薄明の契り ―私を喰らう麗しき鬼―

藤川巴/智江千佳子

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千代ちよ、私の話聞いてる?」
「え? ああ、ごめん。なんだっけ……?」

 考え込みすぎていた。横から私の顔を覗き込む女――ヤエは予想通りぷっくりと頬を膨らませてこちらを睨んでいる。途中まで熱心に聞いていたつもりが、相槌を打つうちに、昨晩の夢が思い出されていたのだ。

「だから、神主様のことよ」
「ああ、うん。神主様ね」

 その話であることは知っている。なんせ、ヤエはいつも神主のことを話しているのだ。


 この村の神社には、美しい神主がいる。

 貴族の娘のように美しい黒髪を結わえ、常に白い水干に紅の袴の恰好をしており、一目見れば神官であることが察せられる。神に仕える者らしく、非常に物腰柔らかで、親切な人なのだと言う。さらに見目麗しく、神主という朝廷の役職についている彼は、常に女の注目の的だ。

「今年の成人の儀は私と千代だけでしょう? だから、千代が参加しなければ、私一人じゃない」

 神主を見た者は、皆一様に同じ反応をする。世にも美しい神に魂を抜き取られた者のような、何一つ憂いのない笑みを浮かべながら、手放しで神主を称賛する。

 ヤエも神主を崇拝する者のうちの一人だ。

「それは……、そうだけども」
「千代は神主様には興味がないんでしょう? それなら、ね? その日は儀式にも参加しなくていいじゃない」

 この村では十九歳になると、神社で元服の儀式を行うこととなる。毎年夕刻から夜明けまで行われるこの儀式は、件の神主が取り仕切っている。

 普段はどれだけ村民に誘われても夜更けまで出歩くことをよしとしない彼と、唯一夜を共にできる機会なのだと、ヤエが何度も口にしていた。

 北山の中腹に位置するこの村は、ただでさえ閉鎖的なのに、一年のほとんどの間が冬の季節だ。そのため目立った娯楽はなく、この村から抜け出したいと考える娘は少なくない。ヤエもそのうちの一人だ。しかし彼女はこの村の長の娘で、そうやすやすとここを出ることもできない。

「ね? 千代、いいでしょう? だって私と千代の仲じゃない。どうせ千代はおじさんのお墓のほうが大事だろうし」

 ヤエは猫撫で声で囁きながら、雪を溶かして作った水で着物を洗う私の腕に触れた。

 労働のために、汚れても問題のない色褪せた小袖を着る私とは対照的に、ヤエの装いは桃色の可愛らしい小袖だ。おそらく父親にねだって新しく買ってもらったのだろう。これから神主のところへ行くつもりなのかもしれない。

 二年前、育ての親を失ってから、私はヤエの屋敷で下働きをさせてもらっている。働くすべも知らぬような娘が天涯孤独の身となっても、手を差し伸べようとするような物好きはいない。しかしヤエの父は、私の育ての親との約束があると言って、私のことを拾ってくれた。

 成人の儀に参加しないというのはあまりにも罰当たりな振る舞いだ。しかし、ヤエは私がいないほうが都合がいいのだろう。私自身としても、神主にはあまり――いや、かなり顔を合わせたくない。

 しばらく逡巡して、ゆっくりとうなずいた。

「ヤエちゃんが、そう言うなら……、そうする」
「本当? よかった! それじゃあ、絶対、絶対に邪魔しないでね?」
「う、うん」
「じゃあ早速神主様にお伝えしてくるから!」
「……わかった」
「あ、あと私の部屋にかけてある着物、繕い直しておいて。今日中によ。それじゃ私、今から行ってくるわ」

 勢いよく言い切って微笑むヤエの唇には薄らと紅が塗られている。

 あの神主が、果たしてヤエを愛することはあるのだろうか。いつも慈愛に満ちた美しい微笑みを浮かべている人なのだと聞く。しかしどうしても、私にはそのようには思えない。

『ああ、ようやく捕まえた』

 耳元に囁かれた言葉が再び頭の中で反芻され、かき消すように洗濯仕事に打ち込んだ。

 ◇

「おじさま、今日は白米をいただいたから、おすそ分けにきたよ」

 私の育ての親の墓は村から半刻ほど歩いた先にある。ヤエの父――旦那様のお使いで村を出るときには必ず立ち寄っている場だ。

 村の最奥に位置している神社とは違い、寂れた祠だけがぽつりと置かれているこの場所は、私以外、誰一人訪れていないのだろう。いつ来ても雪まみれで、胸が苦しくなる。

「……私もあとほんの少しで十九になるんだって。おじさまと別れてから、もう二年も経つんだね。……私はあまり変わらなくて、いや、お仕事は、少しだけできるようになってきたかなあ」

 以前に比べれば、旦那様に仕置きをされる機会もかなり減った。うまく仕事をこなせば、こうして自由な時間を作ってこの墓を参ることもできる。

「……おじさまは、いつになったら私を迎えに来てくれるのかな」

 物心がつく前から、私の側には一人の男がいた。その人は十人が見れば、そのうちの七人は顔を忘れてしまいそうなほどありふれた顔立ちの中年で、しかも口を利くことができなかった。

 しかし、明らかに私と彼の顔立ちは似ていない。彼の髪は薄茶色であったが、私は鴉のように真っ黒だ。その他にも彼は一重瞼の釣り目だったが、私は二重瞼にくっきりとした丸い目で、さらに、彼の瞳が庶民にもよくある黒色であることとは対照的に、私の瞳は紫紺の気味の悪い色だ。

 言葉を交わすことができずとも、彼と私が血縁関係にないことは一目瞭然であった。

 そのような状況だから、私は育ての親の名も知らず、いつしか彼のことを『おじさま』と呼ぶようになっていた。

 彼とは言葉を交わすことはできなかったが、常に私の側におり、成長を見守ってくれていた。また、家事の類については不得手のようだったが、狩りに出掛けて金を稼ぎ、十分に豊かな暮らしをさせてくれていた。言葉などなくとも、彼の優しい瞳を見つめているだけで、私を大切に慈しんでくれているのだということが伝わってきた。

 しかし彼は私が十七になる年に、狩りの途中で遭難し、二度と帰らぬ人となる。

 近頃の私は、いよいよ孤独に耐えかねていた。彼が残した小さな家に帰っても、気の抜けるような笑みを浮かべてくれる人はいない。この先もただずっと同じ日々が繰り返されるのだ。

 彼の言葉の通り、村長は私の面倒を見てくれているが――。

「……ううん、何でもない。少し変な夢を見て、疲れているみたい。また、お掃除しにくるからね」

 気持ちを切り替えるように、身体を起こしてその場に立つ。そうして、一方的に語っているうちに祠の上に降り積もっていた雪を丁寧に払って、一つ息を吐いた。

 これから街へ降りて、村の猟師たちが獲った獣の皮を売り払ってこなくてはならない。宿を取る余裕などないから、夕暮れまでに村に戻る必要がある。ここで油を売っている暇はないのだ。

 おじさまは、私が村を離れることをいつも嫌がっていた。猟師だった彼からすれば、小さな子どもが山で遊びまわるところなど見ていられなかったのだろう。

「でも私、実は結構寒さには強いんだよ? 知らなかったでしょう?」

 茶化すように呟いても、私の声には誰の言葉も返ってこない。

「では、行ってまいりますね」

 きっと疲れているから孤独だなどと、おじさまの元へ行きたいなどと、思ってしまうのだ。

 昨日は新月の夜だった。あのおかしな夢を見る翌日は、どうも落ち着かなくていけない。こういう日は、たとえ吹雪の中でも村を離れたかった。村にいると、どうしても恐ろしくてたまらないのだ。

 しかし一度見てしまえば、次の新月まで同じ夢を見ることはない。

 雪の上を踏みしめつつ、安堵の息を漏らす。そうしてその日の私は、夕日が山際に隠れる寸前に村へ帰り、人気のない自室で、早々に眠りについた。
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