涯(はて)の楽園

栗木 妙

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Ⅰ章.カンザリア要塞島 ─トゥーリ・アクス─

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 それから何事も無く数日が過ぎ去った。
 あれ以来、昼間の総督は、触れようとする俺の手をはたき落としてくれちゃうのは相変わらずだったが、それでも、三回に一回くらいは許してくれるようになった。とはいっても、あまりやりすぎると本気で怒られるから、できて軽いキス止まりだけれど。
 そして夜の盤戯の対戦も相変わらず続いていて、未だ俺は連敗記録を更新中である。
 こちらで変わったことといったら、一晩の対戦回数が一戦のみとなったこと。
 一勝負終わった後、俺が自分の部屋へ戻るまでの短い時間を、寝室で抱き合って過ごすようになったのだ。――これは、『明日に響かないようにするから』『次の休日まで待てない』と拝み倒した俺のゴネ勝ちである。
 さすがに毎日の朝帰りまではゴネても許して貰えなかったけど、それでも充分すぎるほどの幸せには違いない。
 昼も夜も、最愛の人が傍に居る。短い時間でも、毎晩この腕の中に抱きしめて愛し合うことができる。これ以上の喜びなんてあるはずがないではないか。
 俺は今まさにこの世の春を謳歌している、と云っても決して過言ではなかった。
 あまりにも幸せすぎて怖くなる。
 しかし、あまりにも浮かれていた俺は、そんな幸せな日々が永遠に続くと信じて疑いもしなかった。
 ――嵐は、すぐ目前にまで迫っていたのに。


 その嚆矢は、白い鳩の訪れだった。
 いつもの連絡用の伝書鳩。それが書簡を携えてくるのも普段どおりではあったが、目を通した総督が顔色を変えた。
「どうしました、総督?」
 だが俺の問いには応えず、総督は無言で、手の中の餌を出窓の桟に落とした。それにつられた鳩が桟の上へ足場を移すと、そのまま執務机に向かい、その書簡の裏面に短く何かを書き連ねる。
 そして、書いたそれをまた鳩の足に括り付けた。
 そのことに少し驚く。俺が知る限り、いつも鳩の持ってきた書簡は受け取るだけで、返信することなど一度として無かったから。
「疲れただろうが、またすぐに飛んでくれ」
 そう声をかけ、撒いた餌を食べ終えるのも待たずして、総督は鳩を窓の外へと放った。
 窓も閉めぬまま即座に踵を返すと、部屋の隅にかけていた上着を取り上げて、袖を通す。
 そこで初めて、俺を振り返った。
「私は、これから例の崖まで行く。来るなら来い」
「え……?」
「ぼさっとするな、来るのなら早くしろ」
「は、はい……!」
 こちらの答えなぞ聞く前から歩き出していた、その背中を慌てて追いかけてはみたものの、俺の頭の中は疑問符で溢れていた。
 なぜ今回に限って書簡に返信したのか? そして、なぜ取引の場へ向かうのが“明日以降”ではなく“今日これから”でなければならないのか?
 ――つまり、何かが起こった、ということか……?
 そうであったら、答えは一つしか考えられないではないか。


「単刀直入に言おう。――ユリサナ軍が攻めてくる。この数日内に」


 その総督の言葉で、場の空気がどよめいた。すぐさま「何を馬鹿な」「あり得ない」といった声が口々に飛び交う。
 中央砦の、総督執務室の真下にある、ここは作戦会議室。
 カンザリアを統率すべき上層位の士官将校たちを前にし、皆を睥睨するように立つ総督の背後に控えながら、俺はその光景を眺めていた。
 あれから総督は、すぐ東の崖に向かい、既に待ち構えていた連絡係から普段と同じく紙の束を受け取ると、すぐさまそれに目を通した。
 そして、すぐに行動を起こした。
 砦に帰還するや俺に、分隊長以上の士官全員をこの作戦会議室に集めるよう命じたのだ。
 現在、分隊長である大尉ら十二名を末席に、上は総督に次ぐ責任者である大佐までが、この部屋で円卓を囲んでいる。
「残念ながら、国家間の同盟は一方的に破棄されたようだな。私が調べさせたところでは、あちらは既に出撃の準備を万端に整えている。この数日内に、ここカンザリアへ攻撃を仕掛けてくるのは確実だろう。王宮にも、既にその旨を知らせる早馬を出した」
「それで、返事は……?」
 おそるおそる差し挟まれたその問いに、「来るはずがない」と、冷ややかに総督は応える。
「早馬を出したのは今日、それもつい先刻だ。返事など、来るとしても五日はかかる。ひょっとしたら、ユリサナから宣戦布告文書の届く方が早いかもな」
「そんな……」
 どよどよと部屋中に戸惑いの波紋が広がる。
 それも当然だろう。このカンザリアは、もう何十年も戦乱から隔絶された場所だったのだ。すぐに戦争が始まると言われても、そう俄かには受け入れ難いに違いない。
「皆には、いいかげん軍人としての本分を思い出してもらわねばなるまい」
 どよめきの渦の中、それを切り裂くかのような凛とした総督の声が、どこまでも静かに響き渡った。
「早馬で報告すると共に、もちろん援軍の要請もしてはいる。だが、王都からここまで往復で早くて五日、援軍を整えるとなれば、どんなに早くても最低十日はかかるだろう。それまで、この島に居る我々だけで持ち堪えなくてはならない」
 示された具体的な数字に、ますますどよめきは大きくなる。
「いざ戦いとなれば、ここに並ぶ諸君らに中心となってもらわねばならないのだ。まだ動揺もあるだろうが、今すぐに切り替えろ。出来なければ……それだけ早く死ぬことになる」
 途端、部屋の中が水を打ったように静まり返った。
 それを待ち構えていたかのように、「では本題に入ろうか」と、相変わらず静かな口調のままに総督が切り出した。
 囲む円卓の中央には、カンザリア島を中心に周辺が描かれた大きな地図が広げられている。その上にバサッと無造作に何枚かの紙を並べてみせた。
「これが、おそらくここへ攻めてくるだろうユリサナ軍の軍備と総数、その他もろもろの調査結果だ」
 各々その場から身を乗り出し、円卓の中央に視線を投げる。目にすると同時、今度は驚きによるどよめきが広がる。
 俺も、事前にそれは見せて貰っていた。――さすが大国ユリサナ、たかが一要塞を攻略するだけに、半端じゃない数の兵力を投入してくれている。
「この大陸南端部で、本土へ上陸可能な箇所など限られている。ここカンザリアを突破して湾内の港から上陸するか、でなければ、この両半島を逸れて東西に抜けるか、だ。これほどの大軍を率いてくるからには、確実に上陸可能な手段をとるだろう。西にも東にも、上陸できそうな箇所には海軍の砦があるし、その周囲にも軍の駐屯地が多すぎる。時間が掛かれば掛かっただけ、人海戦術の可能な我々に有利となるだけだ。であれば、最も近距離、かつ、最も手薄と思われるカンザリアを、まず落としにくることは間違いない。真正面からくる敵を、我々も真正面から迎え撃つ」
 いつの間にか、そこに居る皆が一様に、地図を示しながら話す総督に引き込まれていた。誰も口を挟むことなく、真剣な眼差しで、その姿を見つめている。
「こちらも、ありったけの軍艦を南正面に配備して備える。今ある十二分隊のうち、四分の三はその前線に配置。残りは、島南と、両半島の防塁にて、砲撃での援護に回す。その分担は、各分隊長で決めておけ。配置が決まれば、あとは普段の演習どおりだ。戦闘中の報告・連絡は途絶えることの無いよう、各隊それぞれ伝令を用意し、通信網は万端に布くように。指令本部は、この作戦会議室に置くが、戦闘中は各現場それぞれの指揮官の指示を最優先とせよ。大佐と中佐は、私とともに本部にて待機、すべての戦況把握と後方支援に努めるように。各防塁における援護部隊の指揮は、少佐三名で分担してもらおう。そして前線での指揮は……」
 流れるように指示を出していた総督が、そこでひととき言葉を止め、背後の俺を振り返った。
「アクス騎士、おまえに任せる」
「――は……?」
 いきなり場違いなまでに飛び出した自分の名前に、俺はその場で固まった。
 だが、そんな俺の様子になど一切頓着せず、総督はなおも流れるように言葉を紡ぐ。
「前線における私の全権を委任する。艦隊を組織し、海上での戦闘の一切において、全ておまえが指揮を執れ。好きなようにしていい、一切の責任は私が持つ」
「ちょ…ちょっと待ってくださいっっ!」
 そこで、さすがに口を差し挟む。ここまで言われては固まってばかりはいられない。
「越権に過ぎます! 俺は、まだ三等騎士です、指揮官となるべき資格がありません!」
「仕方ないだろう、このカンザリアで実戦慣れしている者など、最も新入りのおまえくらいなものだ。兵士をむざむざ死に向かわせるくらいなら、越権だろうが何だろうが、使えるものは何でも使う」
「そうは言っても……!」
「つべこべぬかすな! 貴様も己の本分を思い出せ! 陛下の御前で立てた誓願は、偽りか!」
 そこで、ぐっと言葉に詰まる。
 王がため、国家のため、我らは剣を捧げ、自ずから奮い立ちて戦いの先駆となり、すべての者を導くべき規範となる。――それが、騎士となった者が立てなければならない誓願だ。
「戦いにおいて皆を導くべき騎士が、率先して前に立たなくてどうするのだ! 越権だ何だと御託を並べ立てる前に、己の道の原点へ立ち帰れ!」
 ぴしゃりと一喝され、咄嗟に俺も腹を決めた。
 ――ここで総督の役に立てなければ、俺が騎士であることに何の意味も無い。
「…ご命令、確と承りました」
 さも当然だとばかりにフンと軽く鼻を鳴らしてみせた総督は、そして再び、居並ぶ皆の方へと向き直った。
「聞いた通りだ。私の代理として、前線における事前の作戦・戦略の立案はもちろん、それに伴う全てにおいて、アクス騎士に一任する。皆、その指示に協力して従うように。それと今回に限り特例で、ここに居る全ての者に副官を付けることも許可しよう。必要に応じ、兵士の中から好きに選んで助手に使っていい。あらゆる手段を使って、一刻も早く迎撃態勢を整えろ。さしあたっては、それが急務だ」
 言うや、おもむろにバンと大きく音を立てて、円卓の上に片手を置く。
 そのまま睨め付けるように一同を見回すと、総督は、高らかに通る声を部屋中に凛と響かせた。


「今これより非常事態を宣言する! 全体へ速やかに伝達のうえ、直ちに戦闘配置にかかれ! 今すぐにだ!」


 そうして皆が一様に席を立ち、各々声を掛け合いながら指揮すべき場所へと散らばってゆくのを……俺はその場から動けないままに見送っていた。
 俺も、行くべき場所に行かなければならない。すぐに動かなくてはならない。
 しかし、いきなりのしかかってきた初めての大役に、腹は決めたものの、まず何をどう動いていいのかがわからない。
 ――俺は……まず、どこへ向かったらいいのだろう……。
 戸惑う俺の手を、ふいにあたたかなぬくもりが包んだ。
「すまなかったな……」
 気が付くと、いつの間にか二人きりになっていた部屋の中、俺の手を握った総督が目の前からこちらを見上げていた。
「ひとことの打診もしなかったことは申し訳ないと思っている。それは許して欲しい」
 握られた手を改めて握り返して、俺は静かに「いいえ」と告げた。
「妥当な判断だったと思います。――確かに、おっしゃる通り、ここでは俺が一番実戦に慣れてますからね、俺が総督だったとしても、やっぱり同じ決断をしたはずだ」
 頭では、ちゃんと理解しているのだ。
 ただ、それでも……のしかかる重責に絡め取られてしまう弱気が、まだすぐには拭い去れない。
 ともすれば震えそうになる手を、その繋がれた部分から総督に伝わってしまいそうで、精一杯の意地をもって、より力を籠めて握り直した。
「私も怖いぞ、トゥーリ」
 そんな俺の手を額に押し当てながら、俯いた総督は、そう呟くように洩らす。
「できることなら、おまえを前線なんかに送りたくはない。みすみす殺されに行くような、そんな場所に、なぜ愛する者をわざわざ向かわせねばならない。――もし私が女であったなら……きっと当然のように『行かないで』『傍に居て』と、そう臆面もなく言えるのだろうな……」
「総督……」
「しかし、私は男だ。そして、このカンザリアを任された総督として、個人の感傷で判断を過つわけにはいかない。勝つためには、どうしてもおまえが必要だ」
「はい……わかっています」
「手柄を立ててこい、トゥーリ。そして必ず、生きて戻れ。かつて己で言った言葉を、違えることは許さない」
 そうだ……ちゃんと憶えている。いつだったか、俺は総督に告げた。――『総督のために死ぬのではなく、総督のために生きる、そう在ることで、あなたの助けになりたい』、と。
「俺は、こんなところでは死にません。あなたの役に立つまでは、絶対に死なない」
 ゆっくりと、総督が顔を上げる。
 それを見つめて、確たる決意と共に、俺は告げた。
「何があろうと与えられた職務を全うする、あなたのために。――それが俺の誇りです」
 やおらその両腕が俺の背中に回される。
 俺の肩に顔を埋めるようにして、総督は命じた。微かな震えを、その強い声音に押し隠して。


「――生きろ、私のために」



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