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第二章
18 本家からの呼び出し
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新しい生活にも慣れてきた頃、ようやく紫水さまの仕事も一段落し、おにぎりと味噌汁のお夜食もいらなくなった。
庭の手入れも済み、今は夏の花が咲くのを待つばかり。
それで、今日はみんなで、三葉百貨店へでかけて、お買い物をしたり、食堂で食事をする予定になっていた。
「百貨店へでかけるのは、とても久しぶりだわ」
昔から百貨店が大好きだった私。それに今日、私たちが行くのは、開店したばかりの新店舗である。
三葉百貨店の新店舗は西洋風のお洒落で豪奢な雰囲気で、一見の価値ありと、ご近所でも評判だ。
わくわくしすぎて、今日は朝早くに目が覚め、だいたいの家事を終えてしまった。
子供のように、そわそわしているのを知られたくなくて、おやつを作って時間を潰す。
私が作るのは、大豆の炒り豆。
掃除をしていたら、焙烙を見つけたので、おやつに炒り豆を作ろうと、大豆を前もって買っておいた。
炮烙は素焼きの土鍋で、銀杏や豆、お茶の葉を炒るのに使える。
古くなったお茶の葉も炒れば、香ばしいほうじ茶に変わる。
同じ茶葉とは思えない味わいの違いがあった。
昔、冬になると、仕事の合間に祖父が、火鉢の上でじっくり茶葉を炒り、祖母がお湯を沸かしてお茶を入れてくれた。
窓から見えるのは白い雪。
熱いほうじ茶を飲みながら、庭に積もる雪を三人で眺めていた。
鍋の中を転がる丸い大豆を眺めながら、懐かしい光景を思い出す。
「世梨さま。もしかして、炒り豆ですか?」
蒼ちゃんが茶の間の拭き掃除を終えて、戻ってきた。
「そうよ。炒り豆を作って置けば、小腹が空いた時に、いつでも食べられるでしょう?」
炒り豆を空いた缶に入れて保存しておけば、紫水様のお夜食、蒼ちゃんのおやつにちょうどいい。
炒った豆を紙の上に広げると、豆は雨音に似た音を立て、台所を香ばしい匂いで満たした。
「はい。蒼ちゃん、どうぞ」
「えへへ、ありがとうございます。わぁ、ほんのりあったかくて、美味しそうな匂いがします」
蒼ちゃんはポリッと軽い音を立て、噛み砕く。
小さな手のひらに、数粒の炒り豆をのせ、蒼ちゃんは嬉しそうな顔をして、一粒ずつ口にする。
「窓を開けるわね」
ガスコンロ前の窓を開けた。
豆を炒っていたら、台所に熱がこもり、暑くなってしまった。
台所の窓は亀甲硝子。
窓を開ければ、涼しい風が入ってくる。
硝子に施された亀甲文は亀の甲羅のような文様で、六角形が並ぶ。
最近は模様なしの硝子より、模様入りの硝子が人気で、他に笹や雲、結晶などがある。
祖父の家にも結晶硝子が使われていた。
でも、あの懐かしい家は、叔父夫婦の手に渡ったまま――
「世梨さま。紫水さまにもあげると、お喜びになりますよっ!」
割烹着の袖を引っ張られ、ハッと我に返った。
蒼ちゃんは紙を広げ、紫水様のための炒り豆を入れられるように、用意をして待っている。
――そうだった。
あの場所は失ってしまったけれど、今の私には新しい居場所がある。
「そうね。紫水様も召し上がるかもしれないわ」
まだ熱い炒り豆を紙に包んで、紫水様の部屋の前に行く。
「部屋にいない……? どこへ行ったのかしら?」
周囲を見回すと、玄関の戸が開いていて、紫水様がいるような気がしたので、外へ出てみる。
思ったとおり、そこには、でかける準備を済ませ、洋服に着替えた紫水様が立っていた。
「紫水様、どうかなさいましたか? まだ出かけるには、早いと思うのですけど……」
「ああ。まだ早い。陽文が来るのは、もう少し先だ。今、千後瀧から連絡がきて、少し話をしていた」
今日は陽文さんが、家の前まで自動車で迎えに来てくれる約束になっていた。
でも、玄関前にいる自動車は、陽文さんの自動車ではなく、千後瀧の本家のものだ。
光沢のある黒色の自動車が、家の前に横付けになり、千後瀧からの連絡役と思われる運転手さんが紫水様と向き合っていた。私と目が合うと、軽く頭を下げる。
以前、私と紫水様を東京駅から、家まで送ってくれた運転手さんで、見覚えがあり、私も会釈を返す。
まだ暑い季節ではないのに、運転手さんの額には、汗が浮かんでいる。
「本日、当主には予定があると、先方に伝えたのですが、どうしてもお会いしたいと言って、譲らず……。力及ばず、申し訳ありません」
可哀想なくらい運転手さんは怯え、緊張していた。
「客の用件は?」
「結婚の件についてと、伺っております」
「俺の結婚? なにか問題でもあったか?」
「申し訳ありません。自分は用件までしか、知らされておらず、これ以上お答えできません」
運転手さんの返答に、紫水様は難しい顔をして、ため息をついた。
紫水様たちのやり取りも気になったけど、それ以上に気になったのは、紫水様の洋服姿だった。
今日のおでかけのために着たスーツが、とても似合っている。
紫水様の洋服姿を見るのは、これが初めて。
スタイルがいいからか、立派なスーツに、少しも負けてない。
髪を上げ、シャツは糊がきいていて、ジャケットの生地もしっかりしたもの。
蒼ちゃんからの情報によれば、紫水様のスーツは、イギリスのテーラーで仕立てた高級品だとか。
どんな生地なのか、手触りはどうなのか、とても気になった。
「……梨、世梨? 聞いてるか?」
「えっ!? な、なんでしょうか!」
すっかりスーツに心を奪われていた私は、話を聞くどころか、紫水様が呼ぶ声すら、聞こえていなかったようだ。
「悪いが、俺は今から千後瀧の本家に行って、用事を済ます。昼までには合流できるようにするから、陽文にもそう伝えてくれ」
「わかりました」
一緒に行けないのは残念だけど、結婚の件と言っていたのが、私にも聞こえた。
私も関わりがある話で、千後瀧には一切相談なく結婚したから、呼び出されてもおかしくない。
「それで、世梨は俺になんの用だったんだ?」
「いえ。その……。おやつに炒り豆を作っていたのですけど……」
スーツ姿の紫水様は普段と違い、近寄りがたさを感じる。
そのせいか、素朴な炒り豆のおやつが似合わない気がした。
恥ずかしく感じ、そっと手の中に、炒り豆の包み紙を隠す。
「これは、俺のだろう?」
指の隙間から見えた包み紙は、すぐに見つかって、笑われてしまった。
「あ、あの……。でも、帰ってから召し上がったほうが……」
紫水様は私の手から、炒り豆の包み紙を取り上げる。
「炒り豆だな。まだ温かい」
「出来立てなんです」
「そうか。もらっていこう」
「紫水様、そろそろ……」
遠慮がちに運転手さんが声をかけてきた。
どれだけ恐ろしいのか、紫水様が視線を向けただけで、運転手さんが身をすくませる。
「世梨。奥の部屋に着物を用意してある。それを着ていくといい」
運転手さんが紫水様に気遣いながら、自動車のドアをそっと開けた。
「また後でな」
「はい。いってらっしゃいませ」
「なにかあれば、俺を呼べよ」
なにもないと思うけれど、私は素直に頷いた。
私の右手のひらには、龍の文様がある。
破壊力を考えたら、気軽に使えるようなものではない。
「あっ! 紫水さまに挨拶できなかったぁ~!」
蒼ちゃんが炒り豆を食べながら、飛び出してきた。
「蒼ちゃん。まだ炒り豆を食べてたの? たくさん食べたら、お腹いっぱいになってしまうわ。お昼は百貨店の食堂で食事をする予定でしょう?」
「ううっ……。わかっていたんですけど、止まらなかったんですぅ……」
「じゃあ、あと少しだけ紙に包んであげるから、つまみ食いは終わりにしてね?」
「はーい!」
元気よく蒼ちゃんは返事をし、手を挙げた。
それと同時に、鴉の大きな鳴き声がひとつ。
なにかの合図だったのか、鴉の鳴き声がそこら中から聞こえてきた。
蒼ちゃんから、さっきまでの無邪気さが消え、空へ鋭い視線を向ける。
「紫水さまがいなくなったから、鴉たちが集まってきちゃったみたいですね」
空に墨汁を弾いたような黒い影が、ぽつぽつと現れ、それはどんどん大きくなり、目に見えて鴉たちが増え出した。
はばたく音が近くで聞こえ、ぎゅっと蒼ちゃんの肩を掴んだ。
「蒼ちゃん、家の中に入りましょう」
「世梨さま、ご心配なく。この程度の相手など、ぼくの敵ではありません。ぼく、馬鹿にされるの嫌いなんです」
蒼ちゃんは年に似つかわしくない大人びた顔して、にっこり微笑む。
それを聞いていた鴉は負けじと、一斉に鳴き声を上げ、威嚇する。
屋根、木の上、塀から、鴉たちは次々に急降下し、蒼ちゃんに襲いかかった。
「蒼ちゃん!」
「世梨さまは、ぼくの後ろへお下がりください」
どこから取り出したのか、小さな手に瑠璃玉を持っていた。
丸だけでなく、金平糖のような形のものから、四角いものまで、形は様々。
瑠璃玉が宙に浮く。
それを蒼ちゃんの小さな爪が、おはじきと同じ要領で、順番に弾いた。
ぶつかる手前で四角い瑠璃玉が、形状を変化させ、鴉が入るほどの大きさに膨らみ、四角い箱が鴉を閉じ込めた。
「どんどん行くよ!」
弾かれた他の瑠璃玉も同じように、変化する。
金平糖の形をしたものは、針のように刺の部分を伸ばし、鴉を貫く。丸いものは数を増やし、分散して鴉を撃ち落とした。
「命中っ! 世梨さまっ! ぼくの活躍をご覧いただけましたか?」
「え、ええ……。強いのね、蒼ちゃん」
鴉たちが黒い羽根を散らし、逃げ惑う中、蒼ちゃんが何事もなかったように、私のほうへ可愛らしい笑顔を向けた。
でも、そんな蒼ちゃんの背後はすごく殺伐としている。
「世梨さま。ここはぼくに任せて、おでかけのご用意を! もうすぐ、陽文さまがやってきます」
「そうね。支度をしないといけないけど……。あ、あの蒼ちゃん? なるべく、鴉は逃がしてあげてね?」
「承知ですっ」
蒼ちゃんは軍人さんのように敬礼した。
無邪気で可愛いけど、容赦のなさは、紫水様にそっくりだ。
鴉たちが逃げて、数を減らすのを見届けてから、家の中へ入った。
紫水様が今日のおでかけのため、用意したという私の着物を探し、奥の部屋へ向かう。
鍵がかかっている部屋のひとつ手前の座敷に、昨日はなかった衣桁が出されていた。
「この着物は……おじいちゃんたちと一緒に見た桜の花の着物……」
衣桁には、郷戸の家で見た桜文の着物がかかっていた。
薄紅色の桜の花びらは、思い出の桜そのままで――
『世梨。桜が咲く前に、これを着て友人の家に訪問するといい。少し早い桜を楽しめるだろう』
祖父の言葉を思い出す。
流水文、桜文、大切な思い出が残る着物――紫水様は約束を守ってくれたのだ。
紫水様と一緒にいれば、いつでも祖父の着物を見れる。
もう文様を奪う必要はないのだ。
奥の部屋に春の柔らかな光が差し込み、着物を白く照らしていた。
久しぶりに袖を通した祖父の着物は、私の気持ちをしゃんとさせ、自然と顔が前を向く。
郷戸に行ってから、うつむいてばかりいたことに気付いた。
自信のない私を変えてくれる。
やっぱり、祖父の着物は違う。
「紫水様……。ありがとうございます」
ここに紫水様はいなかったけれど、右手のひらを見つめて、お礼を言った。
あのまま郷戸にいたら、間違いなく、私は命を落としていただろう。
「この結婚が、いつか終わる結婚だとしても、一緒にいられる時間を大事にしたい」
私を守り、大切にしてくれる紫水様の気持ちが伝わってくる。
蒼ちゃんと過ごすのも楽しい。
だから、それでいい――涙がひとしずく、龍文の上に落ちて消えた。
庭の手入れも済み、今は夏の花が咲くのを待つばかり。
それで、今日はみんなで、三葉百貨店へでかけて、お買い物をしたり、食堂で食事をする予定になっていた。
「百貨店へでかけるのは、とても久しぶりだわ」
昔から百貨店が大好きだった私。それに今日、私たちが行くのは、開店したばかりの新店舗である。
三葉百貨店の新店舗は西洋風のお洒落で豪奢な雰囲気で、一見の価値ありと、ご近所でも評判だ。
わくわくしすぎて、今日は朝早くに目が覚め、だいたいの家事を終えてしまった。
子供のように、そわそわしているのを知られたくなくて、おやつを作って時間を潰す。
私が作るのは、大豆の炒り豆。
掃除をしていたら、焙烙を見つけたので、おやつに炒り豆を作ろうと、大豆を前もって買っておいた。
炮烙は素焼きの土鍋で、銀杏や豆、お茶の葉を炒るのに使える。
古くなったお茶の葉も炒れば、香ばしいほうじ茶に変わる。
同じ茶葉とは思えない味わいの違いがあった。
昔、冬になると、仕事の合間に祖父が、火鉢の上でじっくり茶葉を炒り、祖母がお湯を沸かしてお茶を入れてくれた。
窓から見えるのは白い雪。
熱いほうじ茶を飲みながら、庭に積もる雪を三人で眺めていた。
鍋の中を転がる丸い大豆を眺めながら、懐かしい光景を思い出す。
「世梨さま。もしかして、炒り豆ですか?」
蒼ちゃんが茶の間の拭き掃除を終えて、戻ってきた。
「そうよ。炒り豆を作って置けば、小腹が空いた時に、いつでも食べられるでしょう?」
炒り豆を空いた缶に入れて保存しておけば、紫水様のお夜食、蒼ちゃんのおやつにちょうどいい。
炒った豆を紙の上に広げると、豆は雨音に似た音を立て、台所を香ばしい匂いで満たした。
「はい。蒼ちゃん、どうぞ」
「えへへ、ありがとうございます。わぁ、ほんのりあったかくて、美味しそうな匂いがします」
蒼ちゃんはポリッと軽い音を立て、噛み砕く。
小さな手のひらに、数粒の炒り豆をのせ、蒼ちゃんは嬉しそうな顔をして、一粒ずつ口にする。
「窓を開けるわね」
ガスコンロ前の窓を開けた。
豆を炒っていたら、台所に熱がこもり、暑くなってしまった。
台所の窓は亀甲硝子。
窓を開ければ、涼しい風が入ってくる。
硝子に施された亀甲文は亀の甲羅のような文様で、六角形が並ぶ。
最近は模様なしの硝子より、模様入りの硝子が人気で、他に笹や雲、結晶などがある。
祖父の家にも結晶硝子が使われていた。
でも、あの懐かしい家は、叔父夫婦の手に渡ったまま――
「世梨さま。紫水さまにもあげると、お喜びになりますよっ!」
割烹着の袖を引っ張られ、ハッと我に返った。
蒼ちゃんは紙を広げ、紫水様のための炒り豆を入れられるように、用意をして待っている。
――そうだった。
あの場所は失ってしまったけれど、今の私には新しい居場所がある。
「そうね。紫水様も召し上がるかもしれないわ」
まだ熱い炒り豆を紙に包んで、紫水様の部屋の前に行く。
「部屋にいない……? どこへ行ったのかしら?」
周囲を見回すと、玄関の戸が開いていて、紫水様がいるような気がしたので、外へ出てみる。
思ったとおり、そこには、でかける準備を済ませ、洋服に着替えた紫水様が立っていた。
「紫水様、どうかなさいましたか? まだ出かけるには、早いと思うのですけど……」
「ああ。まだ早い。陽文が来るのは、もう少し先だ。今、千後瀧から連絡がきて、少し話をしていた」
今日は陽文さんが、家の前まで自動車で迎えに来てくれる約束になっていた。
でも、玄関前にいる自動車は、陽文さんの自動車ではなく、千後瀧の本家のものだ。
光沢のある黒色の自動車が、家の前に横付けになり、千後瀧からの連絡役と思われる運転手さんが紫水様と向き合っていた。私と目が合うと、軽く頭を下げる。
以前、私と紫水様を東京駅から、家まで送ってくれた運転手さんで、見覚えがあり、私も会釈を返す。
まだ暑い季節ではないのに、運転手さんの額には、汗が浮かんでいる。
「本日、当主には予定があると、先方に伝えたのですが、どうしてもお会いしたいと言って、譲らず……。力及ばず、申し訳ありません」
可哀想なくらい運転手さんは怯え、緊張していた。
「客の用件は?」
「結婚の件についてと、伺っております」
「俺の結婚? なにか問題でもあったか?」
「申し訳ありません。自分は用件までしか、知らされておらず、これ以上お答えできません」
運転手さんの返答に、紫水様は難しい顔をして、ため息をついた。
紫水様たちのやり取りも気になったけど、それ以上に気になったのは、紫水様の洋服姿だった。
今日のおでかけのために着たスーツが、とても似合っている。
紫水様の洋服姿を見るのは、これが初めて。
スタイルがいいからか、立派なスーツに、少しも負けてない。
髪を上げ、シャツは糊がきいていて、ジャケットの生地もしっかりしたもの。
蒼ちゃんからの情報によれば、紫水様のスーツは、イギリスのテーラーで仕立てた高級品だとか。
どんな生地なのか、手触りはどうなのか、とても気になった。
「……梨、世梨? 聞いてるか?」
「えっ!? な、なんでしょうか!」
すっかりスーツに心を奪われていた私は、話を聞くどころか、紫水様が呼ぶ声すら、聞こえていなかったようだ。
「悪いが、俺は今から千後瀧の本家に行って、用事を済ます。昼までには合流できるようにするから、陽文にもそう伝えてくれ」
「わかりました」
一緒に行けないのは残念だけど、結婚の件と言っていたのが、私にも聞こえた。
私も関わりがある話で、千後瀧には一切相談なく結婚したから、呼び出されてもおかしくない。
「それで、世梨は俺になんの用だったんだ?」
「いえ。その……。おやつに炒り豆を作っていたのですけど……」
スーツ姿の紫水様は普段と違い、近寄りがたさを感じる。
そのせいか、素朴な炒り豆のおやつが似合わない気がした。
恥ずかしく感じ、そっと手の中に、炒り豆の包み紙を隠す。
「これは、俺のだろう?」
指の隙間から見えた包み紙は、すぐに見つかって、笑われてしまった。
「あ、あの……。でも、帰ってから召し上がったほうが……」
紫水様は私の手から、炒り豆の包み紙を取り上げる。
「炒り豆だな。まだ温かい」
「出来立てなんです」
「そうか。もらっていこう」
「紫水様、そろそろ……」
遠慮がちに運転手さんが声をかけてきた。
どれだけ恐ろしいのか、紫水様が視線を向けただけで、運転手さんが身をすくませる。
「世梨。奥の部屋に着物を用意してある。それを着ていくといい」
運転手さんが紫水様に気遣いながら、自動車のドアをそっと開けた。
「また後でな」
「はい。いってらっしゃいませ」
「なにかあれば、俺を呼べよ」
なにもないと思うけれど、私は素直に頷いた。
私の右手のひらには、龍の文様がある。
破壊力を考えたら、気軽に使えるようなものではない。
「あっ! 紫水さまに挨拶できなかったぁ~!」
蒼ちゃんが炒り豆を食べながら、飛び出してきた。
「蒼ちゃん。まだ炒り豆を食べてたの? たくさん食べたら、お腹いっぱいになってしまうわ。お昼は百貨店の食堂で食事をする予定でしょう?」
「ううっ……。わかっていたんですけど、止まらなかったんですぅ……」
「じゃあ、あと少しだけ紙に包んであげるから、つまみ食いは終わりにしてね?」
「はーい!」
元気よく蒼ちゃんは返事をし、手を挙げた。
それと同時に、鴉の大きな鳴き声がひとつ。
なにかの合図だったのか、鴉の鳴き声がそこら中から聞こえてきた。
蒼ちゃんから、さっきまでの無邪気さが消え、空へ鋭い視線を向ける。
「紫水さまがいなくなったから、鴉たちが集まってきちゃったみたいですね」
空に墨汁を弾いたような黒い影が、ぽつぽつと現れ、それはどんどん大きくなり、目に見えて鴉たちが増え出した。
はばたく音が近くで聞こえ、ぎゅっと蒼ちゃんの肩を掴んだ。
「蒼ちゃん、家の中に入りましょう」
「世梨さま、ご心配なく。この程度の相手など、ぼくの敵ではありません。ぼく、馬鹿にされるの嫌いなんです」
蒼ちゃんは年に似つかわしくない大人びた顔して、にっこり微笑む。
それを聞いていた鴉は負けじと、一斉に鳴き声を上げ、威嚇する。
屋根、木の上、塀から、鴉たちは次々に急降下し、蒼ちゃんに襲いかかった。
「蒼ちゃん!」
「世梨さまは、ぼくの後ろへお下がりください」
どこから取り出したのか、小さな手に瑠璃玉を持っていた。
丸だけでなく、金平糖のような形のものから、四角いものまで、形は様々。
瑠璃玉が宙に浮く。
それを蒼ちゃんの小さな爪が、おはじきと同じ要領で、順番に弾いた。
ぶつかる手前で四角い瑠璃玉が、形状を変化させ、鴉が入るほどの大きさに膨らみ、四角い箱が鴉を閉じ込めた。
「どんどん行くよ!」
弾かれた他の瑠璃玉も同じように、変化する。
金平糖の形をしたものは、針のように刺の部分を伸ばし、鴉を貫く。丸いものは数を増やし、分散して鴉を撃ち落とした。
「命中っ! 世梨さまっ! ぼくの活躍をご覧いただけましたか?」
「え、ええ……。強いのね、蒼ちゃん」
鴉たちが黒い羽根を散らし、逃げ惑う中、蒼ちゃんが何事もなかったように、私のほうへ可愛らしい笑顔を向けた。
でも、そんな蒼ちゃんの背後はすごく殺伐としている。
「世梨さま。ここはぼくに任せて、おでかけのご用意を! もうすぐ、陽文さまがやってきます」
「そうね。支度をしないといけないけど……。あ、あの蒼ちゃん? なるべく、鴉は逃がしてあげてね?」
「承知ですっ」
蒼ちゃんは軍人さんのように敬礼した。
無邪気で可愛いけど、容赦のなさは、紫水様にそっくりだ。
鴉たちが逃げて、数を減らすのを見届けてから、家の中へ入った。
紫水様が今日のおでかけのため、用意したという私の着物を探し、奥の部屋へ向かう。
鍵がかかっている部屋のひとつ手前の座敷に、昨日はなかった衣桁が出されていた。
「この着物は……おじいちゃんたちと一緒に見た桜の花の着物……」
衣桁には、郷戸の家で見た桜文の着物がかかっていた。
薄紅色の桜の花びらは、思い出の桜そのままで――
『世梨。桜が咲く前に、これを着て友人の家に訪問するといい。少し早い桜を楽しめるだろう』
祖父の言葉を思い出す。
流水文、桜文、大切な思い出が残る着物――紫水様は約束を守ってくれたのだ。
紫水様と一緒にいれば、いつでも祖父の着物を見れる。
もう文様を奪う必要はないのだ。
奥の部屋に春の柔らかな光が差し込み、着物を白く照らしていた。
久しぶりに袖を通した祖父の着物は、私の気持ちをしゃんとさせ、自然と顔が前を向く。
郷戸に行ってから、うつむいてばかりいたことに気付いた。
自信のない私を変えてくれる。
やっぱり、祖父の着物は違う。
「紫水様……。ありがとうございます」
ここに紫水様はいなかったけれど、右手のひらを見つめて、お礼を言った。
あのまま郷戸にいたら、間違いなく、私は命を落としていただろう。
「この結婚が、いつか終わる結婚だとしても、一緒にいられる時間を大事にしたい」
私を守り、大切にしてくれる紫水様の気持ちが伝わってくる。
蒼ちゃんと過ごすのも楽しい。
だから、それでいい――涙がひとしずく、龍文の上に落ちて消えた。
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