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そしてまた陽は昇り来る

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 隣り合ってソファに座っている恋人の横顔を見ていると、長く深く憎み合っていたことが嘘のようだ。幸福と平穏を噛み締めていると、膝の上の愛猫を撫でていた彼は視線に気付いてこちらを見てくれた。
「何だ」
「愛してるよ」
「……私もだ」
 淡く頰を染めて素直に答えてくれる、本当に愛おしい恋人。だからそっと顎をとってキスをすることにした。
 狼狽えたような顔をした彼が目を閉じる。その愛らしい様子にこそりと笑って、そっと顔を寄せて口付けようとする。だが。
「どーしたハニー、浮かない顔して。そうかそうか、俺のアホな片割れに虐められたか。それなら俺が癒してやるからな」
「ぶ!」
「ふみゃ!」
 だが横から伸びてきた無遠慮な腕が愛しい恋人を奪い去ってしまったので、背凭れとキスをする羽目になった。鼻をぶつけたので痛い。床に振り落とされた黒猫も抗議の声を上げている。
「ショロトルっ!」
「今はその名前じゃないですー、兄弟の名前くらい覚えろよ馬鹿野郎。ほら聞いたかハニー、こいつ自分の片割れの名前も覚束ねーんだぜ。こんな頭の可哀想な馬鹿より、賢くて強くて頼りがいのある俺の方がずーっといいよなあ?」
 名前の件は分かってはいるのだが、咄嗟に出てくるのがその名前なのだ。暦が生まれて時を数え始めてからだけでも、何百年のあいだ呼んだ名前だと思っている。おかげで記憶を取り戻して以降、今世の名前は一向に頭に残らない。と恋人に漏らしたところ、賢く美しい彼には憐れな者を見る眼差しで見られた。彼は心優しいのでコメントは差し控えてくれた。
 その優しい恋人はというと、突然しゃしゃり出て来て自分を抱き上げてしまった男に驚いて何も言えずに目を瞠っていたが、漸くその手を振り払って座り直したところである。可愛らしいがそんな危機感の薄いことではいけない、この愚弟は甘くするとつけ上がるたちなのだ。恋人にも後でよく注意しておかなくては。
 振り落とされた膝へとまた当たり前のようによじ登った猫も、気に食うか食わないかなら全く気に食わない。だが今は何はともあれ、この無作法な弟をどうにかしなくては。とはいえこちらは大人だ、理性ある成熟した存在なのだ。だから非礼で不躾な弟には、あくまでも穏便にご退去願うことにした。
「弟よ、邪魔なんだが」
「うっせえバーカ、てめーが邪魔だよ失せろ。っつか双子なんだから俺が兄って可能性もあるんだよ、忘れてんのかこの鳥頭」
 穏便な交渉は決裂した。この邪智暴虐の弟は何としても除かねばならない。実力行使も辞さぬ構えだ。なので掴みかかろうとしたが、また横槍が入った。
「穏便な交渉をしたと仰りたいのであればですが、穏便な交渉に『邪魔』という直接的な単語は通常出てきません」
「にゃう」
「あーっはっはっは、オセロトルやめて猫になった哺乳類にまで馬鹿にされてやんの、まじでバッカじゃねーの?」
 実兄を指差して高笑いする無礼な弟にも言いたいことは山ほどあるが、それより問題は淡々と口を挟んできた元戦士だ。ちゃっかり転生して愛しい恋人の秘書に収まっているその男は、こめかみを押さえている恋人に恭しくカップを差し出した。
「我が主、紅茶をお持ちしました」
「ああ」
「頭痛薬も?」
「いや、今はいい。ありがとう」
「にゃうー」
「ああハニー、頭痛か可哀想に。代われるものなら俺が何だって代わってやるのに。そうだ、添い寝してやるから横になったらどうだ?」
「みゃっ!」
 図々しくも恋人の手を握ろうとした不埒な弟は当たり前のように恋人の膝に陣取っている黒猫の猫パンチを受けて狙いを外す。猫に少しだけ感謝しながら、この機を逃すまいと弟に釘を刺すことにした。
「気安く触るな、彼は私の……」
「うるせえな、こいつは俺のことも愛してんだよ!」
 猫と攻防を繰り広げながら諦め悪く手を伸ばそうとしている弟は、こちらを見もしない。なのでその肩を掴んで振り向かせることにした。
「同じ事を何度も言わせるな、私の恋人に気安く触ろうとするんじゃない。それと、人が話をしているときには相手を見ろ」
「うっせえぞ少年趣味! 異常性癖野郎!」
「だ、誰が少年趣味で異常性癖だ!」
 確かに遠い遠い神代の時代に初めて出会ったときの恋人は愛らしい少年の姿だったが、その輝くばかりの明るさに庇護欲を掻き立てられもしたが、それと現状は全くの別問題だ。多分。
「何度も言うが、彼は私の恋人だぞ!」
「てめーがいなかった長い長い長ーい時間を忘れてんのか、ああ? その間に俺とこいつは愛を育んだんだよ!」
「な……聞いていないぞ!?」
 聞き捨てならない言葉に目を剥く。弟は勝ち誇った顔をした。
「う、嘘を吐くと……」
「嘘なんか吐かねーし? 俺があげた花にすっげー喜んでくれて、魔術までかけていつまでも枯れないよーにしてくれたりさ? っつかやっぱ贈り物センスもないお前なんかより、俺とのがベストカップルじゃねえ?」
 センス云々についても言い返したいところではあるが、今はそんな場合ではない。弟の法螺話は話半分としても、やはり気にかかる。とにかく本人に確認することにした。
「君が愛しているのは私だろう。そうだね?」
「俺のことも好きだよなー、愛してるよなー?」
「にゃう?」
「私だろう?」
「俺だよな?」
「なーぅ?」
「私だ!」
「俺だ!」
「にぁ!」
「……」
 両者一歩も譲らず彼に詰め寄る。猫もにゃうにゃう言っているが猫語の教養がないので分からない。かつて戦士だった男も口を挟まない。黙って俯いている恋人にさらに詰め寄った。
「ねえ」
「なあ」
「やかましいっ!」
 思わぬ大声に気圧されて言葉を失う。目を怒らせた恋人は甘えて喉を鳴らす猫を抱いて立ち上がると、足音も荒く部屋を出て行ってしまった。隠す気もないらしい蔑んだ目つきでこちらを見た元戦士も何も言わずにその後を追う。
 後に残され、弟と顔を見合わせた。そして同時に肩を落とす。
「ありゃ長引くな」
「そうだな」
 恋人は心優しいが、一度怒ると長いのだ。しばらくは再度問い詰めるどころか、会話してもらうにも苦労するかもしれない。
 肩を落としながらも、つい唇が緩んでしまう。弟を横目に見ると同じように口元を緩めていたので、同時に吹き出した。
 あの愛しい存在が、それが当たり前のように笑って、怒って、拗ねて、伸びやかにいてくれるから。無理に表情や感情を取り繕ったりせずに、素直に過ごしてくれるから。それだけでもう、何もかもが完璧なような気がするのだ。
「ところでよ、片割れ。……猫も猫だけどあの元戦士も、すっげー目障りだよなあ?」
「珍しく気が合ったな、同感だ」
 そんな不穏なやりとりができることさえも。きっと、幸せというモノなのだ。
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