上 下
49 / 50

49

しおりを挟む
「フェルに?」
「……公爵は、おそらくマリエラに一目ぼれをしたんじゃないかな」
「……彼に限って……、ありえないわ」
「はは、そうかな。……ユフィ、僕は前にも言ったよね。私はあなたが思うほど公明正大な人間でも清廉潔白な男でもない。愛する人がどこか遠く、見知らぬ男のもとへ行こうとしていたら……、本心では私の寝室につなぎとめておきたいと思ってしまうだろうね。公爵もそのように思ったのかもしれない。……己のものにならないのなら、せめてこの手の内に閉じ込めてしまおうと。……それさえも叶わないなら」
「叶わないなら……?」
「その心に傷をつけてでも、己の存在を認識させようとする。たとえばマリエラとその愛する者の愛の結晶であるあなたを痛めつけて、マリエラの心を己に向けさせようとした。だがマリエラはどこまでも高貴で一途な人で、決して公爵を見つめなかった。そのうちに彼女はあの教会の一室で、恋人を思いながら毒を煽った。やがて公爵はマリエラをひどく憎むようになった。己をたらしこんでおきながら他の男にうつつを抜かし、こちらには目も向けぬ悪魔。――しかし悪魔と知っていても、公爵は決してマリエラを憎悪しきれなかった」

 それほどまでに強烈に、マリエラを愛しているからだ。

 フェルナンドの仮定の話につい聞き入って、後ろを振り返ってしまった。彼はようやく私が彼を視界に入れたことがうれしいのか、得意げに笑って私の唇に可愛らしく口づけた。

「だからユフィ、彼はこの絵画を愛していたんじゃないかな。神の僕である己をひどく蹂躙し、傷つけながらも死にゆく悪魔。まるで彼から見たマリエラにそっくりだ。彼にとっては中央に描かれたこの先王がマリエラの恋人のような邪魔な存在に映っているのかもしれない。……いや、もしくは彼はあの絵画に描かれた先王が己で、マリエラとその恋人を引き裂く己の姿を喜ばしくも疎ましく思っていたのかもしれないね。――あなたも知ってのとおり、絵画とは様々に解釈されるべきものだ」
「それはそうだけれど」
「サンクトリウス公爵邸の彼の執務室を調べたら、隠し扉の中から悪魔に関する資料が山ほど出てきた。はじめはそれを滅するために集められたものなのだと私も疑わなかったが……、彼が熱心に見た痕が残されたページはすべて、悪魔となり得る条件が羅列されたものだったよ。ユフィ、彼はおそらく、悪魔になる方法を探していたんじゃないかな」

 大神官にはあるまじき思想だ。信じられず言葉を失っていると、フェルナンドは私の心を落ち着かせるように私の頬を柔らかくなぞった。

「一般的に悪魔と言われると私たちはこの絵画に描かれる女に化けた悪魔をイメージするが、聖書にはそれ以外にも様々な悪魔について言及しているね。それらはすべて等しく地獄の底に突き落とされ、永遠に苦しみ続ける、と。――そうであれば、公爵はこう考えたんじゃないかな。一足先に地獄に突き落とされたマリエラに出会う方法は、己も地獄に落ちることだと」

 “ミハエル・サンクトリウス、悪魔がために地獄へ眠る”

 フェルナンドが見たというサンクトリウス公爵の言葉を思い浮かべつつ、小さく息を吐き出した。

「それはまた、随分と歪んでいるわ」
「そうだね。そのためだけに彼はその血に宿る異能さえも使って、あなたをここまで追いつめたのだから」

 サンクトリウス公爵家は王族との関係が非常に深い。死した彼の母にあたる人は二代前のエズオスパルド王の妹だったらしい。基本的に王族の血を濃く引き継ぐ傍系の者は、死すまでその体に宿った異能の力を使わず、何者にも伝えずに生きることを命じられている。しかし公爵はその禁を侵して異能を使った。

「まさかシスターミリアが彼の力に体を奪われていたなんて……」

 彼の能力は、異界の地からまったく別の人格の人間を憑依させることであったようだ。

 彼はミリアに乗り移った人格を『転生者』と言い表し、その者の行動や言動をすべて記録に起こしていたらしい。私が聞いた『攻略』や『ハーレム』などの言葉もその記録に残されていたようだ。

 彼は記録を起こすうちに、呼び出した『転生者』がこの世界の数多に分岐する未来をよく熟知していることに気づいた。そしてその未来が、必ずこの国の王が変わる日で終わっていることも察した。

 『転生者』はこの国のことをよく『ゲーム』と呼んでいたらしく、また、『転生者』こそがその『ゲーム』の主人公なのだという主張を繰り返していたことも記録されていた。

 つまり彼は、ミリアの身に『転生者』が憑依して何をしようとしていたのかをよく理解しており、さらに彼女がこの世界に存在していられるであろう期間のリミットを知っていたのだ。

 そこで彼は、己の娘が最も苦しむルートを『転生者』に『攻略』させることにした。

「ユフィも知ってのとおり、親が罪なき子を裁き、自由を奪うことは決して許されていない。まさに悪魔の所業だよ。……まさしく彼は地獄に落ちただろうね」

 その後ミハエル・サンクトリウスがマリエラに出会ったのかどうかなど、私たちにわかることではない。そもそもマリアラは愛する男性を一途に思いながら死に絶えたことになる。そうであればマリエラが地獄に落ちるとは考えられないが――、己の人生を狂わせてでも愛を欲するミハエルの姿を思い浮かべ、すぐに頭から追い出した。

 すでに私とフェルナンドにとっては過去の出来事だ。

「……フェルはこの絵をどのように解釈するの? そういえば前に言っていたじゃない。あなたがもしも神なら、『犠牲と審判』の意味も変わってくるかもしれない、と」

 沈みかけた空気を変えるように努めて明るく声をかけると、少し考え込んでいたフェルナンドも柔らかに笑みを浮かべて口を開き直した。

「ああ、私がもしもこの男神なら間違いなくあなたがこの悪魔になるだろう? だから、こう解釈するよ。……神は己の恋情によってあなたにこの世のすべてを差し出そうとした。しかし一方では、あなたが私を同じように愛し慈しんでくれているのか、つねに疑念に苛まれ――あなたを傷つけたいとも考えていた。故に神は、一度人間があなたを傷つけようとする瞬間を見守ろうと思ってしまった。悪魔には心臓がないから決して愛する人が死に至ることはないと、そう思い込んでね。けれど悪魔は雷の刃で貫かれ、呆気なく散っていった。……なぜならその女人は悪魔などではなかったからだよ。ただ、人間の都合によって悪魔であると思い込まされ、悪魔のようにふるまおうと懸命に己を律していた可愛らしい人間だったんだ。こうしてあなたの『犠牲』によって男神は落ちぶれ、『審判』が下るんだ」
「男神に審判が?」
「そう。……彼は審判を受けて、人間となってしまうんだ。それだけじゃない。たとえば次にその神が生まれたとき、もちろん彼に聖力などなく、愛する者に触れる機会も到底訪れない。運命には散々遠ざけられ、手を伸ばしても決して届かないという枷を嵌められた、とかね」
「まあ。フェルは物語を作るのも上手なのね」

 彼の言葉には、それが正しい物語なのだと思わせるような力があった。首をかしげて問うと、フェルナンドは苦い顔をして観念するようにつぶやいた。

「度々同じ夢を見る。……あなたに触れた日から、その夢が明確になっていたんだ。それが今話した物語だよ。……夢の中のあなたは私が傷をつけると、決まって少し嬉しそうに笑いながら目を閉じていく。この夢がまるで罰のように何度も繰り返されるものだから、……僕はあなたのことを傷つけたいのかそれとも違うのかわからなくなって……、ますます確かめたくなったよ」

 たしかにフェルナンドは何度か夢見がよくないと言っていた。時には飛び起きて私を抱きしめた日もあったのだ。

 しかしそのような思いに苛まれていたとは知りもしなかった。気難しげな表情を浮かべるフェルナンドの頬に口づけて、優しく名前を囁く。

「何度も言っているとおり、フェルはいくらでも私を傷つけていいのよ。……私がもしもその悪魔の生まれ変わりだというのなら……、悪魔は真実あなたを愛していたのね。だからこそ、あなたの目の前で死んでしまえば、あなたはとても苦しんで私のこと決して忘れないだろうと思って。……消えない呪いをかけてしまったのだわ」

 ――かわいそうなフェルナンド。それが真のことであったとしても、そうでなかったとしても、もう私以外の人間とは、縁を結ぶことなどできないだろう。

「それは……、随分と僕は愛されていたみたいだ」
「ええ、今もそうなの。けれどフェル、あなたはこの人生でディアドレの剣から私を守ってくださったわ」
「当然だよ。あなたの死などもう二度と見たくない。それにね、僕はあなたを傷つけたい気持ちももちろんあるけれど、それは僕の手によって苦しむあなたが見たいだけなんだ。他の男に傷つけられるような姿をまた見てしまったら……ユゼフィーナ、あなたはわかってくれるよね?」

 フェルナンドの平穏は、私の側にしか存在しないのだ。この場当たり的な婚姻をはじめてからすっかりそのことを覚え込まされてしまった。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

【R18】幼馴染が変態だったのでセフレになってもらいました

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:766pt お気に入り:39

【完結】 婚約者が魅了にかかりやがりましたので

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:1,810pt お気に入り:3,435

俺のセフレが義妹になった。そのあと毎日めちゃくちゃシた。

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:674pt お気に入り:38

婚約者から婚約破棄をされて喜んだのに、どうも様子がおかしい

恋愛 / 完結 24h.ポイント:1,180pt お気に入り:6,237

処理中です...