ことばの繋ぎ手

武内れい

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第一章:見えないひずみ

17、音なき呼び声(前半)

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 春を迎えて間もない町は、陽だまりに光の粒を抱え、ゆっくりと揺れているようだった。
 それぞれの日常は、どこか少しだけきしみをはらみながら、それでも表面上は穏やかに過ぎていく。

 だが――その表面の奥で、何かが静かにずれ始めていた。


 ■ 神宮寺じんぐうじこころ ― 神社の庭、午後

 木々の枝がまだ柔らかな新芽を抱き、境内けいだいの風はやわらかな土の匂いを運んでいた。
 こころはほうきを手に、石畳の隅に溜まった落ち葉を集めていた。

 葉の一枚一枚が重なって、まるで何かを隠しているように見えた。
 ふと、手水舎ちょうずやの水音が、妙に間延まのびして響いた気がする。
「……あれ?」

 柄杓ひしゃくを戻す音が、ほんの一拍、遅れて聞こえる。
 それは、まるで誰かが音を真似て、あとから重ねているかのような、そんな不気味さだった。

 周囲を見渡すも、祖父の姿はない。
 祝詞のりとの声も聞こえない。
 境内に、鳥の鳴き声すらしないのは、気のせいだろうか。

 こころは息を吸い込み、静かに吐いた。
 視線を、神楽殿かぐらでんの奥にある石碑へ向ける。

 その石の表面に刻まれた文字が、ほんの少しだけ――昨日より薄れている気がした。

 風が、ゆるく木の枝を揺らし、落ち葉が一枚、こころの肩に落ちてきた。
 その葉は、何かの記号のような形に裂けていた。
「……ただの、葉っぱ、だよね……?」

 自分にそう言い聞かせながらも、胸の奥に、ざわりと波紋のような感情が広がっていく。


 ■ 中村蒼なかむらあおい ― 駅のホーム、昼下がり

 蒼は、路線図の前で立ち止まっていた。
 通い慣れたこの駅の、何も変わらない構図。
 だが今日は、掲示板の文字が違って見えた。

 いや、文字そのものは同じだ。
 けれど、文字の隙間から、何か意味ではないものが滲んでいるような気がする。
(見えない何かが……)

 声には出さなかったが、その思考は確かに輪郭を持ち始めていた。

 近くのベンチに腰かけると、電光掲示板の点滅が一瞬、空白になった。
〈次は――〉と表示されるはずの案内が、わずかに揺らいだのだ。
 それを目にしたのは、自分だけのようだった。

 蒼は足元を見下ろす。
 黄色い線の外側。
 先日見た模様の、わずかな跡が、今日もまだ残っている気がした。

 手のひらが汗ばんでいることに気づく。
(……おかしい。絶対、何かがおかしい。)

 誰にも言えない。
 でも、誰かに伝えたい。
 そんな感情が、喉の奥で小さく息を詰まらせていた。


 ■ 安藤あんどうみなみ ― カフェの奥、午後三時

 ガラス窓から差し込む陽が、テーブルの木目もくめをやわらかく照らしていた。
 カップの中のコーヒーが湯気を立て、店内には微かに焙煎豆ばいせんまめの香りが漂う。

 みなみはレジ横の黒板に目をやった。
 チョークで書かれた今日のメニューと、母が毎朝書く短いポエム。

〈ひとつ、ことばを置いていく。そのことばが、明日を守る。〉

 その一文が、妙に胸に引っかかった。
 まるで、自分の今を読まれているような気がしたのだ。

 その時、奥の棚で、小さな金属のチャームがカランと落ちた。
 誰にも触られていないはずの飾り。
 みなみは思わず立ち上がったが、棚の中は静かで、風もない。

(今の、なに……?)

 常連の客がドアを開けて入ってきた。
「こんにちは、いつものお願いね。」
 その声も、昨日と微妙に違って聞こえた。

 声のトーン。言い回し。語尾の調子。
(決まった言葉が違うと、こんなに空気が変わるんだ……)

 その小さなずれに、みなみは言い知れぬ不安を覚えながら、レジに立ち戻った。


 ■ 伊集院春いじゅういんはる ― 花屋の冷蔵ケース前、夕刻

 閉店作業を始めようとしていた春は、ふと花の並びに目を留めた。
 昨日、自分で変えたはずの花の順番が――今朝と違っていた。

「……おかしいな……」

 指先で茎をなぞりながら、一輪ずつ確認する。
 そのうちの一本、ガーベラが、目に見えてしおれていた。
 水も充分に与え、温度も保っていたのに。

 花瓶の下に置かれた花言葉カードには〈希望〉と書かれていた。
 だが、その文字すら、にじんでいるように見えた。

(花の声が……乱れてる?)

 小さな音が耳の奥で鳴るような感覚。
 いつもはすっと入ってくる気配が、どこか引っかかる。

 店内の隅に飾っていたドライフラワーが、わずかに風もないのに揺れた。
「……誰か、来てたのかな……」

 春はそっと、花の向きを元に戻し、もう一度カードを正した。
 でも、その手のひらに感じた花の温度は、明らかにいつもと違っていた。


 ■ 堀内叶多ほりうちかなた ― テーマパーク外周のベンチ、夕暮れ

 パレードの終わったテーマパークから、人々が三々五々さんさんごごと出てくる。
 叶多は入り口の外、いつものベンチに座りながら、それを見送っていた。

 パーク内の音楽が、いつもよりゆっくりに聞こえる気がした。
 耳の中に水が入ったような感覚。音がねじれて、遠くなる。

 ゲート付近に立つキャストの一人が、笑顔のまま「またのお越しを」と言いかけ、言葉をんだ。
 ほんの一瞬の言い間違い。
 でもその途端、場の空気がざらりと変わったのだ。

 すると、通り過ぎる来園者の中に、ひときわ背の高い、顔の見えない誰かがいた。
 フードを目深まぶかにかぶり、うつむいたまま、音もなく歩いていく。

「……なに、今の……?」

 叶多は思わず立ち上がったが、もうその人影は見当たらなかった。
 夕焼けの空が、妙に深い紫色に染まり始めていた。

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