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第十五章
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教師が退室すると、アルベールはうーんと両腕を頭の上で伸ばした。
「あー、終わった終わった」
隣にいたキャスリンは、アルベールに尋ねた。
「アルベール様、どうでした?」
「まあまあかな」
「⋯⋯貴方の言うまあまあとは、ばっちりということね」
「君は?」
「答えはわかりましたの。でも手が痛くってペンが震えて書けませんでした」
「嘘つけ、あんな猛スピードで刺繍してたくせに」
キャスリンはたった今、追試試験を終えたところだった。
日曜日の学園の一室でアルベールと二人、全科目ぶっ通しの試験は哀しい結果が予感できた。
なぜ、領地にいたキャスリンとずっと一緒だった筈のアルベールが「まあまあ」な結果であるのか不思議である。
さては、夜、密かに勉強していたのではなかろうか?
そんな疑いをアルベールに持ったが、そもそもキャスリンは療養中にあれだけ時間を持て余していた。なぜ自習しようと思わなかったのか、その点にキャスリンは気づかないフリをした。
領地から王都に戻って直ぐ、キャスリンとヘンドリックの婚約は解消された。
ヘンドリックとの面談が設けられたのは、二人の気持ち如何で婚約を見直すためではなくて、最後の温情というものだった。そこにキャスリンも気がついていた。
考える時間は十分あった。怪我の前にも悩み過ぎるほど考えていた。
怪我をして領地に逃げ込んで、アルベールと一緒に、一日一日姿を変える美しい初秋の風景を眺めながら、心の淀みが少しずつ沈んでいった。
だから、ヘンドリックと会った時には、既に気持ちは定まっていた。
キャスリンは騒動の責任を果さねばならない。
キャスリンが仕掛けたことではなくても、渦中にいたのは確かであったし、騒動は王家も巻き込んでいる。
収拾をつけるのに、キャスリンの気持ちなどあってないものなのだと初めからわかっていた。
三年間、大切に育てた関係だった。
ヘンドリックに恥ずかしくないように、学業にも励んでいた。それにしては、追試は散々なものだったが。
学生たちのいない閑散とした学園の廊下を、アルベールと並んで歩く。
「腹が減ったな」
「本当よ。休憩無しって、あれは罰?いじめ?」
「付き合わされた教師たちも巻き添えだな」
ぶっ通しの試験に、頭の中もお腹も空っぽだった。
「食べる?」
「え!アルベール様、こんなもの持ってたの?」
アルベールが制服のポケットをごそごそ探って、チョコレートを一粒差し出してきた。
「もっとないの?」
「欲張りだな」
『はしたない』を廊下の果てに追いやって、歩きながらペリペリと包み紙を剥がして、そのまま口の中に放り込む。
「美味しすぎる」
チョコレートの甘みと滋味が口内から体中に染み渡るようだった。
「ほら」
アルベールはそんなキャスリンに、自分が食べようとしていたチョコレートを差し出してきた。
「ええ?悪いわそんな」
「心にもないことを言わないことだ」
「頂きます!」
王子から奪って食するチョコレートとは、なぜこんなに美味なのか。
「家は大丈夫だった?」
領地から王都へ戻ったのは一昨日だった。
静養の甲斐あって、キャスリンの身体の傷は完治して記憶は全て戻ったという体だったから、両親の喜びようは半端ないものだった。
そんな中でも兄だけは、ヘンドリックとの婚約が破談になることを労ってか、言葉少なだった。
アネットとイザークには、ヘンドリックとの面談の後に記憶が戻ったことを伝えた。
「ごめんなさい、直ぐに教えなくて。少し前に思い出したの。勿論、殿下のことも」
そう言えばアネットは、その場に両膝をついて「ああ、お嬢様っ⋯⋯」と泣き崩れてしまった。ごめんなさいアネット、最初から憶えていたのよなんて、絶対言えないことだと思った。
「可怪しなお祭り騒ぎと言ったところでしょうか」
「ああ、なんか想像できるな。君が無事に治癒したことでの侯爵家の歓喜っぷりは」
口髭をたくわえた父の姿は威厳ある侯爵家当主そのものなのだが、内と外では違っている。
母にしても同じようなもので、社交界に幅を利かせる侯爵夫人が涙もろいのは有名なことである。
「落ち着いた?」
「ええ、まあ。アルベール様は?」
「私は初めからなにも変わらないよ」
そんなことはないだろう。
アルベールだって、大きな変化を受け入れなければならなかった。
「追試が面倒だったことくらいかな。後は君のことを母上からあれこれ聞かれて、少しばかり煩わしかった」
心做しか歩みがトボトボしたものになる。
「アルベール様。ごめんなさい」
「なんで君が謝る?」
なんでと聞かれても、アルベールこそ全てわかっているだろう。寧ろ、キャスリンよりずっと早く正確に、物事の推移と結末を見極めていた筈である。
「君の所為ではないよね」
「そうかしら」
「そうだよ。君はただ悩んで『恋人の心を取り戻す方法100選』を熟読して、増販に貢献しただけさ」
「それを言わないで!恥ずかしくて死にたくなっちゃう」
アルベールはそこで立ち止まった。釣られてキャスリンも立ち止まる。
「君のどこに恥ずべきことが?君は騒ぎに浮かされることも取り乱すこともなかった。二人の噂を耳にして悩まされても、悋気の一つも起こさずに静観を貫いた。その胆力は尊敬に値するよ」
誰よりも冷静と思える人物に褒められても、褒められたような気がしない。
「貴方は?貴方こそ誰よりも静観していたわ。それどころか、私のためにあの、あの、」
「『恋人の心を取り戻す方法100選』?」
「いちいちタイトルを言わないで」
再び歩き始めたアルベールは、追試が終わってさっぱりした、それだけのような顔をして、悲壮感は微塵も感じられなかった。
それがキャスリンの心を益々沈ませた。
アルベールこそ、誰よりも傷ついている筈なのに。
「ねえ、キャスリン」
「なんでしょう?」
「君は思い違いをしているよ」
「思い違い?」
思わずアルベールを見上げれば、彼の長めの前髪がさらりと揺れて、青い瞳がこちらを見た。
アルベールの瞳は、悪戯な光を湛えて細められていた。
「あー、終わった終わった」
隣にいたキャスリンは、アルベールに尋ねた。
「アルベール様、どうでした?」
「まあまあかな」
「⋯⋯貴方の言うまあまあとは、ばっちりということね」
「君は?」
「答えはわかりましたの。でも手が痛くってペンが震えて書けませんでした」
「嘘つけ、あんな猛スピードで刺繍してたくせに」
キャスリンはたった今、追試試験を終えたところだった。
日曜日の学園の一室でアルベールと二人、全科目ぶっ通しの試験は哀しい結果が予感できた。
なぜ、領地にいたキャスリンとずっと一緒だった筈のアルベールが「まあまあ」な結果であるのか不思議である。
さては、夜、密かに勉強していたのではなかろうか?
そんな疑いをアルベールに持ったが、そもそもキャスリンは療養中にあれだけ時間を持て余していた。なぜ自習しようと思わなかったのか、その点にキャスリンは気づかないフリをした。
領地から王都に戻って直ぐ、キャスリンとヘンドリックの婚約は解消された。
ヘンドリックとの面談が設けられたのは、二人の気持ち如何で婚約を見直すためではなくて、最後の温情というものだった。そこにキャスリンも気がついていた。
考える時間は十分あった。怪我の前にも悩み過ぎるほど考えていた。
怪我をして領地に逃げ込んで、アルベールと一緒に、一日一日姿を変える美しい初秋の風景を眺めながら、心の淀みが少しずつ沈んでいった。
だから、ヘンドリックと会った時には、既に気持ちは定まっていた。
キャスリンは騒動の責任を果さねばならない。
キャスリンが仕掛けたことではなくても、渦中にいたのは確かであったし、騒動は王家も巻き込んでいる。
収拾をつけるのに、キャスリンの気持ちなどあってないものなのだと初めからわかっていた。
三年間、大切に育てた関係だった。
ヘンドリックに恥ずかしくないように、学業にも励んでいた。それにしては、追試は散々なものだったが。
学生たちのいない閑散とした学園の廊下を、アルベールと並んで歩く。
「腹が減ったな」
「本当よ。休憩無しって、あれは罰?いじめ?」
「付き合わされた教師たちも巻き添えだな」
ぶっ通しの試験に、頭の中もお腹も空っぽだった。
「食べる?」
「え!アルベール様、こんなもの持ってたの?」
アルベールが制服のポケットをごそごそ探って、チョコレートを一粒差し出してきた。
「もっとないの?」
「欲張りだな」
『はしたない』を廊下の果てに追いやって、歩きながらペリペリと包み紙を剥がして、そのまま口の中に放り込む。
「美味しすぎる」
チョコレートの甘みと滋味が口内から体中に染み渡るようだった。
「ほら」
アルベールはそんなキャスリンに、自分が食べようとしていたチョコレートを差し出してきた。
「ええ?悪いわそんな」
「心にもないことを言わないことだ」
「頂きます!」
王子から奪って食するチョコレートとは、なぜこんなに美味なのか。
「家は大丈夫だった?」
領地から王都へ戻ったのは一昨日だった。
静養の甲斐あって、キャスリンの身体の傷は完治して記憶は全て戻ったという体だったから、両親の喜びようは半端ないものだった。
そんな中でも兄だけは、ヘンドリックとの婚約が破談になることを労ってか、言葉少なだった。
アネットとイザークには、ヘンドリックとの面談の後に記憶が戻ったことを伝えた。
「ごめんなさい、直ぐに教えなくて。少し前に思い出したの。勿論、殿下のことも」
そう言えばアネットは、その場に両膝をついて「ああ、お嬢様っ⋯⋯」と泣き崩れてしまった。ごめんなさいアネット、最初から憶えていたのよなんて、絶対言えないことだと思った。
「可怪しなお祭り騒ぎと言ったところでしょうか」
「ああ、なんか想像できるな。君が無事に治癒したことでの侯爵家の歓喜っぷりは」
口髭をたくわえた父の姿は威厳ある侯爵家当主そのものなのだが、内と外では違っている。
母にしても同じようなもので、社交界に幅を利かせる侯爵夫人が涙もろいのは有名なことである。
「落ち着いた?」
「ええ、まあ。アルベール様は?」
「私は初めからなにも変わらないよ」
そんなことはないだろう。
アルベールだって、大きな変化を受け入れなければならなかった。
「追試が面倒だったことくらいかな。後は君のことを母上からあれこれ聞かれて、少しばかり煩わしかった」
心做しか歩みがトボトボしたものになる。
「アルベール様。ごめんなさい」
「なんで君が謝る?」
なんでと聞かれても、アルベールこそ全てわかっているだろう。寧ろ、キャスリンよりずっと早く正確に、物事の推移と結末を見極めていた筈である。
「君の所為ではないよね」
「そうかしら」
「そうだよ。君はただ悩んで『恋人の心を取り戻す方法100選』を熟読して、増販に貢献しただけさ」
「それを言わないで!恥ずかしくて死にたくなっちゃう」
アルベールはそこで立ち止まった。釣られてキャスリンも立ち止まる。
「君のどこに恥ずべきことが?君は騒ぎに浮かされることも取り乱すこともなかった。二人の噂を耳にして悩まされても、悋気の一つも起こさずに静観を貫いた。その胆力は尊敬に値するよ」
誰よりも冷静と思える人物に褒められても、褒められたような気がしない。
「貴方は?貴方こそ誰よりも静観していたわ。それどころか、私のためにあの、あの、」
「『恋人の心を取り戻す方法100選』?」
「いちいちタイトルを言わないで」
再び歩き始めたアルベールは、追試が終わってさっぱりした、それだけのような顔をして、悲壮感は微塵も感じられなかった。
それがキャスリンの心を益々沈ませた。
アルベールこそ、誰よりも傷ついている筈なのに。
「ねえ、キャスリン」
「なんでしょう?」
「君は思い違いをしているよ」
「思い違い?」
思わずアルベールを見上げれば、彼の長めの前髪がさらりと揺れて、青い瞳がこちらを見た。
アルベールの瞳は、悪戯な光を湛えて細められていた。
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