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一章
1.事の始まりと契約結婚の始まり
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◇
「え、旦那様が劇薬を浴びた……!?」
午後の昼下がり。
特に予定もなく、のんびりとお茶をして過ごしていたところ、我が家の執事アレックスが血相を変えて部屋に飛び込んできた。
息を切らし、ぜえぜえと荒い呼吸をしている。
もう年なんだから、それほど慌てると命に関わるのではないかと、お節介ながら思ってしまう。
アレックスは私の側までおぼつかない足取りで近づいてくると、息も絶え絶えに想像以上に不穏な話を報告した。
「旦那様が勤め先の魔術塔で、不慮の事故で劇薬を浴びて重症です」
「!?」
――劇薬!?
その強い響きから、皮膚をも溶かすような、命に関わる代物を想像し、
手が震えて思わずカップを取り落とした。
慌てて駆け寄ってきた侍女が、カップとこぼれたお茶を片付けるが、
彼女も動揺しているのか、割れた破片を素手で持ってしまい、
「いたっ」と小さく声を上げたのが聞こえた。
……重症ですって!?
もしかして、一生寝たきり?
それとも、目を背けたくなるほど酷い姿になってしまった?
「い、いまの容態は……どうなっているのですか……?」
率直に言って――怖い。
容態なんて聞きたくないのが正直なところだが、胸のざわつきをなんとか抑えて問いかける。
「はい……
先ほど魔術塔の医務室に運ばれて、命に別状はないそうです。
会話も可能らしいのですが――
残念ながら、旦那様のお姿が……元の状態からは、かけ離れたものになってしまったらしく……」
「そんな⋯⋯、なんてこと……!」
今度こそ、叫びそうになってしまった。
夫のいいところといえば、容姿くらいしか、今のところ思い当たらないのに――!
薄情に聞こえるかもしれない。
けれど、それくらいに旦那様の中身を知る機会が、今までなかったのだ。
もちろん、夜の営みなんてものは、もってのほか。
結婚してまだ一ヶ月しか経っていないが、ただの同居人同然のお飾りの妻。
それが、私――ノエル・キングリーだった。
◆
「君、名前はノエルで合っているか?」
「え……?
は、はい」
今日は卸している薬草の納品日。
普段であれば魔術師塔の魔法薬開発部の倉庫に材料の入った箱を持っていき、
事務所に寄って納品処理をしたら終わりだ。
なのに、今日に限って少し残ってほしいと言われ、
事務所の奥にある応接室へと訳がわからないままに通された。
そこにいたのは、納品の際にたまに見かける、いつも仏頂面をしている魔法薬開発部の研究室室長。
名前は……"キングリー室長"と周りから呼ばれている、若手のやり手だ。
彼の不機嫌そうな表情はさておき、とにかく顔が良かった。
遠目から見ても、「あ、なんかイケメンがいるぞ」と気づくくらいに、
ほかの人とは目鼻立ちの作りが違っている。
アッシュブラウンの髪に、青と水色の間のような綺麗な瞳。
長い睫毛に縁取られたそれは今、
値踏みするように、ノエルのことを上から下まで不躾に眺めている。
「突然呼び出して申し訳ない。
私の名前はサフィール・キングリー。
この魔術師塔の研究室で室長をしている」
「あ、はい、存じ上げております」
納品先の責任者だ。
直接会話をしたことはないし、ファーストネームを知ったのも、いまが初めてだが、知らないわけがなかった。
(なんだろう……クレームかな。
でも、ちゃんと品質も問題ないものを卸してるし、数もチェックしてるから、心当たりはないんだけど……)
彼の表情から、良くない話を持ちかけられるのは明白だった。
それゆえ、ノエルの身体は、少しばかり緊張でこわばる。
けれど、視線を逸らすのは失礼だと、彼――サフィールの温度のない顔を見つめた。
「知っているなら話は早い」
サフィールはノエルを射抜かんばかりの視線で見つめ返し、
静かに――爆弾のような内容を告げた。
「私と結婚してほしい」
「……………………!?」
――一瞬、幻聴かと思った。
いや、幻聴だったのかもしれない。
結婚とは、自分が知っている「結婚」とは、意味が違うのかも。
すぐさま頭が混乱し、ノエルは固まった。
しかしサフィールには、ノエルの反応は想定内だったのだろう。
すぐに、矢継ぎ早に尋問に近い質問を重ねてきた。
「君、恋人や婚約者は?」
「え……そんな人、いません」
「年上の男性をどう思う?」
「特になんとも」
「結婚に際して、君の家の借金を肩代わりすると言ったら?」
「……泣いて喜びます」
「君が結婚相手に求めるものは?」
「ええと……
誠実さ、でしょうか」
「じゃあ、私と結婚するのは、悪い条件じゃないと思う。
いかがだろうか?」
「……」
一体、何が起こったというのだろうか。
ほぼ面識のない相手に突然求婚され、
しかも結婚すれば、この目の前の男性が、実家の借金を肩代わりしてくれるというのだ。
(全く意味がわからないけど、私にとっては好都合すぎる)
そう、ノエルの実家であるニュート男爵家は今、
父である男爵のこさえた借金によって困窮していた。
お人好しの男爵は知人に騙され、借金の連帯保証人になり、
とんずらされた挙句、自分とは関係のない借金まで背負わされることになってしまったのだ。
はっきり言って、返せないわけではない。
時間をかけて細々と支払っていけば、返済できる見込みはあった。
ただ、このままでは次期当主となる弟の学費は、確実に払えない。
ノエルがいちばん心を痛めていたのは、ノエルとは歳が離れたまだ幼い弟に、必要な教育を適切な時期に受けさせてあげられないことだった。
そこで、雀の涙ではあるが、
ノエルは男爵領で自生している薬草を、自身の学生時代の友人の伝手で魔術師塔に卸させてもらうことで、
借金の返済を工面していた。
普段はそれに加え、街の薬屋で受付の仕事をしていたりもする。
ノエルは仮にも男爵令嬢ではあるが、今やすっかり労働階級の者として身をやつしていた。
そんな中、突然振って湧いた求婚。
今まで男性に好意を寄せられることはあっても、目の前の借金返済に忙しく、恋人を作る気になれなかった。それが、借金の肩代わりをしてくれる人と結婚できるとか。
――自分にとってはメリットしかない。
(うん、どう考えても、怪しすぎる)
真正面から信じすぎると痛い目に遭う。
それは、お人好しの父を長年見てきて、自然と学んだことだった。
「正直に申し上げますと、私にとっては、願ってもみないお話です。
……ですが、私と結婚することで、あなた様にとってのメリットが、まったく見当たりません」
冷静に告げたノエルに対し、サフィールは、これも想定内だったのだろう。
言い淀むこともなく、すぐに答えを返してくれた。
「怪しむのも無理はない」
ふうっと息をついてから、静かに理由を話し始める。
「……実はいま、私は周りから結婚しろと、口うるさくせっつかれていてな」
ひどく面倒くさそうに言うサフィールは、先ほどよりも人間臭さが滲み出ていた。
その様子に、ノエルはなぜか安堵を覚える。
「実家の侯爵家からは、頭がお花畑か、肉欲しか頭にないご令嬢を送りつけてくるし、
職場からも、今以上の出世を見込むなら家庭を持てと、何人か紹介を受ける始末だ」
――綺麗な所作から貴族の方だとは思ってたけど、侯爵家の方だったのね。
じゃあ、なおさら、どうして末端貴族で借金持ちの私なんかに、声をかけてきたのかしら。
ノエルは、心の中では盛大に眉根を寄せていたが、実際の表情は冷静を貫いた。
「ずっと縁談の類は突っ撥ねてきたんだが、最近、うちの薬品開発の材料となる薬草を卸しているという君の噂を耳にした」
突然、自分の話になり、ノエルは「え」と表情が崩れる。
「借金返済のため健気に働いている男爵家のご令嬢、ノエル・ニュート。
堅実で丁寧な仕事ぶり、そして周囲の人間とも、すぐに打ち解けられる確かな社交性」
彼の澄んだ青い瞳と目が合う。
思いがけない賞賛に、ノエルの心がドキリと跳ねた。
――が、彼の次の言葉によって、一瞬にして現実に引き戻された。
「――契約を持ちかけるには、ぴったりだと思った」
「……」
要は、契約結婚してくれという打診である。
(……まあ、そうよね。
私は見た目がいいわけでもないし、一目惚れなんて、そんなロマンチックなことはないってわかってたけど――)
わかってはいた。
だが、それでも内心でがっかりしている自分がいた。
少し落ち込みを見せるノエルに構わず、サフィールは淡々と説明を続けた。
「私は正直、恋だの愛だのには興味がない。そんなことよりも、仕事に時間を割いていたいと考える人間だ。
ただ、面倒ではあるが、周囲を黙らせるためにも結婚はしておきたい。
対して君は、借金を返済したいと思っている。
私は侯爵家の者だが三男だから、万が一にも家を継ぐことはないし、他の兄弟に比べて自由にやらせてもらっている。だから、身分のことは気にしなくていい。
それに、自分が出世頭であることは間違いないから、苦労はさせない」
どうやら、彼が仕事人間であることは、少ない会話からでもよくわかった。
自分で出世頭と言い切ってしまうほどには、自分の仕事を誇りに思っているのだろう。
別に、そのことは悪くない。働かない人よりも、よほど好ましい。
けれども――
「でも……それだと、私以外にも、いくらでも条件のいい方がいらっしゃったのではないでしょうか」
将来有望で実家も太く、しかも見た目は抜群な研究室室長様である。
研究部門に出入りする際、若い社員と話していたときに、彼の噂を度々聞いた。
室長は仕事はできるし信頼もできる。
けれど何を考えてるかわからなくて怖い。
でも顔は最高。
仕事中は誰に対しても鬼だし厳しい。
でも、やはり顔は抜群。
……とにもかくにも、仕事ぶりと容姿に関する評価は間違いなかった。
そんな彼は引く手あまただっただろうに、なぜ“事故物件”ともいえる自分に声をかけたのだろうか。
どうにも腑に落ちず、ノエルは今度こそ、表情にわずかな戸惑いの色を浮かべた。
「勘だ」
「え」
急に、今までの言動からかけ離れた非論理的な言葉を聞かされ、ノエルは一瞬呆気にとられた。
「私は合理的に物事を考えるのを好むが、極稀に自分の勘を頼りにすることがある。
そして、その勘は外れたことがない」
堂々と言い放つ彼に、ノエルの口は開きっぱなしになった。
「以前、開発部に出入りしている君を見かけた」
(あ、やっぱり私のこと、見てたんだ)
たまに彼からの視線を感じることはあったが、
それでこちらに話しかけてくることもなかったので、これまで特に気にも留めていなかった。
「屈託なく部署の人間と笑い合い、やり取りする君は、悪い人じゃない」
サフィールは膝の上で組んでいた手を解き、その手を口元へ運んで呟いた。
「――私の勘が、君にしておけと言った」
「……」
――そんな人、それこそどこにでもいるだろうに。
全くもって解せない。解せないのに、身体がふわりと温かな熱を帯びたのがわかる。
「突然のことで、すぐに返事ができないことはわかっている。
だが、悪い話じゃないはずだ。どうか、考えてくれないだろうか」
このとき、ノエルの胸に迷いはなかった。
(契約結婚なんて、愛のない結婚はしたくない――
でも、それでも。私は自分の勘を信じる。
彼は……たぶん、悪い人ではない)
「わかりました」
ノエルはまっすぐにサフィールを見つめ、そして静かに頭を下げた。
「前向きに、検討させていただきます」
ただのお付き合いではなく、結婚だ。
家にも相談する必要があると思い、返事はひとまず保留にした。
「ああ、よろしく頼む」
――この突然の求婚が、ノエルとサフィールの初対面だった。
それからすぐ、ノエルは実家へ戻り、サフィールから求婚されたこと、そしてその話を前向きに受けるつもりでいることを報告した。
もちろん、人を疑うことを知らない両親は、
「ノエルがいいと思うなら」
と、あっさり快諾してくれた。
反対されないのなら、とノエルはサフィールへ了承の旨を伝え、あれよあれよという間に両家の顔合わせが決まった。
高位貴族であるキングリー家の人々は、末端貴族で借金持ちのノエルに難色を示すだろうと思っていた。
だが実際には、
「浮いた話ひとつない息子に、こんな素敵なお嬢さんが嫁いでくれるなんて」
と、驚くほど好意的だった。
ノエルの両親は、まさかキングリー侯爵家と縁続きになるとは思っていなかったようで、終始たじたじしていた。
そうして、サフィールの気が変わらないうちにというキングリー家の意向もあり、婚約期間を設けることなく、二人の婚姻はすぐに成立した。
(あっという間に、結婚してしまった)
あれよあれよともの凄いスピードで全ての物事が順調に進み、ノエルはどこか他人事のような気分になっていた。
ただ……
二人が交わした約束は、あくまで“契約”結婚だ。
その際、サフィールから提示された条件は次のとおりである。
一、ニュート男爵家の借金を、サフィールが結納金代わりに全額負担すること
二、ノエルの仕事の継続は、彼女の自由にしていいこと
三、子どもに関しては、お互いが望んだ場合にのみ考えること
四、サフィールが仕事で家を不在にしても、ノエルは文句を言わないこと
五、お互いに誠実であること(裏切りや不貞は許されない)
想像していたよりも、条件はずっとまともだった。
ノエルは少し肩透かしを食らった気分になる。
だが、このとき軽く受け止めていた条件が、やがて彼女の心に影を落とすことになるとは、まだ知る由もなかった。
「え、旦那様が劇薬を浴びた……!?」
午後の昼下がり。
特に予定もなく、のんびりとお茶をして過ごしていたところ、我が家の執事アレックスが血相を変えて部屋に飛び込んできた。
息を切らし、ぜえぜえと荒い呼吸をしている。
もう年なんだから、それほど慌てると命に関わるのではないかと、お節介ながら思ってしまう。
アレックスは私の側までおぼつかない足取りで近づいてくると、息も絶え絶えに想像以上に不穏な話を報告した。
「旦那様が勤め先の魔術塔で、不慮の事故で劇薬を浴びて重症です」
「!?」
――劇薬!?
その強い響きから、皮膚をも溶かすような、命に関わる代物を想像し、
手が震えて思わずカップを取り落とした。
慌てて駆け寄ってきた侍女が、カップとこぼれたお茶を片付けるが、
彼女も動揺しているのか、割れた破片を素手で持ってしまい、
「いたっ」と小さく声を上げたのが聞こえた。
……重症ですって!?
もしかして、一生寝たきり?
それとも、目を背けたくなるほど酷い姿になってしまった?
「い、いまの容態は……どうなっているのですか……?」
率直に言って――怖い。
容態なんて聞きたくないのが正直なところだが、胸のざわつきをなんとか抑えて問いかける。
「はい……
先ほど魔術塔の医務室に運ばれて、命に別状はないそうです。
会話も可能らしいのですが――
残念ながら、旦那様のお姿が……元の状態からは、かけ離れたものになってしまったらしく……」
「そんな⋯⋯、なんてこと……!」
今度こそ、叫びそうになってしまった。
夫のいいところといえば、容姿くらいしか、今のところ思い当たらないのに――!
薄情に聞こえるかもしれない。
けれど、それくらいに旦那様の中身を知る機会が、今までなかったのだ。
もちろん、夜の営みなんてものは、もってのほか。
結婚してまだ一ヶ月しか経っていないが、ただの同居人同然のお飾りの妻。
それが、私――ノエル・キングリーだった。
◆
「君、名前はノエルで合っているか?」
「え……?
は、はい」
今日は卸している薬草の納品日。
普段であれば魔術師塔の魔法薬開発部の倉庫に材料の入った箱を持っていき、
事務所に寄って納品処理をしたら終わりだ。
なのに、今日に限って少し残ってほしいと言われ、
事務所の奥にある応接室へと訳がわからないままに通された。
そこにいたのは、納品の際にたまに見かける、いつも仏頂面をしている魔法薬開発部の研究室室長。
名前は……"キングリー室長"と周りから呼ばれている、若手のやり手だ。
彼の不機嫌そうな表情はさておき、とにかく顔が良かった。
遠目から見ても、「あ、なんかイケメンがいるぞ」と気づくくらいに、
ほかの人とは目鼻立ちの作りが違っている。
アッシュブラウンの髪に、青と水色の間のような綺麗な瞳。
長い睫毛に縁取られたそれは今、
値踏みするように、ノエルのことを上から下まで不躾に眺めている。
「突然呼び出して申し訳ない。
私の名前はサフィール・キングリー。
この魔術師塔の研究室で室長をしている」
「あ、はい、存じ上げております」
納品先の責任者だ。
直接会話をしたことはないし、ファーストネームを知ったのも、いまが初めてだが、知らないわけがなかった。
(なんだろう……クレームかな。
でも、ちゃんと品質も問題ないものを卸してるし、数もチェックしてるから、心当たりはないんだけど……)
彼の表情から、良くない話を持ちかけられるのは明白だった。
それゆえ、ノエルの身体は、少しばかり緊張でこわばる。
けれど、視線を逸らすのは失礼だと、彼――サフィールの温度のない顔を見つめた。
「知っているなら話は早い」
サフィールはノエルを射抜かんばかりの視線で見つめ返し、
静かに――爆弾のような内容を告げた。
「私と結婚してほしい」
「……………………!?」
――一瞬、幻聴かと思った。
いや、幻聴だったのかもしれない。
結婚とは、自分が知っている「結婚」とは、意味が違うのかも。
すぐさま頭が混乱し、ノエルは固まった。
しかしサフィールには、ノエルの反応は想定内だったのだろう。
すぐに、矢継ぎ早に尋問に近い質問を重ねてきた。
「君、恋人や婚約者は?」
「え……そんな人、いません」
「年上の男性をどう思う?」
「特になんとも」
「結婚に際して、君の家の借金を肩代わりすると言ったら?」
「……泣いて喜びます」
「君が結婚相手に求めるものは?」
「ええと……
誠実さ、でしょうか」
「じゃあ、私と結婚するのは、悪い条件じゃないと思う。
いかがだろうか?」
「……」
一体、何が起こったというのだろうか。
ほぼ面識のない相手に突然求婚され、
しかも結婚すれば、この目の前の男性が、実家の借金を肩代わりしてくれるというのだ。
(全く意味がわからないけど、私にとっては好都合すぎる)
そう、ノエルの実家であるニュート男爵家は今、
父である男爵のこさえた借金によって困窮していた。
お人好しの男爵は知人に騙され、借金の連帯保証人になり、
とんずらされた挙句、自分とは関係のない借金まで背負わされることになってしまったのだ。
はっきり言って、返せないわけではない。
時間をかけて細々と支払っていけば、返済できる見込みはあった。
ただ、このままでは次期当主となる弟の学費は、確実に払えない。
ノエルがいちばん心を痛めていたのは、ノエルとは歳が離れたまだ幼い弟に、必要な教育を適切な時期に受けさせてあげられないことだった。
そこで、雀の涙ではあるが、
ノエルは男爵領で自生している薬草を、自身の学生時代の友人の伝手で魔術師塔に卸させてもらうことで、
借金の返済を工面していた。
普段はそれに加え、街の薬屋で受付の仕事をしていたりもする。
ノエルは仮にも男爵令嬢ではあるが、今やすっかり労働階級の者として身をやつしていた。
そんな中、突然振って湧いた求婚。
今まで男性に好意を寄せられることはあっても、目の前の借金返済に忙しく、恋人を作る気になれなかった。それが、借金の肩代わりをしてくれる人と結婚できるとか。
――自分にとってはメリットしかない。
(うん、どう考えても、怪しすぎる)
真正面から信じすぎると痛い目に遭う。
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……ですが、私と結婚することで、あなた様にとってのメリットが、まったく見当たりません」
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言い淀むこともなく、すぐに答えを返してくれた。
「怪しむのも無理はない」
ふうっと息をついてから、静かに理由を話し始める。
「……実はいま、私は周りから結婚しろと、口うるさくせっつかれていてな」
ひどく面倒くさそうに言うサフィールは、先ほどよりも人間臭さが滲み出ていた。
その様子に、ノエルはなぜか安堵を覚える。
「実家の侯爵家からは、頭がお花畑か、肉欲しか頭にないご令嬢を送りつけてくるし、
職場からも、今以上の出世を見込むなら家庭を持てと、何人か紹介を受ける始末だ」
――綺麗な所作から貴族の方だとは思ってたけど、侯爵家の方だったのね。
じゃあ、なおさら、どうして末端貴族で借金持ちの私なんかに、声をかけてきたのかしら。
ノエルは、心の中では盛大に眉根を寄せていたが、実際の表情は冷静を貫いた。
「ずっと縁談の類は突っ撥ねてきたんだが、最近、うちの薬品開発の材料となる薬草を卸しているという君の噂を耳にした」
突然、自分の話になり、ノエルは「え」と表情が崩れる。
「借金返済のため健気に働いている男爵家のご令嬢、ノエル・ニュート。
堅実で丁寧な仕事ぶり、そして周囲の人間とも、すぐに打ち解けられる確かな社交性」
彼の澄んだ青い瞳と目が合う。
思いがけない賞賛に、ノエルの心がドキリと跳ねた。
――が、彼の次の言葉によって、一瞬にして現実に引き戻された。
「――契約を持ちかけるには、ぴったりだと思った」
「……」
要は、契約結婚してくれという打診である。
(……まあ、そうよね。
私は見た目がいいわけでもないし、一目惚れなんて、そんなロマンチックなことはないってわかってたけど――)
わかってはいた。
だが、それでも内心でがっかりしている自分がいた。
少し落ち込みを見せるノエルに構わず、サフィールは淡々と説明を続けた。
「私は正直、恋だの愛だのには興味がない。そんなことよりも、仕事に時間を割いていたいと考える人間だ。
ただ、面倒ではあるが、周囲を黙らせるためにも結婚はしておきたい。
対して君は、借金を返済したいと思っている。
私は侯爵家の者だが三男だから、万が一にも家を継ぐことはないし、他の兄弟に比べて自由にやらせてもらっている。だから、身分のことは気にしなくていい。
それに、自分が出世頭であることは間違いないから、苦労はさせない」
どうやら、彼が仕事人間であることは、少ない会話からでもよくわかった。
自分で出世頭と言い切ってしまうほどには、自分の仕事を誇りに思っているのだろう。
別に、そのことは悪くない。働かない人よりも、よほど好ましい。
けれども――
「でも……それだと、私以外にも、いくらでも条件のいい方がいらっしゃったのではないでしょうか」
将来有望で実家も太く、しかも見た目は抜群な研究室室長様である。
研究部門に出入りする際、若い社員と話していたときに、彼の噂を度々聞いた。
室長は仕事はできるし信頼もできる。
けれど何を考えてるかわからなくて怖い。
でも顔は最高。
仕事中は誰に対しても鬼だし厳しい。
でも、やはり顔は抜群。
……とにもかくにも、仕事ぶりと容姿に関する評価は間違いなかった。
そんな彼は引く手あまただっただろうに、なぜ“事故物件”ともいえる自分に声をかけたのだろうか。
どうにも腑に落ちず、ノエルは今度こそ、表情にわずかな戸惑いの色を浮かべた。
「勘だ」
「え」
急に、今までの言動からかけ離れた非論理的な言葉を聞かされ、ノエルは一瞬呆気にとられた。
「私は合理的に物事を考えるのを好むが、極稀に自分の勘を頼りにすることがある。
そして、その勘は外れたことがない」
堂々と言い放つ彼に、ノエルの口は開きっぱなしになった。
「以前、開発部に出入りしている君を見かけた」
(あ、やっぱり私のこと、見てたんだ)
たまに彼からの視線を感じることはあったが、
それでこちらに話しかけてくることもなかったので、これまで特に気にも留めていなかった。
「屈託なく部署の人間と笑い合い、やり取りする君は、悪い人じゃない」
サフィールは膝の上で組んでいた手を解き、その手を口元へ運んで呟いた。
「――私の勘が、君にしておけと言った」
「……」
――そんな人、それこそどこにでもいるだろうに。
全くもって解せない。解せないのに、身体がふわりと温かな熱を帯びたのがわかる。
「突然のことで、すぐに返事ができないことはわかっている。
だが、悪い話じゃないはずだ。どうか、考えてくれないだろうか」
このとき、ノエルの胸に迷いはなかった。
(契約結婚なんて、愛のない結婚はしたくない――
でも、それでも。私は自分の勘を信じる。
彼は……たぶん、悪い人ではない)
「わかりました」
ノエルはまっすぐにサフィールを見つめ、そして静かに頭を下げた。
「前向きに、検討させていただきます」
ただのお付き合いではなく、結婚だ。
家にも相談する必要があると思い、返事はひとまず保留にした。
「ああ、よろしく頼む」
――この突然の求婚が、ノエルとサフィールの初対面だった。
それからすぐ、ノエルは実家へ戻り、サフィールから求婚されたこと、そしてその話を前向きに受けるつもりでいることを報告した。
もちろん、人を疑うことを知らない両親は、
「ノエルがいいと思うなら」
と、あっさり快諾してくれた。
反対されないのなら、とノエルはサフィールへ了承の旨を伝え、あれよあれよという間に両家の顔合わせが決まった。
高位貴族であるキングリー家の人々は、末端貴族で借金持ちのノエルに難色を示すだろうと思っていた。
だが実際には、
「浮いた話ひとつない息子に、こんな素敵なお嬢さんが嫁いでくれるなんて」
と、驚くほど好意的だった。
ノエルの両親は、まさかキングリー侯爵家と縁続きになるとは思っていなかったようで、終始たじたじしていた。
そうして、サフィールの気が変わらないうちにというキングリー家の意向もあり、婚約期間を設けることなく、二人の婚姻はすぐに成立した。
(あっという間に、結婚してしまった)
あれよあれよともの凄いスピードで全ての物事が順調に進み、ノエルはどこか他人事のような気分になっていた。
ただ……
二人が交わした約束は、あくまで“契約”結婚だ。
その際、サフィールから提示された条件は次のとおりである。
一、ニュート男爵家の借金を、サフィールが結納金代わりに全額負担すること
二、ノエルの仕事の継続は、彼女の自由にしていいこと
三、子どもに関しては、お互いが望んだ場合にのみ考えること
四、サフィールが仕事で家を不在にしても、ノエルは文句を言わないこと
五、お互いに誠実であること(裏切りや不貞は許されない)
想像していたよりも、条件はずっとまともだった。
ノエルは少し肩透かしを食らった気分になる。
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平民薬師・クララは国境沿いの深い山奥で暮らしながら、魔法薬の研究に没頭している。招集が下れば山を下りて麓にある病院や娼館で診察補助をしたりしているが、世間知らずなのに変わりはない。
ある日、山の中で倒れている男性を発見。彼はなんと騎士団長・レイルドで女嫌いの噂を持つ人物だった。
当然女嫌いの噂なんて知らないクララは良心に従い彼を助け、治療を施す。
だが、レイルドには隠している秘密……性癖があった。
――君の××××、触らせてもらえないだろうか?
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