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第5話 オレンジを食べられた後なら、きっとキスしてもいい感じだろう。

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 唐突に口調が変わったのを、彼女は気付いた。

「あなたはあの時ルナパァク、って言ったよね、マルタ。だけどここはプラムフィールドだ。そしておそらくは、直接的に危険があるのは、ここだろ?」
「そういうことになるわね。ここがチューブのターミナルですもの。チューブという形を取る交通機関では、おそらく居住空間一じゃないかしら、総合発停車駅というものとしては」
「だけどあなたはルナパァクと言った。つまりは、その相手は、現在ルナパァクに居るという訳?」
「あら、もうそんなこと気付いているかと思っていたわ」

 くすくす、とマルタは口に手を当てる。

「そうなのよ。ルナパァクにその私達が探す相手は居るわ。シェドリス・Eと呼ばれている筈ね。あの辺りが、LB社の戦後再開発の、ちょっとした問題になっているの。それで、彼が抜擢されて、そこを何とかするべく、苦闘しているって訳」
「なかなかやりがいのありそうな仕事じゃないの」
「ねえ。全く。それだけやっていれば平和じゃないの。でも私達は彼じゃあないから、何でそんなことするか、なんて判る訳じゃあない」
「じゃあ何で、彼がやらかす、なんてあなた達は推測できる訳」
「それは私には判らないわ」

 彼女はぱく、とチーズの香りのする菓子を口に入れる。濃そうだな、と鷹は思い、あの菓子を食べられた後にはキスはしたくはないな、と頭の片隅で考える。

「マルタ」
「本当にそれは私は知らないのよ。それを知ってるのはマリーヤのほうだわ。聞くなら彼女に聞いたほうがいいわね。動機までは私は決して推測はできないもの。それこそあなたのほうがよっぽど判るんじゃないかと思うわよ」
 鷹は眉を軽く寄せた。
 するとふっと柑橘系の香りがするのに彼は気付いた。オリイはオレンジの皮にくっと爪を立てている。その皮から香りが飛んだのだ、と彼は気付く。
 オレンジを食べられた後なら、きっとキスしてもいい感じだろう、とやはり彼は頭の片隅で思う。

「だから、その上で、阻止して、……まあその上で、ずっとこのLB社に居着くつもりなら、それはそれでいいのよ。ただ、そうでないなら、そうでないなりに考えなくてはならない」
「で、俺はそれを考えなくてはならない訳ね」
「それはそうでしょう」

 そして彼女は再びさっくりとチーズの香りのするデザートにフォークを差し込む。

「それがあなたの仕事なのだから」



 寄っていかないのか、という問いにマルタは首を横に振った。

「今回の私の仕事はここまでよ。でも用があったら連絡して」
「うん。この仕事片づけたら、マリーヤに会いに行くと伝えてね」

 そして彼女は手をひらひらと振った。さて、と鷹は大きく息をついた。
 彼女には、いつもほんの少し、悪いと思う。だけどそれ以上の気持ちは彼は持たなかった。
 彼女だけでない。誰に対しても、深い気持ちを持ったことはない。全く今までに無かった訳ではないが、もう長いこと、そんな気持ちが自分の中を埋めることは無かった。
 ぱぁ、と路面電車が左右に走り抜けていく光と音が、ぱかぱかとけたたましく過ぎていく。その拍子に生まれた風が、ふっと彼の脇を通り過ぎて行った。
 ふと、オレンジの香りがしたので、彼は振り向いた。後ろに居たオリイが、くくっていた髪を解いているところだった。彼は近づくと、その手を取って、オレンジの香りが残る指先に軽くキスをした。
 するとオリイはほんの少し首を傾け、首に手を回すと、彼が指にしたのと同じくらいに軽いキスを唇に返した。
 鷹はかすめるようなそれを平然として受け止めると、肩をすくめ、相棒兼被保護者の髪に手を入れる。

「お前髪、相変わらず伸びないね」

 オリイはそれを聞くと、ほんの少し、唇の端を上げた。
 本当に、伸びないのだ。
 最初に出会った時、まだほんの子供だった時も、背中の半分に行くか行かないか、くらいの長さだった。それから切った様子も無いのに、それから十年以上は経った今でも、やはり背中の半分に行くか行かないか、だった。
 気にはなったが、気にしないことにしていた。気にしたところで何かなるという訳でもないし、それ以上に気にしている余裕は彼にはなかったのだ。
 だが時々、こんな仕事のすき間の様な時間に、ふっと、その疑問は彼の中をかすめて行く。
 長い、黒い髪は、誰かを思い出させる。
 自分が好きだった、自分を好きだった、そして自分を裏切った相手。
 出会ったことで、自分の運命まで、どうも変えてしまったらしい相手。
 その相手に今でも会いたいのは事実だ。この仕事をしている理由の一つだった。
 花園の園主は、何をどれだけ知っているのか知らないが、彼に、そのことをほのめかした。あなた誰か探しているということはない?
 何故そのようなことを聞くのか、と訊ねたら、マリーヤは落ち着いた笑みを浮かべ、そんな人が多いのよ、と答えた。さほど美人という訳ではないが、頭の切れる女性だ、という印象を彼は受けた。
 ただ、何故会いたいのかは、彼もよく判らなかった。
 何せその相手と、最後に顔を会わせたのは、戦場だった。
 自軍と自分を裏切ったその相手は、ひどくやるせない表情を浮かべながらも、それでも本気で自分に立ち向かってきた。
 自分がかつて教えた生き残り方を、忠実になぞって。そして忠実だったから、相手に勝ち目は無いことは、判っていた。
 そして、相手は「墜ちた」。文字通り、戦っていた、高層の建物の屋上から、身を翻した。
 だが、その相手は、その空間から、姿を消した。
 鷹はその時、相手が同種の中でも、特別な存在であることに気付いた。
 死んではいないだろう。死なせはしないはずだ。天使種であるならば、その身体は、その持ち主を。
 その足で彼は自軍を脱走し、居たくない地平を後にした。50年も昔のことだ。
 もっとも、ずっとその相手を探していた訳じゃない。それどころでもない日々が殆どだった。本当に忘れている時もあった。だが、やはりこんなふうにふっと気を抜くと、あの姿が、まざまざと自分の前に現れるのが判るのだ。
 そして思う。
 いつか必ず、会わなくてはならない。
 その時、まだその相手に執着があるのか、それとも殺したいくらい憎いのか、自分の気持ちの正体が判るのかもしれない、と彼は思っていた。
 そんな風にとりとめもない考えを巡らせていたら、今度はもう少し深く、被保護者はキスを仕掛けてきた。

「お前意味判ってやってるの?」

 離れた唇で、彼はつぶやく。
 オリイの目はほんの少し楽しそうに細められる。彼にしか判らないくらいに、それは僅かなものだった。この相棒は表情が少ない。いつの間にか、彼はその僅かな変化を読みとるようになっていた。
 繰り返される。だがそれは日常茶飯事だった。とは言え別段それ以上の関係になることはない。
 十年少し前に拾った子供は、彼の止まった時間を越える手前で、保護者兼相棒にそんなことを仕掛けてくる。鷹はそんな相手にやや戸惑いつつも、したいようにさせていた。
 胸の中には、乾いた砂が、広がっている。ほんの僅かな水では、決してそこは生き返ることが無い。
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