狡猾な狼は微笑みに牙を隠す

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 矢造は、認めるのはとても悔しいのだけれど、良い上司だった。
 電話応対で怒り狂う客にどう対応していいか分からず困っていればすぐに代わって対応してくれるし、他の社員が残業していて帰り辛い中「それじゃあお疲れ様ー」と俺を伴って定時で帰らせてくれたりする。
 それより何より、全くセクハラじみた行為をしてこない。
 初日にしつこく連絡先を聞かれた以降は全くそういう雰囲気は無く、まるで普通の上司と部下みたいに接してくる。メッセージも送ってこないし、電話を掛けてくるでもない。
 もしかしたら、仕事で使うからしつこかったのかも、なんて油断していたのが悪かった。
 二課に配属された新入社員は俺一人で、だからゴールデンウィークの連休を明日に控えた金曜の今日、俺の歓迎会が開かれた。矢造と、いつもは一課に居る部長を含めて七人の先輩社員に酒を注いで回り、少し飲み過ぎなくらいに飲まされた。
 二次会までは参加したけれど、それほど酒が強い訳でもなく、三次会へ行くという部長と数人の社員がタクシーに乗るのを見送って、ふらつく足で駅を目指していた。

「……っと」
「危ないよ、岩瀬くん。気を付けて」
「矢造さん……?」

 てっきり部長たちとキャバクラへ向かったと思っていた矢造に、転びかけたところを支えられて首を傾げた。

「すみません、ありがとうございます」
「タクシー拾ったから、途中まで乗っていきなよ。倒れて怪我したら危ないから」
「えぇと……、じゃあ、はい。お言葉に甘えて」

 すっかり警戒心を失くしていた俺は矢造のその言葉を好意的に受け止めて、彼の拾ったタクシーに一緒に乗り込んだ。

「家はどの辺り?」
「鶴ヶ島です……」
「運転手さん、先に鶴ヶ島に向かって下さい。……気分は大丈夫? 結構飲まされてたけど」

 ゆっくり走り出したタクシーの後部座席で、隣の矢造が俺の胸元に手を伸ばしてきて、一瞬ギクリとしたけれどその指は俺のネクタイを緩めてすぐに戻っていった。少し呼吸が楽になって、ありがとうございます、と小さく呟く。

「あんまりお酒強くない?」
「滅多に飲まないので、限界分からなくて……。弱かったみたいです」

 眠くて目元を擦ると、矢造は「寝ていいよ」と言った。

「着いたら起こしてあげるから、寝てなさい」
「いえ……」
「電車じゃないんだから乗り過ごしたりしないよ。大丈夫」

 大丈夫、大丈夫。……ヤジの声に言われると、なんだか少し不安になってくるのが可笑しい。でも、もう不安に思う必要は無いだろう。これだけ身近に居ても全く手を出してこようとはしないのだから、やはり彼は現実の俺には全く興味が無いのだ。
 安心して瞼を閉じて、次に意識が浮上した時、目の前にあったのはトイレの便座だった。
 薄いクリーム色の便座と見慣れたトイレマットの模様に、そこが自宅だと気付く。しかし、それよりも。口の中に差し込まれた指に舌の根を押され、急激にえづいた。げぼ、と軽く吐いて、酒と胃液の混じった嘔吐物の匂いに更に吐き気を催した。

「久斗くん、大丈夫? もう少し吐く?」
「う……」

 背中を優しく撫でる手と、掛けられた柔らかい声音にそちらを見ると、便座の前で蹲み込む俺の隣に矢造も座っていた。狭いトイレの中に男二人でぎゅうぎゅう詰めになって、しかも矢造は俺の口の中に指を突っ込んでいる。

「や……くり、さ……もぅ」
「いいよ。もう少し吐いてスッキリしようね」

 もういい、と言おうとしているのに、彼は更に俺の喉の奥に指を入れてきた。喉の粘膜を指先に撫でられて、現実では感じたことが無いはずなのに、知った快感に真っ先に腰が跳ねて反応した。

「んっぐ、む……っ、ぅ」

 吐きそうになって勢いで噛んでしまったのに、矢造は低く呻いただけで、その指を引こうとはしない。ゆっくりと喉奥を撫でられて、吐き気と苦しさにまた吐いた。げぽ、と短く液体を吐いて、その波が収まると、また矢造の指が喉奥へ伸びてくる。

「ぁ……げ……」

 苦しいけれど、痛くはない。粘膜を撫でられて、鳩尾が痙攣してひっくり返りそうになる。それなのに、気が付けば矢造の指に無抵抗に喉を弄られていた。気持ちいい。気持ちいい。もっと奥まで撫でて。ごくん、と指を飲み込むみたいに喉を動かすと、「ふふ」と矢造が笑った。

「さすがに現実で喉イキは無理そうかなぁ……。けど、これで勃起するだけでも、十分」

 期待通り、と矢造が唾を飲み込む音が間近で聞こえて、それでやっと、今自分がされているのは介抱ではないのだと気が付いた。
 喉から指を抜くと、最後に爪で舌を引っ掻かれて口元を押さえて身震いした。
 なんで、どうして。今日までの半月近く、何もしてこなかったのに。
 あれだけ吐いてもまだ酒の残っている視界はぐらぐらと揺れ、ごく近くの矢造はトイレットペーパーで自分の手を拭うと、ぐっとこちらへ顔を寄せてきた。触れるまで数センチの距離まで寄ってきた彼は、そこで止まって唇を歪めて、「君はほんとにチョロいね」と囁く。

「半月程度で俺なんか信用して、馬鹿なの? 俺が大嘘吐きだって、もう十分知ってたでしょ?」

 距離をとりたくて後ろに逃げたけれど、背中はすぐにトイレの壁に当たった。何をするつもりなのか、と硬直する俺の喉仏を上から指でトントンと叩いて、矢造がハァと堪えきれないみたいに溜め息を溢して笑みを深くする。

「ね、ココ、気持ち良かったでしょ? 現実でも悦かったでしょ? ココに、俺のチンポ入れていいかなぁ」
「……っ」
「はい、逃げないで。ね、俺は嘘吐きだけど、嘘吐かないこともあるよね。久斗くんが気持ち良くなれるかどうかに関しては、一度も嘘吐いてないよね?」

 即座に逃げ出そうとした俺のワイシャツの襟元を掴んで、矢造は脅すみたいに引っ張ってくる。間近の瞳が、怖い。まっすぐ俺を映して、だけれど俺の怯えなんか関係ないみたいに笑っている。クン、と鼻を鳴らした矢造が、「久斗くん、いい匂いがする」なんて言って、首元を嗅いできた。

「久斗くんも、どうせ『ぱらどり』以外のゲームじゃ満足出来てないでしょ? っていうか、君を満足させられるの俺だけだし。ね、しようね。久々に、頭トんじゃうくらい気持ち良くしてあげるからね」

 首を振る俺の顔の前で、矢造が立ち上がって股間のファスナーを下げて下着をズラした。中から取り出された陰茎は既にガチガチに勃起していて、カリの括れがはち切れそうに震えていた。

「や……、俺」
「大丈夫だから、ほらお口開けて。久斗くん、ほら、あーんして」

 鼻先に押し付けられた現実の陰茎からは、むわ、と洗っていない匂いがした。『ぱらどり』には実装されていなかった機能で、本当に現実に男に迫られているんだと思うと怖くて暴れ出した。

「ちょ、……久斗くん!」
「い、嫌だって……!」

 矢造を突き飛ばして、廊下へ這い出る。足が縺れて立ち上がれない俺に、矢造はすぐに追いついて後ろから覆い被さってきた。

「……久斗くん。このまま犯されたくないなら、大人しくお口でおしゃぶりしよう?」
「ひ……ッ」
「いい子、いい子。現実では未経験なのかな? 簡単にオフしちゃうくらいだから現実でも尻軽なのかと思ってたけど、した事ないんなら、無理に最後までしたりしないから」
「や……矢造さ……」
「どっち? 処女? それとも清純ぶってるだけ?」

 後ろから廊下のフローリングに頭を押し付けて抑え込まれ、スーツの上から尻を揉まれる。必死で身を捩って「しょ、処女っ」と叫ぶと、背後で矢造がふふふ、と低く笑った。

「分かった。素直に言って偉いから、お口も無しにしてあげる」

 ホッとした俺の唇に、矢造の指が伸びてきて、隙間から入ってこようとする。何で、と苦しい姿勢で背後の彼を振り向くと、スーツの股間を揉まれて声を上げた。

「ぁあっ」
「ちゃんと俺を覚えてたから、ご褒美」

 まだ喉に指が押し込まれて、苦しさに呻いたのに、ズボンの上から股間を揉まれて身悶えた。喉奥と陰茎の二箇所を気持ち良くされて、呆気なく昇り詰める。

「……っ、あ、は」

 びく、びく、と腰が大きく跳ねて、久しぶりに心の底から達したみたいな気分になって目眩がした。脱力してフローリングに倒れ込むと、股間に染み出した精液を指で撫でた矢造が、「早めに洗ってクリーニング出しなよ」なんて他人事みたいに助言してきた。

「……」
「何? もっとしてほしい?」

 恨みがましく睨んでいたら、そんなことを言って俺の尻を撫でたので、慌てて視線を逸らす。

「あ、そうだ、『いつぱ』、明日開始だね」
「……?」

 急に何の話かと、ゆっくり身体を起こした俺に矢造が驚いたみたいに目を丸くした。

「『いつぱ』だよ。『いっつ☆あ☆ぱーふぇくとわーるど』。『ぱらどり』の後継タイトル。……もしかして、予約してないの?」

 まだ就職して一ヶ月目で、慣れない仕事をする日々になんとか順応しようと真っ最中だ。完全に『ぱらどり』後継のことなんて頭から消えていた俺が首を傾げていると、珍しく眉を顰めてぶるぶると震えた矢造は、すぐさまスマホを弄り出した。

「ありえないよ、予約なんて半年前には始まってたでしょ!? 俺がどれだけ待ってたと思ってんの!?」
「いえ……忙しくて……」
「俺だって毎日忙しいけど!?」

 急にキレ始めた矢造に呆気にとられ、ぶつぶつ言いながらスマホ操作する彼を見つめるしかない。何をしているのかと思えば、しばらくしてから俺にスマホ画面を見せてきた。『予約番号 8756』と書かれたページを見せられ、それが何なのかと眉間に皺を寄せると鎖骨辺りを軽くどつかれた。

「いい? 明日朝一番でこの店舗でソフトの抽選に並んで。買えなかったら転売ヤーから買ってでも手に入れて」
「えぇ……」
「俺、『いつぱ』が出るから我慢してたんだけど? ゲームでヤれないならこのまま犯るよ?」
「買ってきます」

 良し、と言った矢造は予約画面のスクリーンショットを俺へのメッセージに添付してきた。
 そうか、明日発売だったのか。手に入れれば大型連休の間ずっと楽しめる、と考えて、しかし目の前の矢造を見てテンションが急降下する。

「その『いつぱ』って、やっぱ矢造さんとしなきゃダメなんですか……?」
「は? ……俺がインしてない間なら他の人とも遊んでいいけど」

 それはつまり、彼がインしている間はずっと彼の相手をしなきゃいけないってことだ。
 顔を顰めた俺を見て、矢造が笑顔を消して「今相手させてもいいんだよ」なんて言ってくる。冗談に聞こえないから、真顔はやめてほしい。

「というか……、明日からなら、なんで今日、こんな」
「俺は手ぇ出すつもりなんて無かったよー? 久斗くんがタクシー降りてから道路で吐きそうになってたから、部屋まで連れてきてトイレで吐かせてたらなんかノッてきちゃっただけで」

 悪戯心が湧いただけ、と平然としている矢造に、この人は現実でも結構遊んでるんだろうな、と確信した。


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