぬ。
「火を起こせって、そなた簡単に云うけどね……」
冥王は半裸で周辺を歩き回り、火打ち石になる黒曜石か溶岩石を探した。炎獄界に隣接しているためどちらも大して珍しくはない。すぐに手のひらほどの黒曜石と焚き木になりそうな枯れ枝を見つけて戻ると、ナシェルが下は穿いたままで、上だけ全部脱いで、じょぼぼ…と水を絞っている所だった。
「野宿っぽいなぁ。いつもは誰かがすぐ火を持ってきてくれるでしょう。天幕も張ってくれるし」
火打ち石と、ベルトにつけている打ち金で原始的な火起こしを試みる父を、後ろからナシェルが面白そうに覗き込む。打ち金に煙があがり、王はフーフーと空気を送る。打ち金の尖端が赤く熱を帯びた。
「そなた、こういうのは初めてか?」
「いいえ―――あ、初めてです」
「否定したな? 誰かと野宿した経験があるのか」
「ないですって、王宮育ちなのに。火が消えますよ」
ナシェルに促され焚き木に種火を移す。無事に火がついたら付いたで、
「一国の王にしては手際が良すぎる。おかしい……」
と誉めているのかいないのかよく分からないことを言われた。
「……そなたは知るまいが都ができる前は、魔族どもと一緒に各地を移動して天幕暮らしもしていたからな。こういう原始的な野宿こそが日常だった。もっとも魔族どもと出会う前は、火すらも起こさずにじっと洞窟の奥に根を生やしていたのだがな」
「千年ぐらいそれしてたんでしたっけ。さすがによく生きてられましたね……」
感心するナシェルの横で、王は薪にした小枝を折って火に加えた。心的外傷となっている、神々に捨てられ冥界に堕ちてきたころの記憶が脳裏に甦る。だが隣にナシェルがいる今なら、少しばかり思い出して語っても大丈夫だと思った。
「……しかとは覚えておらぬが、たしかたまに供え物を喰っていた記憶がある」
「供え物されちゃってたんですか……!」
「そうだ。その昔、洞窟に棲みついた余の神司を感じとり、魔獣の類とは違う『何か』だと直感した魔族らが、ある時期から勝手に食物を置き、余を崇めはじめたのだ」
「ああ……その続き、分かりました。基本的に何も食べなければ何も出さなくていいはずなのに、供え物を食べ始めてしまったので父上は……?」
「そう、洞窟の中が臭くなるので催した折りに外へ出ざるを得なくなり、そこで魔族どもとはじめて邂逅した―――これ、何を云わせるのだ。どうしてこんな話になった?」
「昔は野宿が当たり前だったって話から、なんでか供え物の話になったんですよ……」
ああそうか、と王は苦笑いし残りの枝を焼べ終えた。ナシェルが傍らにいて、こんなふうに軽口を叩いてくれるありがたみを感じる。
「……王宮ができるより遥か以前、今の冥府の場所には小さな魔族の一集落が存在していただけだった。あばら屋の集まりのようなところに女子供を住まわせて、戦える男たちは余とともに、冥界の奥深くまで野宿で長い旅をした。そうやって、争いを続けていた魔族の集落をひとつひとつ訪ねては、統一のために力を貸すよう頼んで回ったのだ」
徐々に大きくなる焚火の焔が、ふたりの濡れた頬を赤々と照らしはじめる。
……ものすごく穏便に魔族を併合して回ったかのように語ったが、実際はそうでもない。しかし、昔話に静かに聞きいるナシェルから問い返す声は上がらなかった。
「……さぁ火がついたぞナシェル、ここで本格的な野宿がしたいのならそうしてもよい」
「天幕に行かずにここで? 寝る?」
「むろん」
ナシェルは、父の本気を疑う表情のまま滝つぼの周囲を見渡した。いつ野生の獣が現れてもおかしくない大自然が広がっている。さすがに外でするのは見られる危険もあるし嫌がるかと思ったが、
「……いいですよ、楽しそう」
と頭を凭せ掛けてきた。
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