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June

20 call【理滉】

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ドイツのアパートメントに戻り、コンサートのリハに向けて練習を始めた。
髪をまとめ、無音の中で弾く―――煩わしいことはなにもない。
向こうと違って、六月のドイツに梅雨はなく、すっきりと晴れた日が続いていた。
過ごしやすく、体調も悪くない。
それなのになぜか気分が乗らない。
音が微妙に違う。
ほんのミリ単位でも指に触れる弦が違えば、音が狂う。
チェロは繊細な楽器だ。
集中できていないのがすぐにわかってしまう。
溜息をつき、髪をほどいた。
ドイツに戻れば、俺はまたいつものように戻れると思っていた。
チェロが重たく感じることなど一度もなかった。
それが、今はずしりと手に重くのしかかっているような気がしてならない。
弓を置く。
今は何を弾いてもうまくいかないだろう。
ワインセラーから白ワインを取り出し、ワイングラスに注いだ。
明るい日差しを眺めながら、昼間からワイン。
外から見える俺は『なんの仕事をしているんだ?』そう思われているかもしれない。
スマホを手にすると、マネージャーの渡瀬から着信があった。
新しい仕事の依頼かもしれない。
けど、今は何も引き受ける気にはなれなかった。
―――断ろう。
そう思って電話をかけた。

「渡瀬、何か用か」

『そちらこそ、私に用があるのでは?』

しばし沈黙。
なんだこいつ。
高い金を払って国際電話をかけてきたあげく、疑問形からスタートかよ。
疑問なのは俺の方だ。

「なに言っているんだ?用がないなら切るぞ」

『臆病者』

「誰が臆病者だ!俺に悪口を言うためだけに電話をかけたのか?切るぞ!」

『このままでいいんですか?」

「なんのことだよ」

はぁっと電話口で渡瀬がため息をつくのが聞こえた。
なんだ、その面倒そうな態度は。
つくづく失礼なやつだな、こいつは。

『あなたワケアリな女性と慈善活動のように付き合っていることは知っていましたが、私にはお互い本気にならないから付き合っているように見えました。つまり、ギブアンドテイクな恋愛だった』

渡瀬が淡々とした口調で話す。

『本気で人を好きにならないようにしてるのは大切な人を失う辛さを知っているからでしょう。あなたは大切な誰かを作ることに臆病になっているんですよ』

「黙れ」

『黙りませんよ。どうせスランプなんでしょう?そして、それを誤魔化すのにアルコールを飲んでいた。そんなところでしょうね』

なぜ、わかるのだろう。
俺はワインを飲む手を止めた。

「お前、とうとう俺の盗撮を始めたのか?」

『そんな趣味はありません。あなたの私生活に興味はありません。私が好きなのはあなたの音だけですから。不本意ですが』

「一言よけいだ!」

なにが不本意だ。
たまには俺を手ばなしで褒めるとかないのかよ。

『その音を失くすわけにはいきません』

電話向こうの渡瀬の顔は見えない。
けれど、いつもより真剣なことはわかった。

「さすがビジネスライクな奴だな。それで、俺の精神状態を保つために俺の恋人もあてがおうとでも考えてるのか?」

『そうです』

「いや!?そこは言いようがあるだろ!?……ったく、俺は自分で相手くらい見つける。忙しいから、切るぞ」

こいつのマイペースな会話には付き合いきれない。
スマホを切ろうとした瞬間、渡瀬の言葉がそれを止めた。

笠内かさうち望未みみが告白されてましたよ』

「誰に?」

『興味ないのでは?』

「いいから、教えろよ」

『若くて可愛い彼女は偏屈で性格がひん曲がったおじさんを忘れて、爽やかな家具店社長と恋に落ちたほうが幸せかもしれませんね』

家具店社長?
もしかして、あのカフェの客だろうか。
いや、それよりも―――

「誰が偏屈で性格がひん曲がったおじさんだ!」

『違うのなら、今から日本に帰ってきてお姫様をさらうくらいのことをしたらどうですか?このままだと、持ってかれますよ?梶井さんと正反対のさわやかイケメン社長に』

いちいちお前は俺を叩き落とさないと気が済まないのかよ!
本気で俺のことを嫌っているのではと疑いたくなるくらいだ。

「帰るわけないだろ!来週、コンサートなんだぞ。週末にはリハがある。あいつがイケメン社長と幸せになるっていうなら、なればいい。俺の知ったことじゃない」

溜息をつく声が聞こえた。

『過去の傷は消せません。でも、あなたは傷を持ったまま、一緒に生きていける相手を見つけたんじゃないですか?見つけられただけマシじゃないですか』

「……なんだ。お前にはそんな相手がいないみたいな口ぶりだな」

『いませんね。だからこそ、手ばなしてほしくない。そういうことです」

渡瀬はそこまで言うと、自分のプライベートに俺を踏み込ませるつもりはないのか、ブツッと電話を切った。
あいつはあいつで色々あるのだろう。
一緒に生きていきたい相手か。
俺は母を亡くし、深い傷を負った。
母が好きだと言ってくれたから、チェロを続けていた。
その母が死に弾く意味がなくなったと思って、チェロをやめようとしていたのは高校生の頃のことだ。
あの日から人を好きになることを避けてきた。
また失って弾けなくなるくらいなら、と。
ただ一人をのぞいては。

「俺はまだ引きずってんのか」

渡瀬が言うように傷は消えない。
この傷は一生モノだ。
ファリャの楽譜を手にした。
火祭りの夜。
俺が一緒に弾こうと思っていた曲だ。
望未と――――

「捨てられなかったな」

楽譜を手にしてアパートメントを出た。
日本へと向かうために。
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