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第五章
(39)黒い犬と犯人
しおりを挟む「……セレイス様……」
整った顔を見上げながら、私は思わずつぶやく。セレイス様はとても優しそうに……とても嬉しそうに笑った。
幸せそのもののようにうっとりと笑い、でも目だけはただひたすら黒くて無表情なままに見えた。
その黒い目が、ふと動いた。
セレイス様の足元に向いている。それでやっと、黒い犬が一緒に入ってきていたことに気が付いた。
まるでセレイス様の目のように黒い犬は、私を見て笑った。
銀色の目がまぶしい。
でも近くで見ると、思っていたより普通っぽくなかった。長く鋭い牙は魔獣そのものだ。それに長い毛は緩やかに波打っている。
優雅で、おぞましく、総毛立つような美しい犬。
……違う。これは犬じゃない。魔獣でもない。小型化して犬の姿に近くなっているけど、本質は犬のような動物ではないようだ。
「……蛇……?」
「おお、君にはわかるんだね! さすが我が女神だ。彼はとても美しいだろう? 彼も君に興味を持っていて、協力してくれているのだよ。だからね、君のその美しい髪を、少し彼に分けてあげてほしい」
浮かれているのか、セレイス様は少し早口だ。でも私は、セレイス様が異国語を喋っているようで何一つ理解できなかった。
この人は何を言っているんだろう。
なぜ、短剣を抜いて近付いているのだろう。
魔法の光を受けて輝く抜き身の刃を見つめながら、私はゆっくりと立ち上がった。
セレイス様の顔は見ない。あの黒い目も見ない。物騒な刃と優雅な痩身だけを見ながら、少しずつ動こうとした。でもその方向にいつの間にか黒い犬がいて、足を止めてしまった私を嘲笑うように牙を剥き出しにした。
「だめだよ。僕のリリー・アレナ。君の美しい肌に傷をつけたくないんだ。ああ、短剣が怖いのかな? 大丈夫だよ。今日は少し毛先を切るだけだ。ほんの少し……毛先を揃えるくらいだから」
セレイス様は優しくそう言うけど、問題はそこじゃない!
そう叫びたいのに、体が思うように動かなかった。鎖がどんどん重くなる。持ち続けることができなくて、床に落としてしまった。
ガチャン、と重い音が部屋に響く。
同時に、足輪も重くなって私は思わずよろめいて膝をついてしまった。黒い犬の魔力は体にも作用するのか、手足の動きもおかしい。目まで上手く動かせなくなってきた。
それに、頭がさっきよりさらにぼやけている気がする。これも魔力のせいらしい。
「やりすぎじゃないかな。リリーの肌は傷つけたくないのだが」
『傷など、後でいくらでも癒せるだろう。そんなことより、さっさと切り取れ。我にその者の一部を与えよ』
「せっかちだなぁ。でも、リリーはお転婆な子だから、そのまま押さえ込んでもらおうか」
セレイス様は動けない私のそばに膝をつき、私の髪を持ち上げた。白い髪の房を見つめ、うっとりと微笑んでから短剣を動かす。
サクリと小さな音がして、セレイス様が持ち上げていた髪が自由を取り戻して落ちていく。切り取られた一部が手の中に残っていた。
……切られた。
お姉様に褒めてもらった私の髪が、切られてしまった。
ほんの一房だけど。
でも、私は自分でも想像しなかったほどショックだった。セレイス様の手の中に、癖のある真っ白な髪が乗っていることに傷ついてしまった。
「切り取っても、まだ美しいな。惜しいが……」
『報酬をよこせ』
「強欲な異界のものよ。受け取れ」
セレイス様は微笑みながら白い髪を犬へと投げた。
ふわりと髪が広がり、でもすぐに吸い取られるように犬の方へと集まる。犬はそれを一飲みにして、満足そうに笑った。
『ふむ。やはり良い味だ。いったい誰の縄張りに隠れていたのやら』
黒い犬の姿をとる異界の存在は、くるりと私の周りを歩く。
硬直する私を見て、口を大きく開けて笑った。口の中で二股に分かれた舌が蠢いていた。
ああ、やっぱり蛇なんだ。
鈍くなった頭で、私は必死に考える。
本質は蛇の形なのに、全く生態の異なる犬の姿をとるなんて、どれだけ力がある魔物なのだろう。そう考えると背筋が寒くなっただけだった。
なのに、セレイス様は気安く黒い犬に話しかけた。
「さて、報酬を渡したところで、注文をつけていいかな」
『なんだ』
「その鎖、少し無粋すぎる。せめてもっと細くしてほしい。リリーは小さな女の子なのだよ。動きを封じる目的なら、腕輪をつけてもいいんじゃないかな」
『人の方が強欲ではないか。まあ、そのくらいの注文なら受けてやろうか』
黒い犬がそう言った途端、手のひらくらいの大きさだった鎖が小さく細くなった。まるで装飾品のような美しい銀色の鎖がさらりと床に伸びている。
代わりに、私の両腕に腕輪が生じていた。これも銀色で、細やかな模様がある。
何これ。魔物って趣味いいんですね。
私は半ば自棄になってそんなことを考えていた。
動きにくさは少しなくなったけど、魔力によって押さえ込まれる作りになっていると思うと、少しも嬉しくはない。
でもセレイス様は満足したようだ。
短剣を鞘に納めて、うっとりと私の顎に触れた。
「その鎖、よく似合うね。でも元気に歩き回る君も好きだったから、王都を出たら鎖は外してあげるよ」
「……私を、どこかへ連れ出すつもり?」
動きにくくてやや舌足らずになったけど、なんとか言い返すことができた。
でも悔しいことに、目を逸らしたくても真っ直ぐしか見ることができなくて、私はセレイス様を見上げる形になっている。
それが嬉しいのか、質問してきたことに驚いたのか、セレイス様は目を大きくした。
「君は何も心配しなくていいんだよ。僕と一緒に暮らすのだから。ああ、でも僕は王都を出なければいけない。ずっと君と一緒にいたいところだが、父上が監視をつけていてね。いろいろうるさいから、あの犬と一緒に、先に外に出てもらうよ。何も怖いことはないから大丈夫だよ。一瞬で移動できるから」
とろけるような甘い声だ。でもそんなに優しく語りかけられても、ちっとも嬉しくない。
私は腹が立った。だからつい睨んでしまったけど、セレイス様はもっと嬉しそうな顔をしただけだった。この、変態めっ!
そう憤慨していたら、セレイス様が優しく微笑んだ。
「……ねえ、リリー・アレナ。美しい狭間の女神よ。君の本当の色を見せて欲しいな」
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