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32.裏切り(★)

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「んぅっ!! ……んん゛っ、……~~っ!!!!!」

「なっ……」

 奏人かなとむさぼられていた。唇を。強引に。

「んんっ……ん…………んぅ……」

 噛み付かれて、吸われて、舐められて。

「んんっ、んん、……~~っ」

 奏人の目尻から、大粒の涙が零れ落ちる。

「~~っ、止めろ!!!!」

 2人の間に割って入る。谷原たにはらさんを突き飛ばして、奏人を強く抱き締めた。

「おぉ! ~~ってぇ……」

 鈍い音がする。谷原さんの背後には白い靴箱があった。

「すみませ――」

 口にしかけた言葉を呑み込んで、首を左右に振る。

「がはッ!!! げほッ……っ」

 奏人が咳込む。不快でならないんだろう。

 ――守れなかった。

 一度ならず二度までも。背中の傷がうずく。責め立ててくるようだ。無能だ。役立たずだと。

「これは失敬。てっきり尚人なおと君かと」

 嘘だ。扉は開いていた。僕が『奏人』と呼ぶ声は聞こえていたはずだ。

「しかしまぁ……双子と言えど、味は違うものなのですね。

「黙れ」

 凄まじい怒気。殺意とも取れる。危険だ。谷原さんのペースに呑まれつつある。暴力に訴えかける前に何とかしないと。

「どうぞお上がりください。、ね」

「ちっ」

 谷原さんは言うなり歩き出した。そんな姿を目で追う内に違和感が。それは次第に確信に変わり、僕を震撼させた。

「なんっ、何なんですかこれは……」

「ああ……いい眺めでしょう?」

 廊下の壁には無数の記事が貼られていた。いずれもスキャンダル。床には例の女優――谷原さんが自殺に追い込んだ女性の記事が落ちていた。

「アナタ方でいうところの、トロフィーやメダルのようなものです」

「下種が」

 同感だ。僕にも到底理解出来そうにない――のに、それでも考えてしまう。谷原さんのこれまでの歩みを。

 僕にも、奏人にもがあった。だからこそ、谷原さんにも――と期待しているんだろうと思う。ほんの少しでも掴めたのなら、それが解決の糸口に、解放に向けた一歩になりえると信じて。

「退け」

「っ!」

 靴箱に身体を打ち付ける。僕がひるんでいる間に奏人が歩き出した。

「待って」

 慌てて後を追うと、リビングに出た。

「ぐっ! ゴホッ……」

 途端にむせた。充満するお酒とタバコの臭い。窓は閉まっているみたいだ。無論、開けるわけにもいかない。ともすれば改善は絶望的。慣れていくしかない。

「……っ」

 痛めた喉に不安を覚えた。昨晩みたいにいざという時に話せなくなるようじゃ困る。幸いなことに、今はまだ何の問題もないけれど。

「…………?」

 咳込んだせいか視界が歪んだ。鼻と口を覆う手は退けられそうにない。まぶたで涙を散らすと、部屋の全貌が見えてくる。

 広さは12畳ほど。左奥には作業机。その机を挟むように本棚が2つ。反対側にも大きな本棚が2つ置かれていた。いずれも満杯で、棚の縁の部分にまで本が置かれている。

 だけど、そんな乱雑ぶりとは裏腹に、どの本のタイトルも知的で難解。洋書もあるみたいだ。社会学、心理学、哲学、事件事故に関する本も見受けられる。

「……元は社会部にいらっしゃったんですか?」

 谷原さんの目が僕を捉える。真意を探る、というよりは驚いているようだった。丸く見開かれた目が細くなって――伏せられていく。

「ええ。元は事件記者でした」

 流れ込んできたのはほろ苦い感情。わびしさ、とも取れた。

「花形からの転落か。ざまーねえな」

「世間的に見れば、ね」

「今の方が性に合っていると?」

「そうは思いませんか?」

 皮肉るように嗤う。怒りも苛立ちも抱かない。感じたのは焦燥感。ほこり塗れの知識の束が訴えかけてくるようだった。これは本心ではないと。

「さて、と」

 谷原さんが歩き出す。リビングの右奥にあたるそこには、テーブルが置かれていた。その上には無数の酒瓶。凝り性なのか全部同じ銘柄だった。黒背景に白字でアルファベットが書かれている。

「一杯どうです?」

 谷原さんの手にはボトルがあった。中身は半分以下。琥珀こはく色の液体が揺れている。

「あのな。俺ら19だぞ」

「お堅いですねぇ~」

 谷原さんは掠れ声で嗤うと、瓶ごとお酒をあおり出した。

「勃たなくなるぞ」

「ご心配なく。職業柄、この程度なら問題ありません」

「……サイテー」

「そらどーも」

「ゲホッ! てめぇっ」

「う゛っ」

 谷原さんの呼気が漂う。脳を勢いよく締め上げて、ふっと緩めたような感覚。これが酔うってことなのかな。だとしたら、逃避にはうってつけだ。こんなんじゃまともに考えられない。過ることもないだろう。良いことも、悪いことも、全部。

「こちらです。どうぞお入りください」

 谷原さんは僕らから見て左側の扉を開けた。大きなベッドが見える。2人、いや3人は寝れそうな幅のベッドだ。入口に対して足を向けるような配置。布団、枕、シーツ共に紺色で統一されている。けれど、整えられているのは色調だけ。どのカバーもしわくちゃで、清潔感に欠けていた。

「へぇ。アンタみたいな下種でも、枕元に写真なんて置いたりするんだな」

 奏人の視線の先、チェストの上には写真立てが置かれていた。中身は見えない。伏せられてしまっているから。

「今は亡き愛猫の写真です」

「ンなタマかよ」

 たぶん違う。すごく気になるけど、生憎とチェストへと続く道は谷原さんが塞いでしまっている。折を見て確認することにしよう。考えを纏めた僕は一息ついて谷原さんと向き直る。

「1つ提案があります」

「何でしょう?」

 身体が、喉が震える。図々しいな。本当に。小さく息をついて両手に力を込める。

「入れ替わりをしてみる……というのはいかがでしょうか?」

「は……?」

「僕が奏人に、奏人が僕になるんです」

「何……言ってんだよ、お前」

 谷原さんの口角が上がる。手ごたえを感じることも、息を詰めることもない。根回しはもう済んでいるから。

「ええ。ぜひ」

「では始めます」

「ばっ、バカ! 止めろって!」

「大丈夫だ」

 眼鏡を外して上着のポケットへ。そのまま脱いで、紺色のマフラーと一緒に床に放った。

 灰色のセーター、黒いズボンのモノトーンカラーに。仕上げに輪郭を明瞭に、勝気で凛とした雰囲気を纏う。

「っ!?」

「言ったろ。ナオは俺が守るって」

「流石です」

 嘲笑混じりな賛美に安堵感を抱く。

「~~っ、ナオはお前だろうがっ!」

「いいえ。その方はカナト君です」

「~~っ、おい!!! ナオッ!!」

 奏人の手が僕の腕を掴む。その手は小さく震えていた。

「バカな真似は――ぐっ!?」

 手刀で拘束を解いた。奏人は狼狽。足元はすっかり留守になっている。

「なっ……!!」

 僕は身を屈めて奏人の足を払った。

「がはっ!?」

 奏人の身体が床に沈む。

「ナオ……っ、てめ……」

 受け身は取れなかったみたいだ。背中を丸めて悶えてる。でも、これじゃ足りない。

「……っ」

「がはっ!?」

 お腹に蹴りを入れた。加減なし。全力だ。

「これはこれは……」

 蹴っていく。何度も。何度も。サンドバックを相手にするように。

「あっ!? がっ!? あぐっ!! ぁッ!!」

 吐血した。白茶色のフローリングが赤黒く染まる。

「……っ」

 冷たい雨。肉が破けて、骨が軋む。血の香りと感触。留持るもちさんに叱られた過去が過る。追い打ちをかけるように小さな僕が叫んだ。反発するように僕も叫ぶ。

 ――綺麗なままじゃ守れない。守れないんだ。

「ハァ……ハァ……っ、……ハァ……」

 奏人はうずくまったままほとんど動かなくなった。苦し気な呼吸音がこだまする。

「ばか……やろ、……う……っ」

 足を掴まれたけど、一瞬の内に解けた。僕はただ前に進んだだけだ。奏人はもう何も出来ない。

「見事ですね~。どうです? 今からでも空手に戻られては」

「寝言は寝て言えよ」

「かつてのように、空手道をまい進する。話題性は十分かと思いますがね」

「……取材不足だぜ、おっさん」

「はい?」

「流派がちげーんだよ。

「ああ……そうでした。お兄様は実践から伝統空手に転向されたのでしたね」

「無理矢理に、な」

 五輪で金メダルを取ってほしい。父さんを始めとした沢山の大人達から熱望された。兄さんがまだ12の頃の話だ。断れるはずもなかった。

『頑張らないと』

 寂し気に笑う兄さんの顔を、今でもハッキリと覚えている。

 そんな兄さんに対して僕は、――なんて身の程知らずな夢を語り、約束を交わした。結果は言うまでもない。

「……さっさと終わらせんぞ」

「それは楽しみです」

 谷原さんは言いながらベッドに上がった。そのまま奥へと進み、ベッド横の壁にもたれかかる。僕も後に続いて、谷原さんの横の壁に手をついた。目を開けたまま顔を寄せる。

「ん……ハァ……っ」

 唇を重ねる。左右の角度を変える内に、谷原さんの唇が開いた。お酒の香りがする。眉間に皺が寄るのを感じながら舌を入れていく。

「んっ……ハァ……あっ……」

 頭がじんっとしびれる。喉が熱い。苦く、辛い味も変わらず。すすけた体臭も相まって吐き気がした。奏人にまでこんな思いを。後悔の念がひたすらに膨らんでいく。

「んっ……っ!」

 押し倒された。頭上には白い天井を背にした谷原さんの姿がある。カチャカチャと音を立ててベルトが外されていく。

「や……めろ……っ」

 目をやると奏人は変わらず入口付近に倒れていた。起き上がろうと腕を杖にするけど、思うようにならないみたいだ。悔し気に舌打ちをしている。

「ぐっ……ぁ……っ」

 指が入ってくる。途端に収縮した。求めているんだ、谷原さんの男根を。浅ましい。けど、この場においては大いに役立つ。

「おやおや。アナタ程のお方がを怠るとは」

「は……?」

「目覚めてしまったのですか? 酷く抱かれる快感に」

「~~っ、んな訳あるか!!」

「そーですかそーですか。では、ご期待に応えないといけませんね」

 穴にペニスが当たる。解さず挿れるつもりなんだ。昨日の奏人にしたように。理解するや否や、口角が上がる。

「上等」

 谷原さんが嗤う。隙間からのぞく歯は相も変わらず黒ずんでいた。

「止めろ!! やめっ、ぐ……っ……」

 奏人が叫ぶ。上がりかけた身体が沈んで、あごをぶつける。

「くそ……っ、くそ……~~っ、くそぉ!!!!」

 奏人が床を叩く。そんな手の動きを目で追う内に、意識が、身体が大きく揺らいだ――。


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