キャスリン・アダムス・スペンサーの忘却

桃井すもも

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第十八章

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「シンシアが本当に欲っしたのは、ヘンドリックだよ」

 アルベールはそこで少し眉を下げた。その表情は、キャスリンにもうこれ以上、傷ついてほしくないと言っているように見えた。

「勘違いしないでほしい。宰相だって、諸手を挙げてこのことを呑んだわけではない。初めはちゃんと騙された。シンシアが私の気持ちを確かめようと、揺さぶりを掛けているのだと」

 宰相は、早いうちからヘンドリックに噂の真偽を確かめたのだろう。

「彼は狸だが悪人ではないよ。何もなければ息子の幸福を願う親の一人だ」

 何もなければ⋯⋯、とキャスリンは胸のうちで呟いた。

「それに、ヘンドリックはシンシアの本心には今も気づいていない」
「真逆、あのヘンドリック様が気づかないなんて、そんなこと」
「宰相が狸ならシンシアは狐だな。では叔母上はウサギかな。そうするとヘンドリックはなんだ?」

 アルベールはそこで、公爵一家を動物に喩えだした。それで、ヘンドリックはなんだ?ああ、カモシカだ、と一人納得した。

 アルベールはひとしきり公爵家を動物園のように揶揄したが、呆れて見つめるキャスリンの視線を無視することはしなかった。

「『愛』とは誠に便利なものだ。『愛』その一言で民意すら扇動できる。だからこそ慎重に扱わなければならない。貴族も平民も、古今東西『愛』に弱い」

 そうなのかもしれない。キャスリンも、すっかり振り回されてしまった。

「宰相は、そこを落し所に選んだ」
「落し所?」

「生まれも立場も脇において愛を謳う二人が、権威や責任や常識を呑みこんで元の鞘に収まる。その姿は、責任を全うする誠実か、それとも貴族によくある日和見と映るのか。宰相は天秤に掛けたんだろうな。それで『愛』を貫く結末を選んだ。それに陛下も侯爵家も異論を唱えなかった」

 父も母も、それを了承の上でヘンドリックとキャスリンの婚約解消に応じたのだろうか。

「シンシア様は、シンシア様のご生家はそれで良かったのでしょうか」

「私に嫁いでもヘンドリックに嫁いでも、どちらも王家の血を引く公爵家だ。私はいずれ臣籍降下するが、ヘンドリックは政の中枢を担って城に残る。どちらがお得かは一目瞭然」

 キャスリンは、なんだか「愛」という言葉が苦手になりそうだった。それで思わず呟いた。 

「愛ってなに?」
「なんだろうね。原罪と隣り合わせ、それとも対極か。原始から存在する解き明かせない謎のひとつ」
「ええ、そんなに大袈裟なもの?」

 キャスリンは、なんだか「愛」が酷く厄介なものに思えてきた。それで思わずぶるりと震えてしまった。

「どうしたの?寒いの?」
「ええ。『愛』に怖気おぞけを感じてしまったわ」
「それは困るね」
「え?」
「君には是非とも勇敢な愛の戦士ラブ・ウォーリアでいてほしいね」
「気持ち悪いこと言わないで!」

 キャスリンはとうとう、身震いしてしまった。可怪しなことを言うアルベールの腕をパシンと叩けば、物陰からごそりと音がして、護衛が動いたのだと気がついた。

「それに」

 アルベールは、護衛には構わず会話を続けた。

「シンシアが、後で礼をすると言ってたな」
「お礼?お詫びではなくて?」

 どう考えても、一番迷惑を被ったのはアルベールだろう。

「贈り物をするとかなんとか言ってたな。欲しくないけど」
「それって、握り拳ほどの宝石かしら」
「ええ?君、宝石欲しいの?」
「ええ?くれるなら頂くわ」
「じゃあ、私があげよう」
「じゃあ要らないわ、なんだか後が怖い」

 くだらない話をするうちに、玄関ホールに辿り着いた。人気ひとけのないホールの外には王家の馬車が横付けされており、その向こうに待っているだろうキャスリンの迎えの馬車は、すっぽり隠れて見えなかった。

「送ってこうか?」
「いいです」
「それじゃあ、君んとこの御者を返そう」
「そうじゃなくて。要りませんってことです」

 『愛』に疲弊したキャスリンは、とっとと家に帰りたかった。これ以上アルベールと一緒にいたら、世界の果ての暗部まで教えられそうで、もう勘弁願いたいと思った。



 廊下でばったり鉢合わせてしまったヘンドリックとシンシアに、キャスリンはしまったと思ったあとに諦めた。同じ学園で学ぶのだから、いずれはこうなっていただろう。

「ご機嫌よう。ヘンドリック様、シンシア様」

 アルベールが以前言った通り、キャスリンはそこそこ胆力があった。周りにいる野次馬の視線も、エメラルド色のビームを放つシンシアの強い眼差しも、瞳を揺らすヘンドリックの青い瞳も、清々しい「ご機嫌よう」の一言で跳ね返した。

 そんなキャスリンに、シンシアはビームを和らげ目を細めた。

「ご機嫌よう、キャスリン様」

 鈴が鳴るような声で、シンシアはキャスリンに挨拶を返した。

 シンシアは、キャスリンの婚約者を奪った、言わば天敵である。彼女の身勝手な発案に、なにも知らないキャスリンがどれほど神経をすり減らしたことか。

 シンシアにしても、こんなことを企てて無傷でいられると思ってなどいなかった筈である。
 彼女が闇雲にヘンドリックを欲したとは思えなかった。シンシアが決して愚かな令嬢ではないのは、キャスリンも知っているつもりだった。

 場合によっては、家ごと処断されても可怪しくない。
 アルベールはヘンドリックと比べて、自分を安いような言い方をしたが、そんなことはない。シンシアは、王家と縁を繋いでいたのだ。

 彼女が今、無事でいられるのは、アルベールが少なからず関わっているとしか思えなかった。それを含めての「贈り物」という言葉だったのだろう。

 だとしても、その覚悟は一体どこから来るのだろう。全てがヘンドリックに向けた愛ゆえなのか。
 もしかしてシンシアは、ここまでの覚悟を固めるのに、アルベールと婚約してからの三年間を費やしてきたのだろうか。

 父も母も兄さえも、彼女とブルック侯爵家については無言を貫いている。きっとキャスリンの知らぬところで、何某かの盟約が結ばれたのではないかとキャスリンは考えた。

 シンシアには酷い目に遭わされたのに、『愛』に食傷気味のキャスリンは、もうこのまま彼女とは泥沼の愛を競う争いをする気持ちにはなれなかった。

 ヘンドリックを大切に思っていた気持ちは確かだったのに、まるでそれが幼い恋に思えてしまう。

 この「愛の扇動者」め。キャスリンは胡乱な眼差しをシンシアに向けたが、シンシアはそれすら楽しそうに笑みを向けてきた。

 シンシアは、どこからも人形には見えなかった。命懸けで求めたヘンドリックを、彼女ならきっとなにがあっても、喩え国が傾いても、最後まで愛して守り抜くのではないかと思えた。

「キャスリン、」

 こちらを見つめて名を呼んだヘンドリックに、キャスリンも真っ直ぐな眼差しを向けた。

「ご婚約、おめでとうございます」

 少しばかり不器用で、けれども彼は幸福な婚約期間を授けてくれた。ヘンドリックにはもうこれ以上、悩んでほしくはなかった。

 キャスリンの言葉に、ヘンドリックは微かに眉を寄せた。だが直ぐに、いつもの怜悧な表情に戻って「ありがとう」と応えた。



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