無能と蔑まれ敵国に送られた私、故郷の料理を振る舞ったら『食の聖女』と呼ばれ皇帝陛下に溺愛されています~今さら返せと言われても、もう遅いです!

夏見ナイ

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第83話:力の代償

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帝都アスガルドは祝祭の熱気に包まれていた。

呪いからの解放。それは二百七十年もの間この国の人々が無意識のうちに背負わされ続けてきた、重い枷からの解放を意味した。

街角のパン屋が焼くパンは驚くほどふっくらと香り高くなった。酒場で出されるエールは麦の豊かな風味を取り戻し、人々は夜通しその味を讃えて歌い踊った。子供たちの頬には健康的な血の気が戻り、その笑い声は以前よりもずっと高く明るく響き渡る。

帝国は生まれ変わったのだ。

その全てがたった一人の少女の自己犠牲によってもたらされた奇跡であると、誰もが知っていた。

『救国の聖女』アリア。

その名はもはや伝説となり、吟遊詩人によって歌われ帝国中の隅々にまで届けられていた。

しかし、その奇跡の中心にいるべき聖女は、王城ヴァイスフレアの一室で静かな眠りにつき続けていた。

私が眠りについてから三日が過ぎていた。

私の体は宮廷医たちの最善の治療を受けていた。滋養に満ちた薬湯が定期的に与えられ、生命維持のための魔術が常にかけられている。

しかし、私の意識は深い、深い闇の底に沈んだまま浮上してくる気配はなかった。

「……やはり、駄目か」

私の眠るベッドのそばで、宮廷医長が重いため息をついた。

「姫様の肉体に異常は見られません。しかし、その魂が、生命力そのものが極限まで消耗しきっている。これでは我々の医学では手の施しようが…」

その報告を聞いていた皇太后ヴィクトリア様の顔に、深い憂いの影が落ちる。

「では、このまま目覚めぬとでも言うのですか」

「……最悪の場合も」

宮廷医長はそれ以上言葉を続けることができなかった。

この三日間、レオンハルトはほとんど眠らずに私のそばに付き添っていた。

彼は山積する政務も宰相エリオットに任せきりにして、ただひたすらに私の手を握り私の名前を呼び続けていた。

その姿はもはや『氷の皇帝』の面影はなく、ただ愛する女性の目覚めを無力に祈ることしかできない、一人の傷ついた男の姿だった。

「アリア……」

彼は私の冷たい手を自らの頬に寄せた。

「すまない……。俺が不甲斐ないばかりに……」

彼の後悔の言葉が静かな部屋に虚しく響く。

彼は何度も自問自答していた。

なぜ彼女を行かせてしまったのか。なぜ彼女一人に全てを背負わせてしまったのか。もっと他に方法はなかったのか。

しかし、答えは出なかった。

あの時、あの絶望的な状況を覆すことができたのは彼女の力だけだった。それは誰の目にも明らかな事実だった。

だからこそ彼は苦しかった。

彼女の自己犠牲を結果として受け入れてしまった自分自身が許せなかった。

ギルバートもエリオットもマルタたちも、毎日代わる代わる私の見舞いに訪れた。

「姫様……。あなた様のために最高のチーズケーキを手に入れてまいりましたぞ。どうか目を覚ましてこれを……」

ギルバートは目に涙を浮かべながら、私の枕元にそう言ってケーキを供えた。

「アリア殿。君が眠っている間にも、君の起こした奇跡はこの国を良い方向へと導いている。君が目覚める頃にはこの国はもっと素晴らしい国になっているはずだ。だから安心して休んでくれ」

エリオットはいつもの皮肉を忘れ、ただ優しい声で私に語りかけた。

誰もが私の目覚めを心の底から祈っていた。

そして、その祈りは決して無駄ではなかった。

私の意識は深い、温かい光の海の中を漂っていた。

そこはとても心地の良い場所だった。悲しみも苦しみも何もない。ただ絶対的な安らぎだけがある、魂の故郷のような場所。

(……もう、このままでもいいかな)

そんな甘い誘惑が私の心をよぎる。

私は自分の役目を果たしたのだ。

もう頑張らなくていいのかもしれない。

私の意識がさらに深い心地よい眠りの中へと沈んでいこうとした、その時。

どこか遠くから。

私の名を呼ぶ声が聞こえた。

それはたくさんの人々の声だった。

『聖女様、ありがとう』
『姫様、目を覚ましてください』

グレイヘム村の村人たちの声。
帝都の民衆の声。
騎士たちの、文官たちの、職人たちの、侍女たちの声。

そして、その中にひときわ強く、切なく、私の魂を揺さぶる声があった。

『アリア……戻ってきてくれ。俺のそばに』

レオン様の声。

その声を聞いた瞬間。

私の心に一つの強い想いが芽生えた。

(……帰らなきゃ)

まだ眠っている場合じゃない。

私を待ってくれている人たちがいる。

そして、何よりも。

私が愛する人が、そこにいる。

彼の隣で彼の作る未来をこの目で見届けたい。彼の笑顔をもっとたくさん見たい。

そして、私の料理で彼を世界で一番幸せにすると、そう誓ったのだから。

その強い意志が、私の尽きかけていた生命力に再び火を灯した。

深い海の底から光の差す水面へと浮上していくように。

私の意識はゆっくりと、しかし確実に覚醒へと向かい始めた。

レオンハルトはいつものように私の手を握りしめ、ベッドの脇でうとうとと微睡んでいた。

疲労は限界に達していた。

その時だった。

握りしめていたはずの彼女の指先が、ぴくりとかすかに動いた。

そして彼の大きな手を弱々しく、しかし確かに握り返してきた。

「……!」

レオンハルトは雷に打たれたかのように跳ね起きた。

彼は信じられないという顔で、私の顔を覗き込む。

私の長い睫毛がゆっくりと震え始めた。

そして数日ぶりにその瞼がゆっくりと持ち上がり、その奥から光を宿した青い瞳が現れた。

その瞳はまだ少しだけぼんやりとしていたが。

確かに彼の姿を捉えていた。

「……レオン、様…?」

か細い、掠れた、しかし聞き間違えるはずのない愛しい声。

その声を聞いた瞬間。

彼の氷の仮面は完全に砕け散った。

その蒼い瞳から一筋、また一筋と熱い雫が溢れ落ちていく。

それは彼が皇帝になってから、いや、生まれてこの方人前で決して見せたことのなかった、喜びと安堵の涙だった。

「……おかえり、アリア」

彼は震える声でそれだけを言うのが精一杯だった。

奇跡は再び起きた。

救国の聖女は人々の祈りと一人の男の愛によって、長い眠りからようやく目覚めたのだった。
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