ことばの繋ぎ手

武内れい

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第一章:見えないひずみ

20、裂け目の静音(後半)

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 その夜、街の静寂しじままぎれるようにして、目に見えないほころびが音もなく広がっていた。誰にも気づかれぬままに。
 それは形なき亀裂きれつのように、日常の裏側に静かにみ込み、子どもたちの心に影を落としてゆく。

 神宮寺じんぐうじこはるは、神社の縁側えんがわに膝を抱えて座っていた。部屋のあかりはすでに落とされていて、障子越しに差し込む月明かりだけが、白い和紙にあわにじんでいる。
 ひざの上に広げた巻物の端から、乾いた紙のささくれがかすかに指に当たった。そこに、誰かが爪で刻んだような細い線が走っているのを見つける。
 前にはなかったはずのあと。それを見つめたとたん、耳の奥にかすかな違和感が走った。音ではない。それでもたしかに、何かが鼓膜こまくの裏側でざわめいている。
 意味のないはずの模様が、今夜はどこかで語りかけてくるようだった。

 そのころ、中村なかむらあおいは、ふとんの中で目をつむりながらも眠れずにいた。閉じたまぶたの裏を、駅の構内で聞いたあの奇妙なノイズが何度もよぎる。
 雑音のはずが、頭の中では意味をびて響いてくる。「さけめ……」という、かすれた声のような響き。それは音ではなく、思考の裏側に浮かび上がる言葉の形だった。
 彼は思わず目を開き、毛布の中で手を握りしめる。あの駅の黄色い安全線。途切れたその端が、まぶたの裏にくっきりと浮かび上がっていた。

 安藤あんどうみなみは、カフェの奥、厨房ちゅうぼう片隅かたすみで母と並んで座っていた。閉店後の静けさの中、母がふと声をかける。
「ねえ、みなみちゃん」……だが、その声はうまく耳に届かなかった。代わりに、入口のベルが誰もいないのに鳴ったような錯覚さっかくを覚えた。背中をひやりと風がでていく。誰かが来た気がした。
 カフェスペースをのぞくと、レジ横の黒板が目に入った。確かに掃除して消したはずのそれに、見覚えのない詩の断片だんぺんが再び書かれていた。
 〈声なき夜に、言葉は割れる〉
 まるで、誰かが今この瞬間もチョークを握って書き続けているような錯覚に包まれた。

 伊集院春いじゅういんはるは、花屋の閉店作業を終えて二階の自室に戻っていた。書きかけのノートを開くと、日中に記録した花言葉のページが目に留まった。
 春の調和を象徴する花の並び――その文字が、どこかにじんでいる。いや、滲んでいるのではない。線がねじれているのだ。文字の曲線がとげのようにとがり、まるで別の意味を生み出そうとしている。
 ページの中央に、赤いインクのような点がひとつだけ滲んでいた。ふと、窓の外で風鈴が鳴った。鳴るはずのない季節、そして時間。風が止んでいたにもかかわらず、それは一度だけ、かすかに音を立てた。

 堀内叶多ほりうちかなたは、秘密基地にしている高台の階段に腰かけていた。夜のパークはあかりだけが遠くにまたたき、観覧車が静かに回っている。
 音はないはずなのに、耳の奥でパレードのメロディがまだ響いている気がした。「いらっしゃいませ……」という誰かのささやきが、脳の中でこだまする。あのキャストの決まり文句にそっくりな声だ。
 でも、今夜のそれはどこか中身が抜けている。言葉のかたちだけが空っぽのまま、空気の中でくるくると渦巻うずまいていた。

 観覧車の下。そこにひとつの影があった。動かない。人の形にも見えるが、輪郭りんかくにじんでいた。それは光の残像ざんぞうではなかった。まるで、記号のように不自然な存在がそこに立っているように見えた。

 誰も知らないところで、何かが始まっている。
 言葉の綻び、音のひずみ、光の乱れ、花の変化。
 それぞれの感覚が、異なる方向から同じ歪みに触れていた。

 五人の子どもたちは、まだ互いを知らない。
 けれど、それぞれの夜に起きたかすかな違和感は、
 まるで目に見えない糸で結ばれるかのように、ゆっくりと収束しゅうそくし始めていた。

「見えないものが、ある」
「聞こえないはずの声が、届いてくる」
「世界が、少しずつ、綻びはじめている」

 日常のすぐ裏側にある裂け目は、もう確かに開き始めていた。
 それに気づくのは、感覚のするどい者だけ。
 そして――この五人の子どもたちだった。

 やがて、彼らの線は交わる。
 それが出会いか、試練しれんか、災厄さいやく序章じょしょうかは、まだ誰にもわからない。

 ただひとつ確かなのは、
 この夜の静けさが何かの前触まえぶれだということだけだった。
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