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第二章
8. 不穏な噂
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「ではこちらに、署名を」
テーブルに置かれた一枚の書類への署名を、右目に片眼鏡をはめた紳士が促す。
クロードとの婚約解消に同意の意を示し、提出する為の書類だ。
署名はしなければいけない。分かっていてもロゼリエッタは従えずにいた。インクを乗せてない羽ペンを握りしめたまま、無言で項垂れる。
クロードが行方不明になったとの報せを受けてから一月ほど経った。
幸か不幸か、四葉を探す夢はあれから一度も見てはいない。それに伴ってクロードとの思い出に浸ることもなくなっていた。
本当は懐かしくて優しい夢の中だけで生きていたかった。
『ロゼを頼むと、そう記されていたよ』
数日前、お見舞いに訪れたダヴィッドは、グランハイム公爵家から届けられたと言って一枚の手紙を見せてくれた。
いつ頃手紙が届いたのかと聞けば、一緒に帰った夜会の数日後だったという。つまり隣国へ旅立つ前にクロードの気持ちは固まっていた。そういうことだ。
そして一週間前、王家を通しての婚約解消の申し出があった。
視界の隅に、紳士が身に着ける片眼鏡のリングに通された細い金の鎖が三本揺れていた。うち二本は首にかける為、輪っか状になっている。残りの一本は装飾目的であるらしい。顎の下辺りにまで伸びた先端では小さなエメラルドがきらめきを放っていた。
片眼鏡の紳士――スタンレー公爵は、グランハイム公爵家と比肩する大貴族の現当主だ。今回、クロードとの婚約の仲介人を務めてくれている。
とは言え血縁関係のない二人の婚約の顛末自体は、スタンレー公爵にはどうでもいいことだろう。ただし婚約関係を結んだ時と同様、解消するにあたって公爵には立ち会わなければならない義務があった。
忙しいであろう公爵に家へと足を運ばせたうえ、時間を取らせてしまっている。
そう思うとひどく申し訳ない気持ちしか沸かなかった。けれど、ロゼリエッタが同意書に署名してしまえば、それで全てが終わってしまうのだ。すでに終わったも同然ではあっても、自らの手で幕引きをする勇気がどうしても出ないでいた。
「そういえばロゼリエッタ嬢、君も先日開かれた王城での夜会にいたそうだね」
話しかけられて顔を上げる。
先日と言うには些か日が経ちすぎてはいるけれど、王城での夜会とはクロードと共に行った日のことだろう。二人で公の場に出た、最後の日だ。
「はい。――レミリア王女殿下に招待状をいただきました」
「西門で不審な男が暴れていたとか」
「スタンレー公爵閣下もご参列なさっていたのですか?」
当日の様子を知っているような口ぶりにロゼリエッタは尋ねる。
そうだとしたら、知らなかったとは言え挨拶をしに行ってない。無礼を詫びようとするとスタンレー公爵は右手で制し、苦笑を浮かべた。
「あの夜会はレミリア殿下主催の、君たちのような若い貴族子女だけが招待されていたから私は参列してはいないよ。あの日はちょうど、仕事にらしくもなく手間取ってしまっていてね。帰ろうとしたら騒ぎに遭遇したんだ」
「そうだったのですね」
ロゼリエッタは安堵の息をつく。
もっとも、途中で別行動になりはしたけれどクロードも一緒だったのだ。スタンレー公爵があの場にいたら、挨拶に向かっていたに違いない。
結局、あの時の騒ぎは何が起きていたのだろう。自分のことばかりにかまけていたこともあり、未だに何も知らないままだ。
父や兄に聞けば教えてくれるのかもしれない。でも夜会に関することを自ら進んで思い出す気にはなれなかった。
たった今、スタンレー公爵は不審な人物が暴れていたと言っていた。
この国は少なくとも、ロゼリエッタが知る限りではとても平和だ。
中には今の体制に不満を持つ国民もいるのかもしれない。けれどそれを示す行動の場としてあの日の夜会を選ぶことは、何だか理に適っていない気がした。
「君に追い打ちをかけるようで些か心苦しくはあるのだが」
親指と人差し指を添えて片眼鏡の位置を直しながら、スタンレー公爵は苦しげな表情を浮かべる。
婚約の解消に行方知れずと続いて、これ以上まだ何かつらい事実があるのか。逆に笑ってしまいそうでロゼリエッタは唇を噛みしめた。覚悟と共にそっと息を吐き「何でしょうか」と先を促す。
ロゼリエッタの表情を窺い、スタンレー公爵は机の上で、ともすれば神経質そうにも見える指を組んだ。
「クロード君には、かねてよりスパイ疑惑がかけられている」
「スパイ?」
「正確に言うならば、彼の主であるレミリア殿下も同様だがね」
スパイ疑惑。
衝撃に揺れる心を懸命に抑えながら、ロゼリエッタはもう一度スタンレー公爵の言葉を声には出さずに反芻した。
最近、告げられた言葉をその場で理解できないことが増えた気がする。
でも誰が予想できるだろうか。
婚約者からの愛こそなくとも平穏ではあった日々に、どれも馴染みがないことばかりだ。
婚約を解消されること。
婚約者が隣国で行方不明になること。
親しい従兄が新しい婚約者に選ばれていたこと。
元婚約者にスパイ疑惑がかけられていたこと。
明日はこんな出来事が起こると、今この国に住まう貴族令嬢の誰が予感しながら生きているのか。
「先日の騒ぎも、わざと騒ぎを起こして自分たちの手で収拾を図ることで無関係を装おうとした。そういう見方をしている貴族も少なくはない」
「そんなの、嘘です。クロード様やレミリア王女殿下が、そのようなことをお考えになっているはずがありません」
自分でも驚くほどの強さでロゼリエッタは否定していた。スタンレー公爵も予想外の反応だったのか片眼鏡の奥の目をわずかに見開いている。
「大きな声を上げ、申し訳ありません……」
年頃の令嬢であるロゼリエッタが大きな声を出すのは感心できることではない。そのうえ、目上の立場である公爵相手となればなおさらだ。椅子に座ったまま深々と頭を下げて無礼を詫びれば、スタンレー公爵は軽く手を振った。
「私の方こそロゼリエッタ嬢の気持ちも考えず無神経な発言だった。すまなかったね」
「公爵閣下のお心をわずらわせてしまい、恐れ入ります」
一部の貴族たちの中でスパイ疑惑をかけられていることは事実なのだろう。推察に役に立ちそうな情報は持っていないながらも、どうしてなのか自分なりに頭の中で考えてみる。
レミリアの婚約者のマーガスは、この国の人物ではない。隣国の王太子だ。ましてや隣国は今、王位継承問題で揺れているという。レミリアがマーガスの力になろうとするのは当然のことだ。嫌疑をかける人々も、きっとそこを重要視しているのだろう。
でもだからと言ってレミリアが母国を裏切るとは思えない。
裏切れば自国の後ろ盾を失う可能性は十分にあるのだ。仮に裏切り行為があかるみにされない自信があったとして、一度の騒ぎで嫌疑の目が向けられてしまっている。もしこのまま弾劾にまで発展し、王女でなくなれば自国でも隣国でも立場を悪くするだけだろう。
そんな状態に陥る行動を――レミリアを愛するクロードがするわけがない。
「スタンレー公爵閣下も、クロード様とレミリア王女殿下を疑っていらっしゃると……?」
公爵は答えなかった。けれどその無言こそが、多少なりとも嫌疑はかけていると語っているに等しい。
ロゼリエッタと目を合わせ、公爵は苦笑いを浮かべてみせる。
「そのような怖い顔で見ないで欲しい。私はあくまで、この国に害を成す存在の可能性を常に考えているだけだよ。殿下とクロード君が清廉潔白であるなら、それはとても喜ばしいことだ」
「――はい」
ロゼリエッタがスタンレー公爵から情報を引き出すなど無理な話だ。駆け引きの相手とするには踏んで来た場数が違いすぎる。そこは比べるべくもない。目に見えた圧倒的な差だ。公爵の気まぐれで得られたところで、ロゼリエッタの身には余るものだろう。
おとなしく引き下がったロゼリエッタを憐れんだのか。スタンレー公爵は静かに告げる。
「ただ、クロード君は自らに嫌疑の目を向けられていると知ったうえで、ロゼリエッタ嬢は巻き込むまいと婚約の解消を決意したかもしれないね」
「それでも、私はクロード様と共にありたかったです」
強い願いが無意識のうちに口をついた。
でも公爵の言うように、婚約を解消することがクロードから最後に与えられた優しくも残酷な仕打ちの理由なのだとしたら。
そんな優しさはいらないと突っぱねることは簡単だ。
(だけど私はクロード様と共には戦えない。それどころかきっと――足枷になってしまう)
ロゼリエッタは手にしたままの羽ペンの先を、そっとインク瓶に浸した。
勇気を奮い立たせ、指定された場所に自分の名を記して行く。
婚約の解消を受け入れたわけじゃない。
ただ、今はこうすることがクロードの身を護ることだと信じ、その証に自分の名を捧げるのだ。
テーブルに置かれた一枚の書類への署名を、右目に片眼鏡をはめた紳士が促す。
クロードとの婚約解消に同意の意を示し、提出する為の書類だ。
署名はしなければいけない。分かっていてもロゼリエッタは従えずにいた。インクを乗せてない羽ペンを握りしめたまま、無言で項垂れる。
クロードが行方不明になったとの報せを受けてから一月ほど経った。
幸か不幸か、四葉を探す夢はあれから一度も見てはいない。それに伴ってクロードとの思い出に浸ることもなくなっていた。
本当は懐かしくて優しい夢の中だけで生きていたかった。
『ロゼを頼むと、そう記されていたよ』
数日前、お見舞いに訪れたダヴィッドは、グランハイム公爵家から届けられたと言って一枚の手紙を見せてくれた。
いつ頃手紙が届いたのかと聞けば、一緒に帰った夜会の数日後だったという。つまり隣国へ旅立つ前にクロードの気持ちは固まっていた。そういうことだ。
そして一週間前、王家を通しての婚約解消の申し出があった。
視界の隅に、紳士が身に着ける片眼鏡のリングに通された細い金の鎖が三本揺れていた。うち二本は首にかける為、輪っか状になっている。残りの一本は装飾目的であるらしい。顎の下辺りにまで伸びた先端では小さなエメラルドがきらめきを放っていた。
片眼鏡の紳士――スタンレー公爵は、グランハイム公爵家と比肩する大貴族の現当主だ。今回、クロードとの婚約の仲介人を務めてくれている。
とは言え血縁関係のない二人の婚約の顛末自体は、スタンレー公爵にはどうでもいいことだろう。ただし婚約関係を結んだ時と同様、解消するにあたって公爵には立ち会わなければならない義務があった。
忙しいであろう公爵に家へと足を運ばせたうえ、時間を取らせてしまっている。
そう思うとひどく申し訳ない気持ちしか沸かなかった。けれど、ロゼリエッタが同意書に署名してしまえば、それで全てが終わってしまうのだ。すでに終わったも同然ではあっても、自らの手で幕引きをする勇気がどうしても出ないでいた。
「そういえばロゼリエッタ嬢、君も先日開かれた王城での夜会にいたそうだね」
話しかけられて顔を上げる。
先日と言うには些か日が経ちすぎてはいるけれど、王城での夜会とはクロードと共に行った日のことだろう。二人で公の場に出た、最後の日だ。
「はい。――レミリア王女殿下に招待状をいただきました」
「西門で不審な男が暴れていたとか」
「スタンレー公爵閣下もご参列なさっていたのですか?」
当日の様子を知っているような口ぶりにロゼリエッタは尋ねる。
そうだとしたら、知らなかったとは言え挨拶をしに行ってない。無礼を詫びようとするとスタンレー公爵は右手で制し、苦笑を浮かべた。
「あの夜会はレミリア殿下主催の、君たちのような若い貴族子女だけが招待されていたから私は参列してはいないよ。あの日はちょうど、仕事にらしくもなく手間取ってしまっていてね。帰ろうとしたら騒ぎに遭遇したんだ」
「そうだったのですね」
ロゼリエッタは安堵の息をつく。
もっとも、途中で別行動になりはしたけれどクロードも一緒だったのだ。スタンレー公爵があの場にいたら、挨拶に向かっていたに違いない。
結局、あの時の騒ぎは何が起きていたのだろう。自分のことばかりにかまけていたこともあり、未だに何も知らないままだ。
父や兄に聞けば教えてくれるのかもしれない。でも夜会に関することを自ら進んで思い出す気にはなれなかった。
たった今、スタンレー公爵は不審な人物が暴れていたと言っていた。
この国は少なくとも、ロゼリエッタが知る限りではとても平和だ。
中には今の体制に不満を持つ国民もいるのかもしれない。けれどそれを示す行動の場としてあの日の夜会を選ぶことは、何だか理に適っていない気がした。
「君に追い打ちをかけるようで些か心苦しくはあるのだが」
親指と人差し指を添えて片眼鏡の位置を直しながら、スタンレー公爵は苦しげな表情を浮かべる。
婚約の解消に行方知れずと続いて、これ以上まだ何かつらい事実があるのか。逆に笑ってしまいそうでロゼリエッタは唇を噛みしめた。覚悟と共にそっと息を吐き「何でしょうか」と先を促す。
ロゼリエッタの表情を窺い、スタンレー公爵は机の上で、ともすれば神経質そうにも見える指を組んだ。
「クロード君には、かねてよりスパイ疑惑がかけられている」
「スパイ?」
「正確に言うならば、彼の主であるレミリア殿下も同様だがね」
スパイ疑惑。
衝撃に揺れる心を懸命に抑えながら、ロゼリエッタはもう一度スタンレー公爵の言葉を声には出さずに反芻した。
最近、告げられた言葉をその場で理解できないことが増えた気がする。
でも誰が予想できるだろうか。
婚約者からの愛こそなくとも平穏ではあった日々に、どれも馴染みがないことばかりだ。
婚約を解消されること。
婚約者が隣国で行方不明になること。
親しい従兄が新しい婚約者に選ばれていたこと。
元婚約者にスパイ疑惑がかけられていたこと。
明日はこんな出来事が起こると、今この国に住まう貴族令嬢の誰が予感しながら生きているのか。
「先日の騒ぎも、わざと騒ぎを起こして自分たちの手で収拾を図ることで無関係を装おうとした。そういう見方をしている貴族も少なくはない」
「そんなの、嘘です。クロード様やレミリア王女殿下が、そのようなことをお考えになっているはずがありません」
自分でも驚くほどの強さでロゼリエッタは否定していた。スタンレー公爵も予想外の反応だったのか片眼鏡の奥の目をわずかに見開いている。
「大きな声を上げ、申し訳ありません……」
年頃の令嬢であるロゼリエッタが大きな声を出すのは感心できることではない。そのうえ、目上の立場である公爵相手となればなおさらだ。椅子に座ったまま深々と頭を下げて無礼を詫びれば、スタンレー公爵は軽く手を振った。
「私の方こそロゼリエッタ嬢の気持ちも考えず無神経な発言だった。すまなかったね」
「公爵閣下のお心をわずらわせてしまい、恐れ入ります」
一部の貴族たちの中でスパイ疑惑をかけられていることは事実なのだろう。推察に役に立ちそうな情報は持っていないながらも、どうしてなのか自分なりに頭の中で考えてみる。
レミリアの婚約者のマーガスは、この国の人物ではない。隣国の王太子だ。ましてや隣国は今、王位継承問題で揺れているという。レミリアがマーガスの力になろうとするのは当然のことだ。嫌疑をかける人々も、きっとそこを重要視しているのだろう。
でもだからと言ってレミリアが母国を裏切るとは思えない。
裏切れば自国の後ろ盾を失う可能性は十分にあるのだ。仮に裏切り行為があかるみにされない自信があったとして、一度の騒ぎで嫌疑の目が向けられてしまっている。もしこのまま弾劾にまで発展し、王女でなくなれば自国でも隣国でも立場を悪くするだけだろう。
そんな状態に陥る行動を――レミリアを愛するクロードがするわけがない。
「スタンレー公爵閣下も、クロード様とレミリア王女殿下を疑っていらっしゃると……?」
公爵は答えなかった。けれどその無言こそが、多少なりとも嫌疑はかけていると語っているに等しい。
ロゼリエッタと目を合わせ、公爵は苦笑いを浮かべてみせる。
「そのような怖い顔で見ないで欲しい。私はあくまで、この国に害を成す存在の可能性を常に考えているだけだよ。殿下とクロード君が清廉潔白であるなら、それはとても喜ばしいことだ」
「――はい」
ロゼリエッタがスタンレー公爵から情報を引き出すなど無理な話だ。駆け引きの相手とするには踏んで来た場数が違いすぎる。そこは比べるべくもない。目に見えた圧倒的な差だ。公爵の気まぐれで得られたところで、ロゼリエッタの身には余るものだろう。
おとなしく引き下がったロゼリエッタを憐れんだのか。スタンレー公爵は静かに告げる。
「ただ、クロード君は自らに嫌疑の目を向けられていると知ったうえで、ロゼリエッタ嬢は巻き込むまいと婚約の解消を決意したかもしれないね」
「それでも、私はクロード様と共にありたかったです」
強い願いが無意識のうちに口をついた。
でも公爵の言うように、婚約を解消することがクロードから最後に与えられた優しくも残酷な仕打ちの理由なのだとしたら。
そんな優しさはいらないと突っぱねることは簡単だ。
(だけど私はクロード様と共には戦えない。それどころかきっと――足枷になってしまう)
ロゼリエッタは手にしたままの羽ペンの先を、そっとインク瓶に浸した。
勇気を奮い立たせ、指定された場所に自分の名を記して行く。
婚約の解消を受け入れたわけじゃない。
ただ、今はこうすることがクロードの身を護ることだと信じ、その証に自分の名を捧げるのだ。
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