婚約者を奪われ無職になった私は田舎で暮らすことにします

椿蛍

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5 無心

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器具も材料も揃っている。
祖母の工房は家のすぐ隣にあって、昔は納屋として使っていた建物だった。
まだ誰も片付けに来ていなかったから、祖母が使っていたものすべてが残っていた。
白い麻のストールを何枚も取り出して洗って干した。
布は一度洗って乾かしたものを使う。
摘んだヨモギは綺麗に洗って、鍋に入れ水を加えて煮る。

「草の匂いがする」

白い湯気が頬にかかる。
エアコンをつけるのも忘れ、深い緑へ変わる水を眺めていた。

「そろそろいいかな」

パチンと火を止めてザルにあげる。
使うのはこの黒っぽい緑の液。
ヨモギを絞ってできた液に白い麻地のストールを端からゆっくりとつける。
まだ緑にはならない。
ここから漬けてこみ、それから火にかける。
その作業を繰り返す。
あとは布の色落ちを防ぐために媒染剤を選ぶ。
アルミ、ミョウバン、銅、鉄、石灰などがあるけど、このどれを選ぶかでも色が違う。
ぽたりと汗が落ちた。

「暑い……」

窓を開けて外を見ると紫陽花が見える。
それからブルーベリーの木に実がなっているのも。
おばあちゃんの庭には染色のための草木が多く残っていた。
タデアイ、赤麻あかそ、ドクダミ、ツワブキ、カラスノエンドウ、雑草なんてないのだ。
この家には。
外に飛び出すとひたすら摘んだ。
まるで何かにとりつかれたみたいに。
少なくとも今は悲しみを忘れていた。
あのどうしようもない喪失感さえ消えていた―――


◇ ◇ ◇ ◇ ◇


染め終わったのはお昼をだいぶ過ぎた頃だった。
庭にランドリーロープを張り巡らし、井戸水で洗った布を絞る。
そして、色とりどりに染まった麻のストールをロープにかけていった。
周囲の木々がちょうどいい影をつくり、陰干しができるようになっている。
これもきっとおばあちゃんが考えたんだろうな―――染めるための環境にこだわっていたおばあちゃん。
おばあちゃんの娘である母は変わった人だと言って、あまり寄り付かなかったけれど、私は長期の休みには決まってこの家に預けられていた。
両親が二人とも仕事の忙しい人だったから、マンションに長い時間、私一人置いておきたくなかったのだろう。
はためく麻のストールをぼんやり眺めた。
色に囲まれて、その中心で空を仰ぐ。
空色の青。
青は斗翔の色。
どれだけ眺めても私はもう青には染まらない。
染めた布が私の周りを囲っているから。
布だけじゃない―――黒っぽい影が目の端に入った。

「……誰?」

長身で真面目そうな男の人が直立不動で立っている。
黒髪をきっちり乱れなくセットし、グレーの作業服を着ていた。
現場監督の仕事が何かなのか、胸元にはペンを数本つけている。
その服装を懐かしいと思うのは早すぎる。
それなのに―――もうあの場所は私には遠い。
男の人は手に持っていた紙袋を差し出した。

「怪しいものではありません。納多のだといいます。民宿『海風』から頼まれてお弁当を持ってきました」

民宿と言われて莉叶りかちゃんの顔が浮かんだ。
お隣さんって、どれだけ面倒見がいいの?
親切すぎない?
そう思った瞬間、ふらりと倒れそうになった。
あ、貧血だと思い、慌てて縁側に手をつき、自分の手を見た。
手袋しなかったせいで、指先が黒い。
何してるの、私。
倒れかけて飲まず食わずで朝から染め続けていたことを思い出した。
そんな馬鹿な自分を笑って、よろよろとしながら顔をあげた。

「……お弁当、ありがとうございます」

「いえ、平気ですか?」

「あんまり」

「そうみたいですね」

納多さんはサッと名刺を出した。
怪しい者ではないと言いたいのだろうけど。
差し出すのはそのお弁当にしてほしい。

「ごめんなさい。貧血みたいで」

「何も食べてなかったんですか?」

「水も飲んでなくて」

「は?何してるんですか」

慌てて納多さんは紙袋からお茶のペットボトルを取り出し、あけてくれた。

「こんな暑いのに水も飲まなかったら、倒れますよ」

「そうですね。ぶっ倒れるかと思いました」

納多さんは手際よく縁側に座った私の横にお弁当箱を開け、どうぞと割り箸までわってくれた。

「面倒見いいですね」

「……まあ、面倒を見る仕事をしているので」

現場監督だから?
そう思いながら、名刺を見ると建設大手の朝日奈あさひな建設と書いてあった。

「はー。大きなとこで働いてますね」

鮭の入ったおにぎりを食べた。
しょっぱい鮭が白いご飯によく合う。
お米も美味しい。

「まあ、そうですね。朝日奈建設は業界トップですから」

―――知ってる。
森崎建設が業績を落とし、トップに返り咲いたのが朝日奈建設だった。
社長が代わったこともあり、今一番、建設業界で注目されている建設会社なのよね。
私にはもう関係ないけど。
名刺を横に置いて、納多さんに言った。

「納多さん。民宿で働く人達に似合いそうなストールを持って行ってくれませんか?いろいろとお世話になってしまってるのでお礼に」

はためくストールを指さすと納多さんは驚いていた。

「これは商品ではないんですか?」

「違いますよ。私はただの素人だし。染物作家だったおばあちゃんが見たら、きっと笑います」

「そうですか?とても綺麗だと思いました」

真面目な顔で納多さんは言った。
綺麗かな。
色を眺める。
まだまだだと私は思うけれど―――自分が納得できるまでのところまでいけたらどんな色になるのだろう。

「お礼になりそうなら、それで」

「なるとは思いますが」

「思いますが?」

「いい年した大人が飲まず食わずで染物をし、倒れそうになっていたと聞けば、心配します。今後は体調管理をしっかりしてください。それから、引っ越しの片づけをしてから、行動するべきでは?見たところ、荷物は段ボールのままで茶の間に毛布と座布団。布団すらも用意せず、食料もないようですが。それはちょっとどうかと思いますよ」

「お説教!?」

しかも長い上に厳しい。

「誰も言ってくれる人がいなさそうなので、僭越ながら言わせていただきました」

な、な、なんなのーーー!!!!
い、いや、確かによ?
確かに私はちょっと大人失格だったわよ。
でも、見るからにワケアリなかんじじゃない?
若い女性が一人田舎に来ました、しかも傷心。
事情を聞いてくれたっていいじゃないー!

「優しさがほしい!」

「優しさからの言葉です」

う、うわぁ。
この人、絶対敵を作るタイプだよ!?
正直すぎるというかなんというか。

「以後、気を付けてください。いいですね?」

納多さんはサッと立ち上がると、ストールを三本、手にして一礼した。
桜の枝のピンク、ヨモギの緑、ブルーベリーの薄紫。

「では、失礼します。迷惑をかけないようにしてくださいね」

まるでロボットみたいに挨拶し、去って行った。

「め、迷惑っー!?」

悔しい。
だけど、正論すぎて言い返せなかった。
なんなの、あの人。
おにぎりを口にいれたまま唸って縁側に転がった。

「初対面でガッツンガッツン言い過ぎでしょー!!」

声を張り上げ暴れたけれど、その声はむなしく広い庭先に響いただけだった―――
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