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一章
2.ノエル、夫を自室へ拉致する
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◆
「今日も、ですか」
「はい。今日も旦那様は、職場に泊まられるそうです」
「……わかりました」
サフィールのもとへ嫁いで、早くも一か月。
夫の姿を屋敷で見たのは、片手で数えられるほどだった。
管理職でありながら研究者気質の彼は、自ら率先して働くタイプで、仕事に没頭するあまり職場に仮眠室まで作っているほどだ。
そのため屋敷に戻ることはほとんどなく、戻ってきたとしても寝室は別々――子どもは、まだ作らない約束だからだ。
帰宅したことすら知らぬまま朝を迎えることもあれば、彼が朝早く出勤してしまい、結局顔を合わせられない日も珍しくなかった。
ノエルは借金を肩代わりしてもらったため、生活のために働く必要はなくなった。
それでも、夫にほとんど構ってもらえず手持ち無沙汰で、週に二回と日数を減らしたうえで、街の薬屋の仕事を続けている。
しかも、結婚式は未だに挙げていない。
籍は入れたものの、彼が仕事を休めないため、落ち着いてからにしようという話になっていた。
生活に不自由はしていなかった。
サフィールは爵位こそ継がないものの稼ぎがよく、仕事一筋でこれまでお金を使う機会もなかったらしく、かなりの蓄えがあった。
それに加え、さすがは侯爵家育ちというべきか、屋敷の管理や身の回りの世話はすべて使用人に任せており、複数人を雇っていた。
そのため、ノエルが家事に追われることはなかった。
使用人たちは皆ノエルに優しく、屋敷での暮らしは快適だった。
また、顔合わせの際に会ったキングリー侯爵家の人々も、真面目で明るいノエルに好意的で、義実家との関係にも問題はなかった。
一見すると、申し分のない結婚生活だった。
――夫との関係が希薄であることを除けば、だが。
(契約結婚だとわかっていたけれど……
一生、こんなふうに過ごすのかな……)
お飾りの妻としての同居人。
いつしかノエルは、自分のことをそう呼ぶようになっていた。
その響きが胸に落ちるたび、言いようのない虚しさが広がっていくのだった。
◇
……そんな中、夫が重体だという知らせが届いた。
もちろん心配はする。
だがそれ以上に、この先どうなるのかという不安の方が、正直なところ強かった。
(劇薬を浴びたということだけど……見た目が悪くなっても、働けるのかしら?
いえ、きっと療養が必要よね。
心にも傷を負っているはずだし……私が、しっかり養ってあげないと)
ノエルは悲観するよりも、これからどうやって生計を立てていくかへと、意識を強引に切り替えた。
そのとき、再びアレックスが慌てた様子で告げた。
「それで、旦那様はすでに職場を後にし、屋敷へ向かっているそうで……」
「えっ!? 重篤なのに、病院ではなく、こちらへ向かっているのですか?」
「は、はい……」
アレックスは額に浮かんだ汗を必死に手拭いで拭うが、追いついていない。
使用人たちもサフィールの知らせに動揺し、屋敷の空気は一気に騒がしくなった。
「み、みんな落ち着いて!
とりあえず、旦那様の寝室を優先して整えて、迎え入れる準備をしましょう。
私は玄関前で、旦那様の到着を待ちます」
なるべく気丈に振る舞ったつもりだったが、体の震えで足元がふらついた。
「お、奥様、こちらにお掛けください」
古参の侍女であるマーラが椅子を持ってきてくれたので、ノエルは「ありがとう」と礼を言って腰を下ろす。
アレックスとは違い、ノエルの額からは汗が引き、代わりに血の気がすうっと引いていった。
(落ち着いて――どんな姿になっていようと、ちゃんと出迎えて、受け入れてあげなきゃ)
屋敷内に、ぴんと張り詰めた緊張が走る。
皆が玄関前でサフィールの到着を固唾をのんで待つ中、遠くの道の向こうに、こちらへ向かってくる馬車の姿が小さく見えた。
「我が家の馬車よ!」
ノエルの声に、使用人たちがずらりと並び、すぐにでも彼を介抱できるよう身構える。
ノエルもまた、何度も深呼吸を繰り返した。
やがて玄関前で馬車が停まり、御者が扉を開ける。
ゴクリ。
(命に別状はなく、会話も可能……
馬車も、いつものもの。
ということは、自力で歩けるのかしら?)
そして――
中から、小さな影が降りてきた。
降りる際、御者に抱きかかえられ、そのまま地面へと降ろされる。
ノエルを含め、皆がその“小さなもの”へと視線を集めると同時に、息をのんだ。
御者はというと、そのまま扉を閉めてしまう。
――あれ、旦那様は乗っていなかったの?
一堂の心の声が、ぴたりと重なる。
しかし次の瞬間、全員の度肝が抜かれることになる。
「……ただいま。
主人の帰宅に、屋敷の一堂が揃うとは、錚々たるお出迎えだな」
小さなもの――
外套のような布を全身にまとった幼子が、その姿に似つかわしくない口調で口を開いた。
ノエルの目の前にいるのは、ひとりの幼子。
巻き毛の金髪に青い瞳。
ただ一点、不機嫌そうな表情を除けば、天使と見まがうばかりの容姿をしている。
ノエルは、その姿から目を離すことができなかった。
声も出ず、完全に固まってしまう。
それは使用人たちも同様で、
ただ一人、老齢の執事であるアレックスだけが幼子のもとへ駆け寄り、
「なんと……“サフィール坊っちゃん”の姿を、またこの目にできるとは……」
と、驚きと感極まった様子で、静かに呟いた。
アレックスの言葉で、ようやく皆が我に返る。
それはノエルも同様だった。
(え、この小さな男の子が……旦那様?)
「……坊っちゃんはやめろ」
確かに大きさは決定的に違うが、眉間に皺を寄せるその表情は、紛れもなくサフィールそのものだった。
困惑する一同を代表して、ノエルは夫らしき“子ども”におずおずと問いかける。
「あ、あの……劇薬を浴びたとお伺いしたのですが……
その……本当に、旦那様で合っていますか?」
半信半疑のまま口にしたせいで、問いかけは終始、疑問形になってしまう。
ノエルの問いに、幼子は小さくうなずき、
「ああ。私だ」
と短く肯定を返した。
「……ッ」
ノエルも使用人たちも、全員が息を飲む。
確かに、旦那様は「元の姿とはかけ離れた姿」になっている。
(あ、そっち……?)と皆が思ったのは、言うまでもない。
だが、生きている。
無事に帰ってきたのだ。
そこから、一気に緊張が解ける。
「ああ、良かった」と肩を抱き合い、無事を喜ぶ使用人たち。
こんな非現実的な事態が起こっているにもかかわらず、である。
しかし――ノエルだけは、依然として固まったままだった。
やがて、わなわなと震えはじめ、
「な、なんですか、そのピンクのほっぺは……」
と、思わず零してしまう始末である。
そして――冒頭に戻る。
ノエルは逃げようとするサフィールを、いとも簡単に捕まえ、両手で抱え上げた。
このときの彼女の表情は、結婚してから一番と言っていいくらい、生き生きとしていた。
「おい、降ろしてくれ!」
「はいはい、運んであげますからねー」
サフィールは抵抗するようにぽかぽかと叩いてくるが、ノエルにはまるで効いていない。
あらあら、ご機嫌斜めですか? とでも言わんばかりの慣れた手つきでいなす。
「誰か、急いで今の旦那様に合うお召し物を、下着も含めて十着ほど手配してちょうだい。まだ昼過ぎだから、お店も空いているでしょう」
「かしこまりました!」
使用人たちが慌ただしく動き出す。
「いや、私はすぐに元の姿に戻る算段でいる。だから新しいものを揃える必要は……」
「何を言ってらっしゃるんですか!?」
突然、ノエルの声が張り上がった。
思わぬ剣幕に、サフィールは思わずきょとんとした顔で見上げる。
「あなたは……ご自分の価値を、まるでわかっていない!」
ノエルの目が血走る。
そしてサフィールを抱いたまま、使用人たちの方をぐるりと振り返った。
「ねえ、みんな、そう思うでしょう!?」
同意を求められた使用人たちは、もはや反射的にノエルの味方だ。
全員でうんうんと頷き返した。
「価値って……」
「あなたは、元の姿に戻る前に、存分に色んなお召し物で、私の――私たちの目を楽しませないといけないんです!」
「待て、なぜそんな必要があるんだ」
サフィールのもっともな問いに、ノエルは答えない。
その代わり、使用人たちに向かって宣言した。
「私は、旦那様と少しお話をします。皆、私が出てくるまで、部屋には入ってこないように」
威厳ある女主人のように、ぴしゃりと言い放つ。
だが、その顔は赤く、口元はだらしなく緩んでいた。
(うん、気持ち、わかります)
使用人たちの心の声が、見事に一致する。
そうしてノエルは、嫌がるサフィールを華麗にスルーし、自分の自室へ“拉致”することに成功したのだった。
「今日も、ですか」
「はい。今日も旦那様は、職場に泊まられるそうです」
「……わかりました」
サフィールのもとへ嫁いで、早くも一か月。
夫の姿を屋敷で見たのは、片手で数えられるほどだった。
管理職でありながら研究者気質の彼は、自ら率先して働くタイプで、仕事に没頭するあまり職場に仮眠室まで作っているほどだ。
そのため屋敷に戻ることはほとんどなく、戻ってきたとしても寝室は別々――子どもは、まだ作らない約束だからだ。
帰宅したことすら知らぬまま朝を迎えることもあれば、彼が朝早く出勤してしまい、結局顔を合わせられない日も珍しくなかった。
ノエルは借金を肩代わりしてもらったため、生活のために働く必要はなくなった。
それでも、夫にほとんど構ってもらえず手持ち無沙汰で、週に二回と日数を減らしたうえで、街の薬屋の仕事を続けている。
しかも、結婚式は未だに挙げていない。
籍は入れたものの、彼が仕事を休めないため、落ち着いてからにしようという話になっていた。
生活に不自由はしていなかった。
サフィールは爵位こそ継がないものの稼ぎがよく、仕事一筋でこれまでお金を使う機会もなかったらしく、かなりの蓄えがあった。
それに加え、さすがは侯爵家育ちというべきか、屋敷の管理や身の回りの世話はすべて使用人に任せており、複数人を雇っていた。
そのため、ノエルが家事に追われることはなかった。
使用人たちは皆ノエルに優しく、屋敷での暮らしは快適だった。
また、顔合わせの際に会ったキングリー侯爵家の人々も、真面目で明るいノエルに好意的で、義実家との関係にも問題はなかった。
一見すると、申し分のない結婚生活だった。
――夫との関係が希薄であることを除けば、だが。
(契約結婚だとわかっていたけれど……
一生、こんなふうに過ごすのかな……)
お飾りの妻としての同居人。
いつしかノエルは、自分のことをそう呼ぶようになっていた。
その響きが胸に落ちるたび、言いようのない虚しさが広がっていくのだった。
◇
……そんな中、夫が重体だという知らせが届いた。
もちろん心配はする。
だがそれ以上に、この先どうなるのかという不安の方が、正直なところ強かった。
(劇薬を浴びたということだけど……見た目が悪くなっても、働けるのかしら?
いえ、きっと療養が必要よね。
心にも傷を負っているはずだし……私が、しっかり養ってあげないと)
ノエルは悲観するよりも、これからどうやって生計を立てていくかへと、意識を強引に切り替えた。
そのとき、再びアレックスが慌てた様子で告げた。
「それで、旦那様はすでに職場を後にし、屋敷へ向かっているそうで……」
「えっ!? 重篤なのに、病院ではなく、こちらへ向かっているのですか?」
「は、はい……」
アレックスは額に浮かんだ汗を必死に手拭いで拭うが、追いついていない。
使用人たちもサフィールの知らせに動揺し、屋敷の空気は一気に騒がしくなった。
「み、みんな落ち着いて!
とりあえず、旦那様の寝室を優先して整えて、迎え入れる準備をしましょう。
私は玄関前で、旦那様の到着を待ちます」
なるべく気丈に振る舞ったつもりだったが、体の震えで足元がふらついた。
「お、奥様、こちらにお掛けください」
古参の侍女であるマーラが椅子を持ってきてくれたので、ノエルは「ありがとう」と礼を言って腰を下ろす。
アレックスとは違い、ノエルの額からは汗が引き、代わりに血の気がすうっと引いていった。
(落ち着いて――どんな姿になっていようと、ちゃんと出迎えて、受け入れてあげなきゃ)
屋敷内に、ぴんと張り詰めた緊張が走る。
皆が玄関前でサフィールの到着を固唾をのんで待つ中、遠くの道の向こうに、こちらへ向かってくる馬車の姿が小さく見えた。
「我が家の馬車よ!」
ノエルの声に、使用人たちがずらりと並び、すぐにでも彼を介抱できるよう身構える。
ノエルもまた、何度も深呼吸を繰り返した。
やがて玄関前で馬車が停まり、御者が扉を開ける。
ゴクリ。
(命に別状はなく、会話も可能……
馬車も、いつものもの。
ということは、自力で歩けるのかしら?)
そして――
中から、小さな影が降りてきた。
降りる際、御者に抱きかかえられ、そのまま地面へと降ろされる。
ノエルを含め、皆がその“小さなもの”へと視線を集めると同時に、息をのんだ。
御者はというと、そのまま扉を閉めてしまう。
――あれ、旦那様は乗っていなかったの?
一堂の心の声が、ぴたりと重なる。
しかし次の瞬間、全員の度肝が抜かれることになる。
「……ただいま。
主人の帰宅に、屋敷の一堂が揃うとは、錚々たるお出迎えだな」
小さなもの――
外套のような布を全身にまとった幼子が、その姿に似つかわしくない口調で口を開いた。
ノエルの目の前にいるのは、ひとりの幼子。
巻き毛の金髪に青い瞳。
ただ一点、不機嫌そうな表情を除けば、天使と見まがうばかりの容姿をしている。
ノエルは、その姿から目を離すことができなかった。
声も出ず、完全に固まってしまう。
それは使用人たちも同様で、
ただ一人、老齢の執事であるアレックスだけが幼子のもとへ駆け寄り、
「なんと……“サフィール坊っちゃん”の姿を、またこの目にできるとは……」
と、驚きと感極まった様子で、静かに呟いた。
アレックスの言葉で、ようやく皆が我に返る。
それはノエルも同様だった。
(え、この小さな男の子が……旦那様?)
「……坊っちゃんはやめろ」
確かに大きさは決定的に違うが、眉間に皺を寄せるその表情は、紛れもなくサフィールそのものだった。
困惑する一同を代表して、ノエルは夫らしき“子ども”におずおずと問いかける。
「あ、あの……劇薬を浴びたとお伺いしたのですが……
その……本当に、旦那様で合っていますか?」
半信半疑のまま口にしたせいで、問いかけは終始、疑問形になってしまう。
ノエルの問いに、幼子は小さくうなずき、
「ああ。私だ」
と短く肯定を返した。
「……ッ」
ノエルも使用人たちも、全員が息を飲む。
確かに、旦那様は「元の姿とはかけ離れた姿」になっている。
(あ、そっち……?)と皆が思ったのは、言うまでもない。
だが、生きている。
無事に帰ってきたのだ。
そこから、一気に緊張が解ける。
「ああ、良かった」と肩を抱き合い、無事を喜ぶ使用人たち。
こんな非現実的な事態が起こっているにもかかわらず、である。
しかし――ノエルだけは、依然として固まったままだった。
やがて、わなわなと震えはじめ、
「な、なんですか、そのピンクのほっぺは……」
と、思わず零してしまう始末である。
そして――冒頭に戻る。
ノエルは逃げようとするサフィールを、いとも簡単に捕まえ、両手で抱え上げた。
このときの彼女の表情は、結婚してから一番と言っていいくらい、生き生きとしていた。
「おい、降ろしてくれ!」
「はいはい、運んであげますからねー」
サフィールは抵抗するようにぽかぽかと叩いてくるが、ノエルにはまるで効いていない。
あらあら、ご機嫌斜めですか? とでも言わんばかりの慣れた手つきでいなす。
「誰か、急いで今の旦那様に合うお召し物を、下着も含めて十着ほど手配してちょうだい。まだ昼過ぎだから、お店も空いているでしょう」
「かしこまりました!」
使用人たちが慌ただしく動き出す。
「いや、私はすぐに元の姿に戻る算段でいる。だから新しいものを揃える必要は……」
「何を言ってらっしゃるんですか!?」
突然、ノエルの声が張り上がった。
思わぬ剣幕に、サフィールは思わずきょとんとした顔で見上げる。
「あなたは……ご自分の価値を、まるでわかっていない!」
ノエルの目が血走る。
そしてサフィールを抱いたまま、使用人たちの方をぐるりと振り返った。
「ねえ、みんな、そう思うでしょう!?」
同意を求められた使用人たちは、もはや反射的にノエルの味方だ。
全員でうんうんと頷き返した。
「価値って……」
「あなたは、元の姿に戻る前に、存分に色んなお召し物で、私の――私たちの目を楽しませないといけないんです!」
「待て、なぜそんな必要があるんだ」
サフィールのもっともな問いに、ノエルは答えない。
その代わり、使用人たちに向かって宣言した。
「私は、旦那様と少しお話をします。皆、私が出てくるまで、部屋には入ってこないように」
威厳ある女主人のように、ぴしゃりと言い放つ。
だが、その顔は赤く、口元はだらしなく緩んでいた。
(うん、気持ち、わかります)
使用人たちの心の声が、見事に一致する。
そうしてノエルは、嫌がるサフィールを華麗にスルーし、自分の自室へ“拉致”することに成功したのだった。
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