ことばの繋ぎ手

武内れい

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第一章:見えないひずみ

16、線の向こうに(後半)

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 あおいはしばらく、その場を動けずにいた。
 先ほどまで存在していた駅員も模様も、今や跡形あとかたもなく、まるで幻だったかのように風景から消えていた。だが、自分の目が確かに見た光景が、胸の奥に重たく沈んでいる。

 彼は足音をできるだけ小さくして、そっと通路を戻った。
 まだ心臓の鼓動こどうは早く、胸に残る震えを押さえきれない。
(なんだったんだ、あれ……)
 言葉には出さず、心の中で何度も自問じもんした。

 通い慣れた駅。
 毎朝、決まった時間に到着し、決まったホームで電車を待つ。
 いつも変わらないアナウンス、同じ位置に立っている駅員、同じ足元の黄色い線。
 それらすべてが、ただの日常だと信じていた。

 けれど、あの線の下に――
 あの言葉のような模様の下に、何かがあるのだとしたら。

 蒼は駅のホームを見渡す。
 もう誰もいない深夜の構内に、風が静かに吹き抜ける。
 彼の目は、自然と足元へと向かう。
 黄色い線のふち、その数センチ外側に、ほんのかすかに白い粉の残滓ざんしが見えた。
 それは模様の名残か、あるいはただの汚れか。
 けれど、彼にはそれがまぎれもなく跡だと感じられた。

 そっとポケットからスマートフォンを取り出し、残された線の一部を写真に収める。
 ぶれた画面の中に、ただの舗装ほそうされた地面が写るだけだが、それでも記録しておきたかった。
 なぜなら、この瞬間から、彼の中にひとつの疑問が芽生えてしまったからだ。

(どうしてあんな模様を、駅員が描いているんだ?)

 彼は鉄道が好きだ。
 路線図や駅の構造、時刻表じこくひょうを眺めるのも飽きなかった。
 だからこそ、今朝聞いた放送の異音いおんや、改札口近くの注意書きの違和感いわかんが、ただの気のせいではないことを、無意識のうちに感じ取っていた。

 今日見たこと――それが、それらのズレとつながっているような気がしてならなかった。

 蒼はホームを離れ、駅の外に出た。
 夜の街は冷たい空気に包まれていて、自販機の白い光がやけにまぶしく感じられる。
 遠くでタクシーが走り去る音。
 カラスの鳴き声が、一瞬、電線の向こうから聞こえてきたように思えた。

 帰り道、彼はいつものように自宅の最寄りの踏切を渡った。
 赤と白の警告灯けいこくとうが点滅し、遮断機しゃだんきの音がカンカンと響く。
 そのリズムすら、今はどこか意味を持っているように感じる。

(もしかして、この音にも、何か……)

 蒼は自分の思考に戸惑とまどい、首を振って打ち消した。
 だが一度芽生えた疑念ぎねんは、頭から離れない。

 家に帰り、自室にこもると、すぐにノートを開いた。
 見た模様を思い出しながら、ペンでなぞるように書き留める。
 交差する線、円、そしてその周囲に連なるように並んでいた、小さな点や波のような記号。

(どこかで、見たことがある気がする……)

 彼は棚から路線図のファイルを取り出した。
 地方鉄道の駅案内や、古い地下鉄の駅舎図面えきしゃずめん、記念スタンプの絵柄まで収めた自作の資料帳。
 その中をめくるうち、ふと手が止まった。

 旧式の配線図はいせんず
 昭和時代の駅構内の配置図はいちずに、奇妙な記号が書き込まれている。

 それは今日、駅員が描いていた模様と、酷似こくじしていた。
 ただの設計上のマークにしては、装飾そうしょくが多く、明らかに記号としての意図を持っていた。

(これ……もしかして、昔からあった?)

 蒼の中で、静かに世界が反転はんてんする音がした。
 自分が好きだったもの――鉄道や駅、路線図や運行表。
 それらが、ただの情報ではなく、何かを保つための秩序ちつじょだったとしたら。
 そう思うと、胸の奥がひりつくようなざわめき・・・・・で満ちていく。

 次の朝、彼は学校へ向かう電車の中でも、ぼんやりと足元を見つめ続けた。
 プラットフォームの黄色い線。そのすぐ内側。
 それが境界線きょうかいせんであるかのように、意味を持ち始めていた。

 だが、誰にも話すことはできなかった。
 口に出した瞬間、すべてが壊れてしまいそうな気がした。

 それでも――彼は決して目をそらさなかった。
 次に、その模様を見かける日まで、蒼の心は、静かな覚悟かくごのようなものを育て始めていた。

 その線の向こうにあるものを、知るために。

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