2 / 11
一話 腐れ縁の始まり 金の山は三匹を誘う
二
しおりを挟む
おえんは、茶店でお茶を飲んでいる。
「はあ。旅はいいわねえ」
この青い空が、江戸の空と同じだとは思えなかった。
どうしてもっと早く出なかったのだろうと思う。
江戸にいたくなかった、というのが、旅に出た動機だったが、これほど開放感があるとは思わなかった。
精魂かたむけて作り上げたおえんの店が、人手に渡ったのが数ヶ月前。
店というのは、向島の小さな小料理屋で、女将として繁盛させていたのだ。
それなのに・・・。
横取りされてしまった。
女将から、ただの女中に下げられたのだ。
どこにも行くあてのないおえんは、しばらくその境遇に耐えた。
同じ頃に、泣きっ面に蜂のごとく、男にも捨てられて、堪忍袋の緒が切れてしまった。
逃げるように江戸を出てきた。
「あの女っ!」
思わず吐き捨てて、注文した餅をやけ食いのように頬張った。
味方だと思っていた女に裏切られたのだ。
男も男だ。
慰めてくれるものと思ったら、女将じゃないなら付き合えないと、手のひらを返された。
あの女に乗り換えたに違いない。
思い出すと腹が立ってくる。
「おじさん、もう一皿ちょうだい!」
鼻息も荒く、おえんは追加を頼んだ。
「あ、そうだ、おじさん、ちょっと前に、この前を旅廻りの一座が通らなかった?」
お餅の乗ったお皿を持ってきてくれた親父に訊く。
「さあて、通ってないがね」
「そう。どこに行っちゃったのかしら」
おえんは、その一座に荷物を預かってもらっていた。
勝手がわからず、落ち合う場所も決めていなかったのだから仕方がないが、荷物は大事な物だった。
箱根の関所を通る時のことだった。
順番待ちで並んでいて、咄嗟に面倒になると思ったおえんは、目についた旅の一座に声をかけたのだ。
初めての旅でまごつき、余計な時がかかって、関所をやっと抜けた時には、もう、旅の一座の姿はなかったのだ。
餅をもう一皿平らげた時、目の前を人が横切った。
よく見ると、深編笠をかぶった侍である。
走ってきたのか、ヨタヨタと足元がふらついている。
「ん?」
つまずきでもしたのか、道端に倒れ込んだ。
「ちょっとちょっと」
すぐに起き上がるかと思ったら、そのまま道に寝転んでいる。
呑気にお茶を飲んでいられない。
「ちょっとあんた、大丈夫?」
そろそろと近寄ってみた。
笠で顔が見えない。
端を持ち上げて、顔を覗いてみる。
「あら、男前」
思わず呟きが漏れた。
色白の若侍が、苦しげにうめいている。
「み・・・ず・・・」
身なりをざっと見てみたが、侍は水筒らしきものを持っていないようだ。
立派な刀を差していても、肝心の物を持たずに旅をしているのか。
「おじさん、お水もらえる?」
おえんは茶店に駆け戻り、頼んでみる。
「行き倒れかね」
「そうみたい」
茶店の親父は、竹筒に水を入れてくれた。
「はい、お水よ」
倒れたままの侍に声をかけたが、起こして飲ませるべきなのか、おえんは迷った。
編笠が、ちょうど枕のようになって、頭を守っている形だが、起こさなければ水も飲めない。
(どうしよう・・・)
男の体を抱き起こすのもためらわれた。
生娘ではないにしても、相手は、見ず知らずの男なのだ。
「笠を外しますよ」
侍の顔に手を伸ばしかけたところで、目が開いて、おえんを見た。
力がなく、うつろな目だったが、竹筒が目に入ったらしく、急にガバッと半身を起こした。
「かたじけない」
掠れた声で一言いうと、竹筒をひったくるようにして、一気に飲み干した。
おえんは、呆気に取られたが、ほっとしていた。
ただ喉が渇いただけならば、じきに歩き出すだろう。
瀕死の人間を見捨てていく後ろめたさを引きずって旅を続けるのは辛い。
ぐうううっと、盛大にお腹がなった。
水が腹に入り、次は食べ物が欲しいと言っているのだ。
さっと赤面した若侍を、おえんは好もしく思った。
(悪い人ではなさそうね)
「おじさん、悪いんだけど・・・」
親父に思わず声をかけていた。
「はあ。旅はいいわねえ」
この青い空が、江戸の空と同じだとは思えなかった。
どうしてもっと早く出なかったのだろうと思う。
江戸にいたくなかった、というのが、旅に出た動機だったが、これほど開放感があるとは思わなかった。
精魂かたむけて作り上げたおえんの店が、人手に渡ったのが数ヶ月前。
店というのは、向島の小さな小料理屋で、女将として繁盛させていたのだ。
それなのに・・・。
横取りされてしまった。
女将から、ただの女中に下げられたのだ。
どこにも行くあてのないおえんは、しばらくその境遇に耐えた。
同じ頃に、泣きっ面に蜂のごとく、男にも捨てられて、堪忍袋の緒が切れてしまった。
逃げるように江戸を出てきた。
「あの女っ!」
思わず吐き捨てて、注文した餅をやけ食いのように頬張った。
味方だと思っていた女に裏切られたのだ。
男も男だ。
慰めてくれるものと思ったら、女将じゃないなら付き合えないと、手のひらを返された。
あの女に乗り換えたに違いない。
思い出すと腹が立ってくる。
「おじさん、もう一皿ちょうだい!」
鼻息も荒く、おえんは追加を頼んだ。
「あ、そうだ、おじさん、ちょっと前に、この前を旅廻りの一座が通らなかった?」
お餅の乗ったお皿を持ってきてくれた親父に訊く。
「さあて、通ってないがね」
「そう。どこに行っちゃったのかしら」
おえんは、その一座に荷物を預かってもらっていた。
勝手がわからず、落ち合う場所も決めていなかったのだから仕方がないが、荷物は大事な物だった。
箱根の関所を通る時のことだった。
順番待ちで並んでいて、咄嗟に面倒になると思ったおえんは、目についた旅の一座に声をかけたのだ。
初めての旅でまごつき、余計な時がかかって、関所をやっと抜けた時には、もう、旅の一座の姿はなかったのだ。
餅をもう一皿平らげた時、目の前を人が横切った。
よく見ると、深編笠をかぶった侍である。
走ってきたのか、ヨタヨタと足元がふらついている。
「ん?」
つまずきでもしたのか、道端に倒れ込んだ。
「ちょっとちょっと」
すぐに起き上がるかと思ったら、そのまま道に寝転んでいる。
呑気にお茶を飲んでいられない。
「ちょっとあんた、大丈夫?」
そろそろと近寄ってみた。
笠で顔が見えない。
端を持ち上げて、顔を覗いてみる。
「あら、男前」
思わず呟きが漏れた。
色白の若侍が、苦しげにうめいている。
「み・・・ず・・・」
身なりをざっと見てみたが、侍は水筒らしきものを持っていないようだ。
立派な刀を差していても、肝心の物を持たずに旅をしているのか。
「おじさん、お水もらえる?」
おえんは茶店に駆け戻り、頼んでみる。
「行き倒れかね」
「そうみたい」
茶店の親父は、竹筒に水を入れてくれた。
「はい、お水よ」
倒れたままの侍に声をかけたが、起こして飲ませるべきなのか、おえんは迷った。
編笠が、ちょうど枕のようになって、頭を守っている形だが、起こさなければ水も飲めない。
(どうしよう・・・)
男の体を抱き起こすのもためらわれた。
生娘ではないにしても、相手は、見ず知らずの男なのだ。
「笠を外しますよ」
侍の顔に手を伸ばしかけたところで、目が開いて、おえんを見た。
力がなく、うつろな目だったが、竹筒が目に入ったらしく、急にガバッと半身を起こした。
「かたじけない」
掠れた声で一言いうと、竹筒をひったくるようにして、一気に飲み干した。
おえんは、呆気に取られたが、ほっとしていた。
ただ喉が渇いただけならば、じきに歩き出すだろう。
瀕死の人間を見捨てていく後ろめたさを引きずって旅を続けるのは辛い。
ぐうううっと、盛大にお腹がなった。
水が腹に入り、次は食べ物が欲しいと言っているのだ。
さっと赤面した若侍を、おえんは好もしく思った。
(悪い人ではなさそうね)
「おじさん、悪いんだけど・・・」
親父に思わず声をかけていた。
6
あなたにおすすめの小説
If太平洋戦争 日本が懸命な判断をしていたら
みにみ
歴史・時代
もし、あの戦争で日本が異なる選択をしていたら?
国力の差を直視し、無謀な拡大を避け、戦略と外交で活路を開く。
真珠湾、ミッドウェー、ガダルカナル…分水嶺で下された「if」の決断。
破滅回避し、国家存続をかけたもう一つの終戦を描く架空戦記。
現在1945年中盤まで執筆
月弥総合病院
僕君☾☾
キャラ文芸
月弥総合病院。極度の病院嫌いや完治が難しい疾患、診察、検査などの医療行為を拒否したり中々治療が進められない子を治療していく。
また、ここは凄腕の医師達が集まる病院。特にその中の計5人が圧倒的に遥か上回る実力を持ち、「白鳥」と呼ばれている。
(小児科のストーリー)医療に全然詳しく無いのでそれっぽく書いてます...!!
if 大坂夏の陣 〜勝ってはならぬ闘い〜
かまぼこのもと
歴史・時代
1615年5月。
徳川家康の天下統一は最終局面に入っていた。
堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる……
豊臣家に味方する者はいない。
西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。
しかし、ほんの少しの違いにより戦局は全く違うものとなっていくのであった。
全5話……と思ってましたが、終わりそうにないので10話ほどになりそうなので、マルチバース豊臣家と別に連載することにしました。
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる