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しおりを挟む肌は薄らと上気し、瞳は露が零れ落ちてしまいそうなほど潤んでいた。紅を乗せたわけでもないのに淡く色づいた唇はしっとりと濡れて、熱を持っている。無意識に指先で触れていたことに気付き、すぐに手を離した。
――違う。これは、私ではない。
誰に言い聞かせるでもなく胸の内で独り言つ。
何度も振り払うように頭を振って、着物の整頓もそこそこに、姿見から逃げるように部屋を出た。今日の仕事はヤエの私室の片付けで終わりだ。もう家に戻っても問題ないだろう。じきに日も暮れる。
頭の中で言い訳を思い浮かべつつ、逃げ帰る盗人のように一心不乱に足を動かし続け、屋敷から抜け出したところでため息を吐いた。
逃げ出そうにも、行き場などない。それにこのような奇怪な現象を、いったい誰に伝えようと言うのだろうか。
何か、おかしな妖に化かされているのだろうか。そうでなければ、これほどまでに詳細に同じ淫夢を見るとは思えない。しかし誰にこの頭に取り憑いている怪異を払ってもらえばいいのか、見当もつかない。
一瞬、頭の奥に神主の姿が過ってすぐにかき消した。
神に仕える者であればこのような奇怪な現象も、取り払うことができるのかもしれない。しかしどうだろうか。
毎日あなたの夢を見る。夢の中で、あなたに身体を暴かれている。などと言う女がいたら、確実に頭がおかしくなったと思われるはずだ。
八方塞がりになり、小さな家にたどり着く頃には全身が重たくなっていた。
次に夢を見るとしたら、それは間違いなく今夜だろう。しかし、今宵の私がまんじりともせず朝を迎えたとて、いずれ夢はやってくる。
自身の汗で汚れた着物を脱ぎ、新しいものに着替えた。そうして一つ息を吐いて、結局考えがまとまらぬまま、もう一度立ち上がる。
おかしな夢は、もうずっと前から見続けていた。人間離れした美しい男鬼がこちらに手を差し伸べてきている夢だ。しかしその夢は、おじさまが側にいるうちは何一つ変わることがなかった。だからおじさまがいなくなってしまってからもしばらくの間は、あれとの距離が近づいていることに気付かなかった。
「……おじさま」
おじさまの側であれば、夢を見ることもないかもしれない。確証のない推論を立て、笠を手に再び外へと足を踏み出した。
とにかく全てに疲れ切っていた。連日続く終わりのない労働も、この夢にも、そして、途切れることのない孤独にも。
ふと空を見上げると、遠くでは夕日が山際に吸い込まれて消えようとしていた。
おじさまは私が村の外へ出ていくことを過剰に嫌がっていた。それどころか夕日が落ち始めてからの時間は、家を出ることさえも嫌った。
そのことを思い出し、村の出入り口の前で一度足が止まる。
もう、おじさまのように、困った瞳で私を見下ろす優しい人はいない。この先はずっと、この孤独が私の背中にぴったりと張り付くのだ。
そのことを思い出し、頭に笠を被って一歩を踏み出しかけた。
「君、こんな時間に出かけるのかい」
低く、しかしまろやかでよく通る明快な声が耳に届く。
その人は、私がぴたりと動きを止めたことに気付いて、軽やかな足取りでこちらへ歩いてくる。さく、さくと雪を踏みしめる音がして、次の瞬間には、私の横に立っていた。
「あ……」
「今はまだ明るいが……、すでに日も沈んでしまっているだろう。あれが完全に消えれば、ここは真っ暗闇だ」
あくまでも穏やかに語り掛けられているはずが、何故か拒絶する気が起こらない。私を諭す凛とした声色に、ゆっくりと顔を上げた。
あれ、とその男が指さしているのは、山際に飲み込まれた太陽だ。山際からこぼれるわずかな光源に照らされた横顔は、やはり――あまりにも夢の中の男と似すぎているように見えた。
北の山では夕暮れ時の薄明も、夜明け前の薄明も同一のものに見える。
寒々しい色合いの山を包む光は限りなく無に近いほど淡く、心わびしく感じるほどに儚い。
この一時の間にふと目を覚ますことがあるとしたら、間違いなく、これから一日が終わろうとしているのか、はたまた始まろうとしているのか、判別することができないだろう。
そのような異質な時限に現れた神主は、言葉を失くしている私の顔を見て、柔らかに笑みを浮かべた。
艶やかな黒髪を結えた白皙の麗しい男。男は一目で神に仕える者であることがわかる装束を身に纏い、いかにも無害そうな顔つきで笑いながら言った。
「どうした? まるで化け物でも見るような顔をしているじゃないか。……ああいや、失礼。怪しい人間じゃない。私はこの村の奥の神社を管理している者だ」
それを知らぬ人間は、この村にはいない。
そのことを男も十分に理解しているだろうが、私がこれまで、一度として彼に話しかけようとしたことがなかったことを察して、丁寧にあいさつをしてくれているのだ。
気さくでまっとうな、ごく普通の神官だろう。しかし、あまりにもこの明るい調子の声が、そして砕けた語り方が、夢の中の男鬼を彷彿とさせる。
ますます黙り込む私を見る神主は、少し困ったように眉を下げて、口を開いた。
「取って食おうとして声をかけたわけじゃあないんだ。君も遅い時間に村を出るべきではないことを知っているだろう? それに明日は、君の元服の儀式の日だろう」
「え……」
その儀式には参加しないとヤエが伝えているはずだ。思わず声を上げてしまった私を見て、神主は一瞬口元をほころばせた。
「なんだ、忘れていたのか? 明日は君の門出の日だろう。必ず参加するように。だから今日は、大人しく家でゆっくりしていたらどうだ。君の叔父上も、それを望まれているはずだ」
私が反応を見せたことが嬉しいのか、男は微笑みを浮かべながら頷いている。村社会では、こうしてこちらの家の事情が筒抜けになっているのはよくあることだ。
「墓参りは、また手が空いた時にでも行ってやればいい」
まろやかに諭されているだけで、拒絶する気が起きなくなってくる。不可思議な心地だった。
神主の黒い瞳は澄みきった湖の底のように凪いでいて、一切の濁りがない。
「それとも何か、憂いがあるのかい」
ゆっくりと立てられた問いに、頭がひとりでにうなずく。
呆然と美しい瞳を見上げているうちに、周囲は不自然なほど静まり返っていた。いつの間に、ちらちらと降り続いていた雪が止んだのだ。
この村は、ほとんど毎日のように細雪が降る。ゆえに、これほどまでにあたりが静寂に吞み込まれているのはどこか異質で、奇妙だった。
「どんな憂いなんだ?」
ぞっとするほどに低く重々しい声が囁く。
その問いに、なぜか何の疑いもなく答えを返そうと口を開きかけ――すぐに唇を閉じ直した。
よく知った匂いがする。
その匂いに気づいて、震える唇を真一文字に引き結んでから、すっかり細くなった声で呟いた。
「いえ、もう、大丈夫です。……解決しましたから」
まるで首を絞められているかのように、言葉を発するのが苦しい。
麗しく微笑みながら私の顔を覗き込む神主からは、白檀の香りが漂ってきていた。その匂いを深く吸い込んだ途端、思考を巡らせるよりも先に、身体が後ろへと後ずさる。
「ご心配をおかけしました。もう、大丈夫です。家に戻りますから」
すらすらと口先から言葉が飛び出してくる。まるで脳を介すことなく身体が拒絶して、勝手に話し続けているような感覚だ。
ふいに後ろへ下がったせいで、頭に被っていた笠が地面に落ちる。
神主は、突如話し始めた私を訝しむことなくその笠へと手を伸ばして、丁寧に私の目の前へと差し出した。
黒曜石のごとき瞳がじっくりと私の顔を見て、視線を斜め下へと動かす。
ちょうど私の首筋のあたりを見遣った男は、瞬きほどの束の間、それまで浮かべていた微笑みを失くし、能面のような表情を浮かべたように見えた。
「それじゃあ、明日は君も必ず参加するように」
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