キャスリン・アダムス・スペンサーの忘却

桃井すもも

文字の大きさ
15 / 27

第十五章

しおりを挟む
 教師が退室すると、アルベールはうーんと両腕を頭の上で伸ばした。

「あー、終わった終わった」

 隣にいたキャスリンは、アルベールに尋ねた。

「アルベール様、どうでした?」
「まあまあかな」
「⋯⋯貴方の言うまあまあとは、ばっちりということね」
「君は?」
「答えはわかりましたの。でも手が痛くってペンが震えて書けませんでした」
「嘘つけ、あんな猛スピードで刺繍してたくせに」

 キャスリンはたった今、追試試験を終えたところだった。

 日曜日の学園の一室でアルベールと二人、全科目ぶっ通しの試験は哀しい結果が予感できた。
 なぜ、領地にいたキャスリンとずっと一緒だった筈のアルベールが「まあまあ」な結果であるのか不思議である。

 さては、夜、密かに勉強していたのではなかろうか?
 そんな疑いをアルベールに持ったが、そもそもキャスリンは療養中にあれだけ時間を持て余していた。なぜ自習しようと思わなかったのか、その点にキャスリンは気づかないフリをした。


 領地から王都に戻って直ぐ、キャスリンとヘンドリックの婚約は解消された。

 ヘンドリックとの面談が設けられたのは、二人の気持ち如何で婚約を見直すためではなくて、最後の温情というものだった。そこにキャスリンも気がついていた。

 考える時間は十分あった。怪我の前にも悩み過ぎるほど考えていた。
 怪我をして領地に逃げ込んで、アルベールと一緒に、一日一日姿を変える美しい初秋の風景を眺めながら、心の淀みが少しずつ沈んでいった。

 だから、ヘンドリックと会った時には、既に気持ちは定まっていた。

 キャスリンは騒動の責任を果さねばならない。
 キャスリンが仕掛けたことではなくても、渦中にいたのは確かであったし、騒動は王家も巻き込んでいる。
 収拾をつけるのに、キャスリンの気持ちなどあってないものなのだと初めからわかっていた。

 三年間、大切に育てた関係だった。
 ヘンドリックに恥ずかしくないように、学業にも励んでいた。それにしては、追試は散々なものだったが。


 学生たちのいない閑散とした学園の廊下を、アルベールと並んで歩く。

「腹が減ったな」
「本当よ。休憩無しって、あれは罰?いじめ?」
「付き合わされた教師たちも巻き添えだな」

 ぶっ通しの試験に、頭の中もお腹も空っぽだった。

「食べる?」
「え!アルベール様、こんなもの持ってたの?」

 アルベールが制服のポケットをごそごそ探って、チョコレートを一粒差し出してきた。

「もっとないの?」
「欲張りだな」

 『はしたない』を廊下の果てに追いやって、歩きながらペリペリと包み紙を剥がして、そのまま口の中に放り込む。

「美味しすぎる」

 チョコレートの甘みと滋味が口内から体中に染み渡るようだった。

「ほら」

 アルベールはそんなキャスリンに、自分が食べようとしていたチョコレートを差し出してきた。

「ええ?悪いわそんな」
「心にもないことを言わないことだ」
「頂きます!」

 王子から奪って食するチョコレートとは、なぜこんなに美味なのか。

「家は大丈夫だった?」

 領地から王都へ戻ったのは一昨日だった。
 静養の甲斐あって、キャスリンの身体の傷は完治して記憶は全て戻ったというていだったから、両親の喜びようは半端ないものだった。
 そんな中でも兄だけは、ヘンドリックとの婚約が破談になることを労ってか、言葉少なだった。

 アネットとイザークには、ヘンドリックとの面談の後に記憶が戻ったことを伝えた。

「ごめんなさい、直ぐに教えなくて。少し前に思い出したの。勿論、殿下のことも」

 そう言えばアネットは、その場に両膝をついて「ああ、お嬢様っ⋯⋯」と泣き崩れてしまった。ごめんなさいアネット、最初から憶えていたのよなんて、絶対言えないことだと思った。

「可怪しなお祭り騒ぎと言ったところでしょうか」
「ああ、なんか想像できるな。君が無事に治癒したことでの侯爵家の歓喜っぷりは」

 口髭をたくわえた父の姿は威厳ある侯爵家当主そのものなのだが、内と外では違っている。
 母にしても同じようなもので、社交界に幅を利かせる侯爵夫人が涙もろいのは有名なことである。

「落ち着いた?」
「ええ、まあ。アルベール様は?」
「私は初めからなにも変わらないよ」

 そんなことはないだろう。
 アルベールだって、大きな変化を受け入れなければならなかった。

「追試が面倒だったことくらいかな。後は君のことを母上からあれこれ聞かれて、少しばかり煩わしかった」

 心做しか歩みがトボトボしたものになる。

「アルベール様。ごめんなさい」
「なんで君が謝る?」

 なんでと聞かれても、アルベールこそ全てわかっているだろう。寧ろ、キャスリンよりずっと早く正確に、物事の推移と結末を見極めていた筈である。

「君の所為ではないよね」
「そうかしら」
「そうだよ。君はただ悩んで『恋人の心を取り戻す方法100選』を熟読して、増販に貢献しただけさ」
「それを言わないで!恥ずかしくて死にたくなっちゃう」

 アルベールはそこで立ち止まった。釣られてキャスリンも立ち止まる。

「君のどこに恥ずべきことが?君は騒ぎに浮かされることも取り乱すこともなかった。二人の噂を耳にして悩まされても、悋気の一つも起こさずに静観を貫いた。その胆力は尊敬に値するよ」

 誰よりも冷静と思える人物に褒められても、褒められたような気がしない。

「貴方は?貴方こそ誰よりも静観していたわ。それどころか、私のためにあの、あの、」
「『恋人の心を取り戻す方法100選』?」
「いちいちタイトルを言わないで」

 再び歩き始めたアルベールは、追試が終わってさっぱりした、それだけのような顔をして、悲壮感は微塵も感じられなかった。

 それがキャスリンの心を益々沈ませた。
 アルベールこそ、誰よりも傷ついている筈なのに。

「ねえ、キャスリン」
「なんでしょう?」
「君は思い違いをしているよ」
「思い違い?」

 思わずアルベールを見上げれば、彼の長めの前髪がさらりと揺れて、青い瞳がこちらを見た。

 アルベールの瞳は、悪戯な光を湛えて細められていた。


 
 
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

【完結】20年後の真実

ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
公爵令息のマリウスがが婚約者タチアナに婚約破棄を言い渡した。 マリウスは子爵令嬢のゾフィーとの恋に溺れ、婚約者を蔑ろにしていた。 それから20年。 マリウスはゾフィーと結婚し、タチアナは伯爵夫人となっていた。 そして、娘の恋愛を機にマリウスは婚約破棄騒動の真実を知る。 おじさんが昔を思い出しながらもだもだするだけのお話です。 全4話書き上げ済み。

【完結】捨てたものに用なんかないでしょう?

風見ゆうみ
恋愛
血の繋がらない姉の代わりに嫁がされたリミアリアは、伯爵の爵位を持つ夫とは一度しか顔を合わせたことがない。 戦地に赴いている彼に代わって仕事をし、使用人や領民から信頼を得た頃、夫のエマオが愛人を連れて帰ってきた。 愛人はリミアリアの姉のフラワ。 フラワは昔から妹のリミアリアに嫌がらせをして楽しんでいた。 「俺にはフラワがいる。お前などいらん」 フラワに騙されたエマオは、リミアリアの話など一切聞かず、彼女を捨てフラワとの生活を始める。 捨てられる形となったリミアリアだが、こうなることは予想しており――。

記憶を失くした悪役令嬢~私に婚約者なんておりましたでしょうか~

Blue
恋愛
マッツォレーラ侯爵の娘、エレオノーラ・マッツォレーラは、第一王子の婚約者。しかし、その婚約者を奪った男爵令嬢を助けようとして今正に、階段から二人まとめて落ちようとしていた。 走馬灯のように、第一王子との思い出を思い出す彼女は、強い衝撃と共に意識を失ったのだった。

冷酷伯爵ディートリヒは、去った妻を取り戻せない

くろねこ
恋愛
名門伯爵家に政略結婚で嫁いだ、正妻エレノア・リーヴェルト。夫である伯爵ディートリヒ・フォン・アイゼンヴァルトは、 軍務と義務を最優先し、彼女に関心を向けることはなかった。 言葉も、視線も、愛情も与えられない日々。それでも伯爵夫人として尽くし続けたエレノアは、ある一言をきっかけに、静かに伯爵家を去る決意をする。 ――そして初めて、夫は気づく。 自分がどれほど多くのものを、彼女から与えられていたのかを。 一方、エレノアは新たな地でその才覚と人柄を評価され、 「必要とされる存在」として歩き始めていた。 去った妻を想い、今さら後悔する冷酷伯爵。前を向いて生きる正妻令嬢。 これは、失ってから愛に気づいた男と、 二度と戻らないかもしれない夫婦の物語。 ――今さら、遅いのです。

行ってらっしゃい旦那様、たくさんの幸せをもらった私は今度はあなたの幸せを願います

木蓮
恋愛
サティアは夫ルースと家族として穏やかに愛を育んでいたが彼は事故にあい行方不明になる。半年後帰って来たルースはすべての記憶を失っていた。 サティアは新しい記憶を得て変わったルースに愛する家族がいることを知り、愛しい夫との大切な思い出を抱えて彼を送り出す。 記憶を失くしたことで生きる道が変わった夫婦の別れと旅立ちのお話。

記憶を失くした彼女の手紙 消えてしまった完璧な令嬢と、王子の遅すぎた後悔の話

甘糖むい
恋愛
婚約者であるシェルニア公爵令嬢が記憶喪失となった。 王子はひっそりと喜んだ。これで愛するクロエ男爵令嬢と堂々と結婚できると。 その時、王子の元に一通の手紙が届いた。 そこに書かれていたのは3つの願いと1つの真実。 王子は絶望感に苛まれ後悔をする。

【完結】留学先から戻って来た婚約者に存在を忘れられていました

山葵
恋愛
国王陛下の命により帝国に留学していた王太子に付いて行っていた婚約者のレイモンド様が帰国された。 王家主催で王太子達の帰国パーティーが執り行われる事が決まる。 レイモンド様の婚約者の私も勿論、従兄にエスコートされ出席させて頂きますわ。 3年ぶりに見るレイモンド様は、幼さもすっかり消え、美丈夫になっておりました。 将来の宰相の座も約束されており、婚約者の私も鼻高々ですわ! 「レイモンド様、お帰りなさいませ。留学中は、1度もお戻りにならず、便りも来ずで心配しておりましたのよ。元気そうで何よりで御座います」 ん?誰だっけ?みたいな顔をレイモンド様がされている? 婚約し顔を合わせでしか会っていませんけれど、まさか私を忘れているとかでは無いですよね!?

〈完結〉【書籍化&コミカライズ・取り下げ予定】記憶を失ったらあなたへの恋心も消えました。

ごろごろみかん。
恋愛
婚約者には、何よりも大切にしている義妹がいる、らしい。 ある日、私は階段から転がり落ち、目が覚めた時には全てを忘れていた。 対面した婚約者は、 「お前がどうしても、というからこの婚約を結んだ。そんなことも覚えていないのか」 ……とても偉そう。日記を見るに、以前の私は彼を慕っていたらしいけれど。 「階段から転げ落ちた衝撃であなたへの恋心もなくなったみたいです。ですから婚約は解消していただいて構いません。今まで無理を言って申し訳ありませんでした」 今の私はあなたを愛していません。 気弱令嬢(だった)シャーロットの逆襲が始まる。 ☆タイトルコロコロ変えてすみません、これで決定、のはず。 ☆商業化が決定したため取り下げ予定です(完結まで更新します)

処理中です...