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第66話:二つの国の亀裂
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王国が国境に軍を集結させている。
その報せは私にとって青天の霹靂だった。私の存在が二つの国を再び戦争の瀬戸際へと追いやってしまった。その事実に、私の心は重く沈んだ。
厨房にいてもどこか上の空で、調理に集中できない。そんな私の様子をレオン様は黙って見守っていたが、何も言わなかった。彼もまた皇帝としてこの事態にどう対処すべきか、苦悩しているのだろう。
帝都アスガルドの空気もどこかピリピリと張り詰めていた。城下ではリンドブルム王国に対する敵意を露わにする声が大きくなり、開戦を煽るような過激な演説をする者まで現れ始めた。
平和を願う私の気持ちとは裏腹に、事態は刻一刻と悪い方向へと転がっていく。
そんなある日、エリオット様が血相を変えて私の厨房に飛び込んできた。彼があれほど冷静さを失った姿を見せるのは、初めてのことだった。
「アリア殿! 大変なことになりました!」
彼の手に握られていたのは、リンドブルムから送られてきた最後通牒とも言える国書だった。
そこには、震えるような文字でこう記されていた。
『ガルディナ帝国が聖女アリアの返還要求に応じない場合、我々は神聖なる聖女を邪悪な帝国から解放するための『聖戦』を開始するも辞さない』
聖戦。そのあまりにも独善的で狂信的な言葉。
「あの愚王、正気か…!」
エリオット様は怒りにわなないていた。
「自国の戦力を全く理解していない! 我が帝国と正面から戦って、勝ち目など万に一つもないというのに!」
しかし、その国書にはさらに悪質な一文が添えられていた。
『もし聖女アリアが自らの意志で故郷への帰還を望むのであれば、我々は平和的解決の道を閉ざすものではない』
それは、あまりにも卑劣な揺さぶりだった。
全ての責任を私一人に押し付けるための。
もし私が帰還を拒否すれば、リンドブルムは「聖女が邪悪な皇帝に囚われ、無理やり帝国に留め置かれている」と諸外国に喧伝するだろう。
逆に、もし私が帰還を選べば、レオン様の『未来の皇后』宣言はただの独りよがりな妄言だったと内外に知らしめることになり、彼の威信は大きく傷つく。
どちらを選んでも待っているのは破滅的な未来。
リンドブルム国王とイザベラは、私をそういう絶望的な状況に追い込もうとしているのだ。
「……どうすれば」
私の声はか細く震えていた。私のたった一つの選択が、この国の、そしてレオン様の運命を左右してしまう。その重圧に、私は押しつぶされそうだった。
その夜。
私は一人厨房で眠れずにいた。
私のせいで戦争が起きるかもしれない。多くの人々が傷つき、命を落とすかもしれない。
全ては、この私に宿ってしまった聖女の力という、呪いのような祝福のせいだ。
いっそ、私がリンドブルムに帰れば。
そうすれば戦争は回避できるのではないか。レオン様に迷惑をかけることもない。
故郷に帰れば私は『金のなる木』として鳥籠の中に幽閉されることになるだろう。二度と自由な空を見ることはできないかもしれない。レオン様の温かい料理を食べる、あの幸せそうな顔をもう二度と見ることはできない。
それでも。
それが一番良い選択なのではないか。
そんな暗い考えが、私の頭の中をぐるぐると巡っていた。
その時だった。厨房の扉が静かに開いた。
そこに立っていたのはレオン様だった。彼は皇帝の服ではなく、私と初めて会った時と同じ黒い平民の服を身にまとっていた。
「……眠れないのか」
彼の声はひどく優しかった。
「……はい」
「俺もだ」
彼は私の隣の椅子に静かに腰を下ろした。
しばらく二人とも無言だった。ただかまどに残った熾火がパチリと小さな音を立てるだけ。
やがて彼が静かに口を開いた。
「……怖いか」
その問いに、私は素直に頷いた。
「怖いです。私のせいでたくさんの人が不幸になるかもしれない。そう思うと、どうしたらいいか分からなくなって…」
「君のせいではない」
彼はきっぱりと私の言葉を遮った。
「これは君の問題ではない。俺と、あの愚かな王との問題だ。君は何も背負う必要はない」
「でも…!」
「アリア」
彼は私の手をそっと取った。その手はいつもと変わらず大きくて温かかった。
「俺は君に一つだけ約束したはずだ。覚えているか」
私は彼の顔を見上げた。彼の蒼い瞳が真っ直ぐに私を見つめている。
「君を誰にも渡さない、と」
その誓いの言葉。
「その約束に嘘はない。たとえリンドブルムが軍を動かそうと。世界中の国を敵に回そうと。俺は決して君を手放すことはない」
その言葉は、絶対的な王者の揺るぎない宣言だった。
「だから君は何も心配しなくていい。ただ、俺のそばにいてくれればそれでいい」
彼のあまりにも力強く、そして優しい言葉に、私の心の中の黒い靄がすうっと晴れていくのが分かった。
そうだ。私は何を一人で悩んでいたのだろう。
この人は、私が信じた皇帝なのだ。彼が私を守るとそう言ってくれている。ならば私は彼を信じるだけだ。
「……ありがとうございます、レオン様」
私の瞳から一筋、温かい涙がこぼれた。
「でも、私もただ守られているだけでは嫌です。私もあなたの力になりたい。この国のために、何かできることはありませんか」
私の言葉に、彼は少しだけ驚いたように目を見開いた。そして次の瞬間、彼は愛おしそうに微笑んだ。
「……そうか」
彼は何かを決意したようだった。
「ならばアリア。俺と旅に出ないか」
「旅、ですか?」
「ああ。帝国の呪いを解くための旅だ」
彼の口から語られたのは、驚くべき計画だった。
エリオット様たちが突き止めた、この国を蝕む古代の呪い。その根源を断ち切るための調査の旅。
「表向きは地方の視察だ。俺が帝都を離れることで、リンドブルムの動きを牽制する狙いもある」
そして、と彼は続けた。
「何より君の力が必要だ。君の【生命賛歌】の力が、呪いの根源を探るための唯一の羅針盤となるだろう」
私にそんな大役が。
しかし不思議と恐怖はなかった。
彼の力になれる。この国を救う手助けができる。
その事実が私の心を熱くさせていた。
「行きます」
私は迷いなく答えた。
「私も、あなたと一緒に行きます」
その答えに、彼は満足そうに力強く頷いた。
二つの国の間に生まれた深い亀裂。それは戦争という最悪の未来を予感させていた。
しかしその闇の中で、私たちは一つの新たな希望の光を見つけ出した。
帝国の呪いを解き放ち、この国に真の豊穣を取り戻す。
そのための長い長い旅が、今、始まろうとしていた。
それは私と彼の未来を賭けた、最初の共同作業でもあった。
その報せは私にとって青天の霹靂だった。私の存在が二つの国を再び戦争の瀬戸際へと追いやってしまった。その事実に、私の心は重く沈んだ。
厨房にいてもどこか上の空で、調理に集中できない。そんな私の様子をレオン様は黙って見守っていたが、何も言わなかった。彼もまた皇帝としてこの事態にどう対処すべきか、苦悩しているのだろう。
帝都アスガルドの空気もどこかピリピリと張り詰めていた。城下ではリンドブルム王国に対する敵意を露わにする声が大きくなり、開戦を煽るような過激な演説をする者まで現れ始めた。
平和を願う私の気持ちとは裏腹に、事態は刻一刻と悪い方向へと転がっていく。
そんなある日、エリオット様が血相を変えて私の厨房に飛び込んできた。彼があれほど冷静さを失った姿を見せるのは、初めてのことだった。
「アリア殿! 大変なことになりました!」
彼の手に握られていたのは、リンドブルムから送られてきた最後通牒とも言える国書だった。
そこには、震えるような文字でこう記されていた。
『ガルディナ帝国が聖女アリアの返還要求に応じない場合、我々は神聖なる聖女を邪悪な帝国から解放するための『聖戦』を開始するも辞さない』
聖戦。そのあまりにも独善的で狂信的な言葉。
「あの愚王、正気か…!」
エリオット様は怒りにわなないていた。
「自国の戦力を全く理解していない! 我が帝国と正面から戦って、勝ち目など万に一つもないというのに!」
しかし、その国書にはさらに悪質な一文が添えられていた。
『もし聖女アリアが自らの意志で故郷への帰還を望むのであれば、我々は平和的解決の道を閉ざすものではない』
それは、あまりにも卑劣な揺さぶりだった。
全ての責任を私一人に押し付けるための。
もし私が帰還を拒否すれば、リンドブルムは「聖女が邪悪な皇帝に囚われ、無理やり帝国に留め置かれている」と諸外国に喧伝するだろう。
逆に、もし私が帰還を選べば、レオン様の『未来の皇后』宣言はただの独りよがりな妄言だったと内外に知らしめることになり、彼の威信は大きく傷つく。
どちらを選んでも待っているのは破滅的な未来。
リンドブルム国王とイザベラは、私をそういう絶望的な状況に追い込もうとしているのだ。
「……どうすれば」
私の声はか細く震えていた。私のたった一つの選択が、この国の、そしてレオン様の運命を左右してしまう。その重圧に、私は押しつぶされそうだった。
その夜。
私は一人厨房で眠れずにいた。
私のせいで戦争が起きるかもしれない。多くの人々が傷つき、命を落とすかもしれない。
全ては、この私に宿ってしまった聖女の力という、呪いのような祝福のせいだ。
いっそ、私がリンドブルムに帰れば。
そうすれば戦争は回避できるのではないか。レオン様に迷惑をかけることもない。
故郷に帰れば私は『金のなる木』として鳥籠の中に幽閉されることになるだろう。二度と自由な空を見ることはできないかもしれない。レオン様の温かい料理を食べる、あの幸せそうな顔をもう二度と見ることはできない。
それでも。
それが一番良い選択なのではないか。
そんな暗い考えが、私の頭の中をぐるぐると巡っていた。
その時だった。厨房の扉が静かに開いた。
そこに立っていたのはレオン様だった。彼は皇帝の服ではなく、私と初めて会った時と同じ黒い平民の服を身にまとっていた。
「……眠れないのか」
彼の声はひどく優しかった。
「……はい」
「俺もだ」
彼は私の隣の椅子に静かに腰を下ろした。
しばらく二人とも無言だった。ただかまどに残った熾火がパチリと小さな音を立てるだけ。
やがて彼が静かに口を開いた。
「……怖いか」
その問いに、私は素直に頷いた。
「怖いです。私のせいでたくさんの人が不幸になるかもしれない。そう思うと、どうしたらいいか分からなくなって…」
「君のせいではない」
彼はきっぱりと私の言葉を遮った。
「これは君の問題ではない。俺と、あの愚かな王との問題だ。君は何も背負う必要はない」
「でも…!」
「アリア」
彼は私の手をそっと取った。その手はいつもと変わらず大きくて温かかった。
「俺は君に一つだけ約束したはずだ。覚えているか」
私は彼の顔を見上げた。彼の蒼い瞳が真っ直ぐに私を見つめている。
「君を誰にも渡さない、と」
その誓いの言葉。
「その約束に嘘はない。たとえリンドブルムが軍を動かそうと。世界中の国を敵に回そうと。俺は決して君を手放すことはない」
その言葉は、絶対的な王者の揺るぎない宣言だった。
「だから君は何も心配しなくていい。ただ、俺のそばにいてくれればそれでいい」
彼のあまりにも力強く、そして優しい言葉に、私の心の中の黒い靄がすうっと晴れていくのが分かった。
そうだ。私は何を一人で悩んでいたのだろう。
この人は、私が信じた皇帝なのだ。彼が私を守るとそう言ってくれている。ならば私は彼を信じるだけだ。
「……ありがとうございます、レオン様」
私の瞳から一筋、温かい涙がこぼれた。
「でも、私もただ守られているだけでは嫌です。私もあなたの力になりたい。この国のために、何かできることはありませんか」
私の言葉に、彼は少しだけ驚いたように目を見開いた。そして次の瞬間、彼は愛おしそうに微笑んだ。
「……そうか」
彼は何かを決意したようだった。
「ならばアリア。俺と旅に出ないか」
「旅、ですか?」
「ああ。帝国の呪いを解くための旅だ」
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「何より君の力が必要だ。君の【生命賛歌】の力が、呪いの根源を探るための唯一の羅針盤となるだろう」
私にそんな大役が。
しかし不思議と恐怖はなかった。
彼の力になれる。この国を救う手助けができる。
その事実が私の心を熱くさせていた。
「行きます」
私は迷いなく答えた。
「私も、あなたと一緒に行きます」
その答えに、彼は満足そうに力強く頷いた。
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しかしその闇の中で、私たちは一つの新たな希望の光を見つけ出した。
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