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しおりを挟む「ごめん、これはもうやめておこう」
なおも説明なく絞るように言葉を吐き出したフェルナンドが、切羽詰まった様子で彼の腿に触れる私の手を取った。そのまま言葉なく縛り上げたロープを解こうと手先を動かしている。
ただ照れているというよりも、焦って何かを隠そうとしている子どものようだ。フェルナンドの豹変の理由がわからない。わけもわからずに、ロープを解こうとして私の目の前にかがみこんだいる彼の横顔に問いかける。
「フェル、どうしたの? 何か気に障ることをしてしまった?」
極力ゆっくりと、フェルナンドがいつもしてくれているように語りかける。そうするとフェルナンドはまたしてもぎくりと体をこわばらせて、その手の動きを止めた。
よほど混乱していたのだろう。少し前に簡単に縛り上げたはずのロープはぐちゃぐちゃに絡まっている。
「フェル……」
彼の混乱を解くように、もう一度優しく名前を呼ぶと、己の声は不思議と甘やかな蜜のような音色になっていた。
頑なに顔をあげようとしなかったフェルナンドと至近距離で視線が絡まる。
どくん、と内側から体を叩くような音が鳴った。それが己の鼓動なのだということを察するのに、わずかに時間を要した。
彼の瞳に浮かぶただならぬ熱に、わけもなく胸が落ち着きなく鼓動しているのだ。
――これは、いったい何なのかしら?
フェルナンドの瞳は不安げな子どものように揺れているのに、猛烈に熱く、しかも触れると火傷をしてしまいそうだ。
その瞳の持つ意味を考えることもできず、ただ魅了されていた。
フェルナンドは私が何も言わずに見つめ続けると、ややしばらくして片手でその顔を覆い隠してしまった。大きな体のフェルナンドが子どものように体を小さくしてうなだれている。そうして彼は、呻くように小さく言葉を返した。
「……違う。あなたは何も悪くないんだ。悪いのは私で。……ごめん、今、あまり近づかないで」
迷える子どものような当惑と絶望をないまぜた声音で囁いたフェルナンドは、近づくなと言いつつ縛り上げた私の手首を弱弱しくつかんでいる。
まるで、己の本心とは逆の言葉を無理に絞り出しているかのようだ。
フェルナンドが私を自由にさせたいと思うのは、自分自身が叶えられなかったことを、私に叶えてほしいと願っているからなのではないのか。ふいに彼の心の深淵を覗いたような気がして、その肩を優しくなでるような気持ちで囁いた。
「どうしたの? フェル、あなたも心の声をどうか無視しないで。私たち、夫婦でしょう?」
「……おかしな癖がつきそうなんだ」
「おかしな癖?」
その時の私は知りもしなかったのだ。美しく誠実で、この世で最も清らかに見える男の腹にも、等しく悪魔が住んでいるのだということを。
言葉の先を促すように彼の言葉を復唱すると、フェルナンドはとうとうその顔を上げてルビーレッドの潤んだ瞳をもう一度私にさらけ出した。
そこで私は、ようやく思い出した。
この瞳の色が何であるのか、私は知っていた。先程見た時にも奇妙な既視感を覚えていたはずなのだ。
この色を、彼のことを深く知っていくうちに、すっかり忘れかけてしまっていた。
フェルナンドにも人並みに欲望というものが存在し、心優しい彼はいつもそれを腹のうちに抑え込んでいる。
この瞳は、彼のあらゆる欲望を必死に抑え込もうとする葛藤の色だ。
――けれどフェル、あなたが私に対してその欲望を隠しておく必要があるのかしら?
「フェル、どうしてためらうの?」
握られた指先に返すように力を入れると、フェルナンドは息をのんでますます食い入るように私を見上げた。
「ユフィ、わたしは……」
「癖になってしまいそうなほどお気に召されたのなら、このまま先へ進んでいいのよ? フェル。私はもう、あなたのもので、あなたがどんなことをしようとかまわないと言っているの。この意味がわかるでしょう?」
生まれてこの方、誘惑など誰にも教わらなかった私に欲情するほどなのだ。
彼の瞳は、まるで飢えをしのぐために施しを乞う子どものようだ。その視線にひどく心を揺さぶられているのは、フェルナンドの生き方が私のそれと似通っているように感じられるからなのか、それとも――。
「私が思うに、フェルは私以上にいつも自分の気持ちを抑圧しているのだわ。ですから今宵くらいはあなたの心に正直に、したいようにふるまってほしいの。それが私の望みだもの。あなたは私に言ったわ。部屋に閉じ込められる理由などなく、私は自由なのだと。……フェルもそのはずでしょう? 暗い部屋に、本当に望むことを隠しておかなくともいいの。あなたは自由で、いつもあなたがしたい選択を取るべきよ。フェル」
愛を説く聖人のようにゆっくりと丁寧に囁き、その額に口づける。離れてほしいと告げながらも私の手を離そうとしない彼の手は、しっとりと汗ばんでいた。あの演劇とは違って、この場で泣いてしまいそうに顔を歪めているのはフェルナンドの方だった。
「……ユフィ、私は……、あなたを傷つけたいわけじゃない。そんな恐ろしいことは、考えてない」
ぽつりとつぶやいたフェルナンドは、しかしその手で私を縛り上げるロープを撫でるようになぞっていた。伏せられた目は物憂げで、筆舌に尽くしがたい複雑な魅力を放っている。まるで熟練の職人によって丁寧にカッティングされたダイヤから放たれる光彩ようなのだ。
一切曇りのない美しさを見ると、人はそれを穢してみたくなるのだろうか。少なくとも今の私は、そのような恐ろしい感情に苛まれている。だがフェルナンドは言ったのだ。私は自由であるべきなのだ。
己の良心の呵責に苦しむ隣人に、悪魔のような言葉を囁いても、フェルナンドはそれが私の意志であるならばよしとする聖人だ。
「……別に傷をつけてもよろしいのに。自分の傷は簡単に治せるわ」
「ユフィ、頼むから誘惑しないで」
泣きそうに歪んだ声を聞くたびに胸におかしなざわめきが広がる。
フェルナンドが、人を意図的に傷つけることに欲情するらしい己の癖を恐れる一方で、私は聖人のような人が、その良心の呵責を飛び越えて己の思うままにふるまう姿が見たいのだと気づいてしまった。
――なんて歪んでいるのかしら。けれど、不完全な方が愛くるしい。
「……あなたの心は、私を傷つけたいのですか」
悪魔のささやきを彼の右耳に吹き込む。私の吐息が耳殻に触れたフェルナンドは、可愛らしいうめき声をあげて私の指先を強く握りしめた。
「違う。そうじゃない。……そういうことではないんだ。……だが自分にこんな感情があったなんて、驚いているよ。どうしてか……」
「どうしてか?」
「――ただ、何かが私のものであったことがないから、確かめたくなっているんだ」
「フェルは、なにを確かめたいの?」
「……あなたがいつまで、私のものでいてくれるのか。私がどれほどひどいことをしても、あなたは私のものでいてくれるのか。……それを確かめたくて。確かめたらますます、あなたにひどいことをしてしまいそうで」
――私はそれがおそろしいんだ。
この世のすべてを手に入れることもできる立場にいる王子が、たった一人私の前で蹲っている。まるで、自身の胸中に悪魔が生きていることを恐れ、ひた隠しにしていたいつかの私のようだった。哀れで、かわいそうで、いとおしいフェルナンド。
「私は親切な友人のような顔をしてあなたに近づくならず者かもしれない。だからユゼフィーナ……」
フェルナンドは、哀れに告解する己を眺める私が彼の言葉を遮るようにその唇に口づけたのを見て、とうとう言葉を途切れさせてしまった。
この国の王族を意味する赤い瞳が揺らいでいる。その赤の中に、たしかに欲情と期待が入り混じっていた。
たとえば男神をたぶらかす女の悪魔は、男神が、女を悪魔と知っていて自身の良心に苦しみながらも女を見上げるその瞳を、いっとう好んでいたのではないだろうか。
「……フェル。だけれどそれが夫なら、罰せられはしませんわ。だって、私はあなたのものですから」
陶酔を隠すことなく唇が触れ合いそうな距離で囁く。
そのうちに私とフェルナンドの唇が柔らかく触れ合うと、彼はついに腹を空かせた獣のように低く喉を鳴らして私の体を押し倒してしまった。
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