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36 二人の約束
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店から出ると湿った空気が肺に入ってきた。
その空気を吸い込み、吐き出す。
店の中で感じた息苦しさが少しは和らいでくれた。
きっと斗翔には私と話せない理由があるはず。
最初、視線が合った時、ほんのわずかだけど動揺して見えた。
だから、大丈夫―――
「駅までと言ったけれど、家まで送ろう」
須麻さんの声に我に返って首を横に振った。
「いえ。平気です」
須麻さんはまだ仕事があったはずだ。
「送り届けるまで心配で仕事にならないって言いたいところだけど、俺が送りたいだけだよ。さあ、乗って」
「すみません……」
車に乗ると須麻さんはちょっと待ってと言ってコンビニに行って、冷たい水が入ったペットボトルを渡してくれた。
「調子の悪い時は水が欲しくなるだろうからね」
須麻さんは私の額に冷たいペットボトルをぴたりとあてた。
驚く私の顔を見て、須麻さんはいたずらっ子のように笑うと運転席に戻り、スマホを手にする。
須麻さんは秘書の宮光さんに電話をかけて仕事の調整を済ませるとハンドルを握った。
「このまま、家に帰る?それとも俺のマンションに来る?」
「帰ります」
即答する私に須麻さんはあーあ、と残念そうに笑った。
「やっぱり俺じゃ駄目か。さすが、あの頑固な唄代先生の孫だね」
こうと決めたらテコでも動かなかったおばあちゃん。
一人で暮らすのは危ないから一緒に暮らそうと母が何度も言ったけど、断り続けた。
最期の最期まで自分のやりたいようにやっていたのを思い出す。
若い私より元気でこっちを振り回すくらいの強い人だった。
「なびかなかったご褒美にこれをあげよう」
そう言って須麻さんがくれたのは小さく折りたたんだ白い紙だった。
「彼は俺に名刺じゃなくて、それを渡したかったんだと思うよ」
なんだろうと思いながら、その白い紙を開いた。
「ずっと持ち歩いていたんじゃないかな」
家の絵―――一緒に建てる場所を見に行こうと約束したあの日描いた絵がそこにはあった。
「斗翔……」
「それ。大事なものだったみたいだね」
「はい……ありがとうございます。須麻さん」
降り始めた雨と同じような涙が紙に落ちた。
「お礼は言わなくていいよ。俺と来るって答えたら、それは捨てるつもりだったから」
「またそんなことを言って。須麻さんはそんなこと絶対にしませんよ」
「どうだろうね」
「おばあちゃんが選んだ人ですから」
「ずるいなぁ……そんなふうに言われたら、手をだせなくなるよ」
須麻さんはそう言うと何事もなかったかのようにおばあちゃんの話や染物の話をして、涙には触れずにいてくれた。
島の橋を渡る頃には雨はやんでいたけれど、風は強くなっていた。
「台風の前の空は不気味だね」
「そうですね。綺麗すぎて怖くなりますね」
車の窓から見える空は焼けるように赤く染まり、ピンク色の海は嵐が来ることを教えていた。
海沿いを走り、砂浜がある海辺を通りすぎると細く長い坂道にさしかかる。
民宿『海風』の青い屋根を目にすると帰ってきたんだと思う自分がいて、いつの間にかここの暮らしが当たり前になってきていた。
頭の中には次に染める物や色があって、もう前の私とは違う。
気づかないうちに少しずつ私も変わっている。
だから、斗翔もきっと以前のままの斗翔じゃない。
「須麻さん」
「うん?」
「作品ができたら一度見てください。個展ができるレベルなのかどうか見極めてもらえますか?」
「わかったよ。楽しみにしてる」
今までで一番嬉しい顔をして須麻さんは笑った。
私と須麻さんは恋愛関係にはならない。
こうやって何年、何十年後も染物の話やおばあちゃんの話をずっとしていく同志のような関係。
それが一番しっくりくる。
須麻さんは山道を車でのぼり、家まで送ってくれた。
細い悪路なのになれているのは彼が何度もここに通ったからだろう。
おばあちゃんに会うために。
「ありがとうございました」
深々と頭を下げると須麻さんはいいよと言った。
「一緒にいてあげたいけど、明日、どうしてもはずせない仕事があるからな。心細くなったら、電話して」
ぽんっと頭をたたくと明るい笑顔で須麻さんは去っていった。
太陽のような須麻さんが去るのと同時に空から大きな雨粒が落ちてきた。
深緑の草木が風で揺れ始め、庭のバケツが飛んでいく。
ゴロゴロと遠くで雷の音が鳴って嵐がくることを告げていた―――
その空気を吸い込み、吐き出す。
店の中で感じた息苦しさが少しは和らいでくれた。
きっと斗翔には私と話せない理由があるはず。
最初、視線が合った時、ほんのわずかだけど動揺して見えた。
だから、大丈夫―――
「駅までと言ったけれど、家まで送ろう」
須麻さんの声に我に返って首を横に振った。
「いえ。平気です」
須麻さんはまだ仕事があったはずだ。
「送り届けるまで心配で仕事にならないって言いたいところだけど、俺が送りたいだけだよ。さあ、乗って」
「すみません……」
車に乗ると須麻さんはちょっと待ってと言ってコンビニに行って、冷たい水が入ったペットボトルを渡してくれた。
「調子の悪い時は水が欲しくなるだろうからね」
須麻さんは私の額に冷たいペットボトルをぴたりとあてた。
驚く私の顔を見て、須麻さんはいたずらっ子のように笑うと運転席に戻り、スマホを手にする。
須麻さんは秘書の宮光さんに電話をかけて仕事の調整を済ませるとハンドルを握った。
「このまま、家に帰る?それとも俺のマンションに来る?」
「帰ります」
即答する私に須麻さんはあーあ、と残念そうに笑った。
「やっぱり俺じゃ駄目か。さすが、あの頑固な唄代先生の孫だね」
こうと決めたらテコでも動かなかったおばあちゃん。
一人で暮らすのは危ないから一緒に暮らそうと母が何度も言ったけど、断り続けた。
最期の最期まで自分のやりたいようにやっていたのを思い出す。
若い私より元気でこっちを振り回すくらいの強い人だった。
「なびかなかったご褒美にこれをあげよう」
そう言って須麻さんがくれたのは小さく折りたたんだ白い紙だった。
「彼は俺に名刺じゃなくて、それを渡したかったんだと思うよ」
なんだろうと思いながら、その白い紙を開いた。
「ずっと持ち歩いていたんじゃないかな」
家の絵―――一緒に建てる場所を見に行こうと約束したあの日描いた絵がそこにはあった。
「斗翔……」
「それ。大事なものだったみたいだね」
「はい……ありがとうございます。須麻さん」
降り始めた雨と同じような涙が紙に落ちた。
「お礼は言わなくていいよ。俺と来るって答えたら、それは捨てるつもりだったから」
「またそんなことを言って。須麻さんはそんなこと絶対にしませんよ」
「どうだろうね」
「おばあちゃんが選んだ人ですから」
「ずるいなぁ……そんなふうに言われたら、手をだせなくなるよ」
須麻さんはそう言うと何事もなかったかのようにおばあちゃんの話や染物の話をして、涙には触れずにいてくれた。
島の橋を渡る頃には雨はやんでいたけれど、風は強くなっていた。
「台風の前の空は不気味だね」
「そうですね。綺麗すぎて怖くなりますね」
車の窓から見える空は焼けるように赤く染まり、ピンク色の海は嵐が来ることを教えていた。
海沿いを走り、砂浜がある海辺を通りすぎると細く長い坂道にさしかかる。
民宿『海風』の青い屋根を目にすると帰ってきたんだと思う自分がいて、いつの間にかここの暮らしが当たり前になってきていた。
頭の中には次に染める物や色があって、もう前の私とは違う。
気づかないうちに少しずつ私も変わっている。
だから、斗翔もきっと以前のままの斗翔じゃない。
「須麻さん」
「うん?」
「作品ができたら一度見てください。個展ができるレベルなのかどうか見極めてもらえますか?」
「わかったよ。楽しみにしてる」
今までで一番嬉しい顔をして須麻さんは笑った。
私と須麻さんは恋愛関係にはならない。
こうやって何年、何十年後も染物の話やおばあちゃんの話をずっとしていく同志のような関係。
それが一番しっくりくる。
須麻さんは山道を車でのぼり、家まで送ってくれた。
細い悪路なのになれているのは彼が何度もここに通ったからだろう。
おばあちゃんに会うために。
「ありがとうございました」
深々と頭を下げると須麻さんはいいよと言った。
「一緒にいてあげたいけど、明日、どうしてもはずせない仕事があるからな。心細くなったら、電話して」
ぽんっと頭をたたくと明るい笑顔で須麻さんは去っていった。
太陽のような須麻さんが去るのと同時に空から大きな雨粒が落ちてきた。
深緑の草木が風で揺れ始め、庭のバケツが飛んでいく。
ゴロゴロと遠くで雷の音が鳴って嵐がくることを告げていた―――
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