キャスリン・アダムス・スペンサーの忘却

桃井すもも

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第十六章

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 週明けから、キャスリンは復学した。
 
 再起不能とまで噂されたキャスリンは、療養の末に復調したが、結局、婚約は解消されてしまった。

 それだけでも憐れを誘うのに、事故当時、胸に抱え持っていた書物が悲哀を誘って、久しぶりの学園は忖度と気遣いと同情の塊だった。

 キャスリンは密かに、間もなく舞台化されるのではと噂される被害者令嬢と呼ばれており、『恋人の心を取り戻す方法100選』は乙女のバイブルとなっていた。

 こちらを慮る温かな視線が、針のむしろと思えるなんて。

 授業中に目が合った教師まで、気の毒そうな眼差しを向けてくるので、黒板を見ることすらままならなかった。

 学園ではもう一つ、シンシアとヘンドリックの婚約話で密かに沸いていた。

 聞く気がなくとも聞こえてくる。ヒソヒソと語る言葉とは、なぜにこれほど耳に届くものなのか。

 シンシアとヘンドリックは、あれから婚約していた。アルベールとシンシアの婚約もまた解かれた。

 王太子と目されて育ったアルベール。正妃が王子を産んだことで、身分も生き方も変えざるを得なかった悲運の王子。

 その王子が婚姻式を半年後に控えて、婚約者を側近でもある従兄弟に奪われた。婚約者のことを大切にしていたというのに。

 傍から聞いていれば、アルベールのほうがよほど物語に相応しいだろう。王子の不幸話ということでご法度にされているのだろうが、噂を聞いた隣国でなら小説にでもされて流行っても仕方ないと思われた。

 来年の今頃は、吟遊詩人が国も名前も架空のものに変えて、悲恋の物語として興行するのは目に見えていた。

 そんな噂が行き交う学園で不幸中の幸いだったのは、シンシアとキャスリンが違う教室で学んでいることだった。
 キャスリンは「一般科」、シンシアは「淑女科」で学んでおり、教室は少しばかり離れている。
 お互いのために顔を合わせないのが一番だし、シンシアだって同じ気持ちだろう。

 アルベールは今頃、どうしているのだろう。ヘンドリックとアルベールは同じ教室で学んでいる。そもそもヘンドリックは、アルベールの側付きなのであるから、それも当然だろう。

 キャスリンは、本心からアルベールを案じてはいなかった。彼の強心臓ぶりは知っていたはずなのに、先日、あの追試の帰り道で、それが凍える鋼鉄製なのだとわかったばかりだ。

 あんな優顔をして、あんなふわりさらりと金の髪を風に靡かせ微笑むアルベールに、みんな見たままを彼だと思っている。


 キャスリンは暫く大人しくしていたかったから、昼時も教室でランチボックスを一人つつく。淋しくないわけではないが、教室は今の学園で唯一の安全地帯だった。

 だが、キャスリンには気掛かりなことが残っていた。それで、その日は思い切って昼休みに彼を尋ねた。

「ス、ス、スペンサー侯爵令嬢、ちょ、ちょ、ちょとお待ちをっ」

 扉の前にいた男子生徒に用件を伝えれば、彼は噂の令嬢の登場に慌てふためき、バタバタと騒々しく音を立てて彼を呼びにいった。
 途端に今度は、ドタドタと騒々しい物音がして、それはキャスリンの目の前に迫ってきた。

「ス、ス、スペンサー侯爵令嬢、お呼びと聞いたっ」
「ご、ご、ご機嫌よう。ベルフォート男爵ご令息」

 余りの勢いに気圧されて、キャスリンまで吃ってしまった。

「そ、その節は、お助け頂きありがとうございました」

 ベルフォート男爵家嫡男であるロドリゲスは、あの日、階段から転落して意識を失ったキャスリンを、保健室まで運んでくれた青年である。

 全身を打ったキャスリンを抱き上げる際にも、頭も身体も揺らさぬように、しかしながら速やかに保健室まで運んでくれた。
 彼は騎士科で、怪我人の手当てといった医療も学んでいたから、その辺りの知識が身についていた。

 保健室に運び終えてからも、テキパキと教諭の指示に従って医師が到着するまでの手当てを手伝ってくれたという。

「当然のことをしたまでです。それに、貴女のご生家から既に過分なお礼を頂戴しております。なにより、殿下からも褒賞⋯⋯、兎に角、礼には及びません」

 チラッとアルベールの話題が出たような気がするも、ロドリゲスはそこには触れてほしくないようなのがキャスリンにもわかった。

「直接お礼を申し上げたかったのです。その、重かったでしょ?」

 途端に乙女の恥じらいをみせたキャスリンに、ロドリゲスはあわあわと慌てた。

「そ、そよ風のようでした」

 あまりに嘘くさい言葉に、キャスリンが胡乱な眼差しを向けると、ロドリゲスは「は、羽のようでした」と言い直した。

 そんなわけ、ないだろう。

 取り敢えず、心に残っていたお礼を言い終えて、キャスリンは騎士科の教室を後にした。
 ここからは、慎重に移動しなければならない。来る時も十分注意をしていたが、復路こそ気を抜いてはならない。

 だが、キャスリンは甘かった。
 気を抜こうが抜くまいが、やって来るものはやって来る。

 騎士科の並びに領地経営科がある。その奥が淑女科で、キャスリンの教室はその向こうの最奥に位置していた。
 二階に位置する教室へは、廊下の中ほどに階下から上がってくる階段があり、そこは合流地点となっている。今のキャスリンが通過するのに最も気をつける場所だった。

 だからキャスリンは用心深く廊下を歩いた。今なら思う。さっさと歩けばよかったのだ。寧ろ、はしたないと後ろ指をさされる覚悟で走り抜ければよかったのだ。

 それなのに、用心に用心を重ねてそろりそろりと歩いて、階下からの合流地点に差し掛かったその時に、キャスリンはヘンドリックと出くわした。

 ヘンドリックは、居るはずのないキャスリンと鉢合わせとなり、彼らしくなく表情を変えた。その横にはシンシアがおり、あの特徴的な白金の髪を揺らして立っていた。

 エメラルドより鮮やかな深い翠の瞳が、キャスリンを見つめてバチリと目が合った。



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