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第十話「常十万(じょうじゅうまん)」
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常十万(じょうじゅうまん)
一
朱元璋の人生において、この時期ほど錯乱したことはなかった。
常に冷静沈着、思慮遠謀が元璋の持ち味であったが、郭子興を王に推戴していた頃は理性を失っていた。
一方。その生涯においてもっとも活発的に動きを見せていたのは張天祐であった。
――これは弔事ではない。慶事だ。
彼は義兄の死をそのようにとらえていた。この機に全軍の指揮権を手中にするため、色々と画策していたのである。
天祐の郭軍における存在意義は何といっても紅巾本軍との繋がりであった。亡き子興が濠州元帥に任じられたのも彼の根回しがあってのことであった。
その天祐がどういうわけか、忽然とその姿を消した。当然ながら脱走したわけではなく、単身、紅巾本軍の拠点である亳州(はくしゅう)に向かい、朱・郭両軍を震撼させる書状を手に和州に戻ってきたのだ。
その書状は小明王の勅書であり、子興亡き後の任官について記されていた。
全軍を統括する都元帥には子興の嫡子・郭天叙が就き、第二位である右副元帥には天祐が任命された。元璋はと言うと第三位の左副元帥であり、天祐たちの風下に置かれることになった。
元璋は出遅れた。天祐如きに遅れを取るなど初めてのことで、元璋は珍しく悔しがった。
「男子たる者、どうしてかの者どもの節制を受けねばならぬのだ」
そのように憤怒し、徐達や李善長にあたり散らしたのである。
徐達は物静かに笑いながら、
「ならば独立なさいますか?」
と、聞いてみた。だが元璋にはいつもの毅然さがまるでなく、ただ言葉を詰まらせてほぞを噛んだ。今、朱軍が独立すれば、郭軍と全面対決をしなければならない。そうなれば濠州の内紛を再現することになるだけであった。
もちろん徐達は本気でこのようなことを提案したのではない。元璋に冷静さを取り戻してもらうためにあえて愚案を提示してみせたのだ。元璋は深く息を吸い、ようやく落ち着きを取り戻した。
「……天徳。俺をけしかけたな?」
徐達はおどけたように恐縮したが、元璋は嘆息しながらゆっくりとうなずいた。かたわらにいた善長はくすくす笑い、机上に地図を広げた。
「過ぎ去りしこと、たわけた話はもう良いでしょう。滁陽王亡き今、我らが頼るべきは己の影のみ。そして向くは後ろではなく、ただ前あるのみ」
「百室の申す通りだ」
元璋は静かに眼を閉じた。
――もはやこれまでか。
元璋らしからぬ言動は徐達と善長の肝を何度冷やしたかわからない。しかし子興が亡くなり、余計な「後ろ盾」を失った。
元璋は甘えている――。
これは鈴陶の見解であったが、それは徐達たちも同じであった。
だがその甘える対象がない今、元璋は己のことは己で守らなければならず、そのために頼るべきは朱軍しかない。元璋は自己防衛のためには是が非でも自分を取り戻さなければならなかった。
元璋はすぐさま諸将を召集した。軍議が開催されると元璋は地図から目を離さず、馮国勝を呼んだ。
「宗異の意見は以前と変わらぬか」
「小局はその都度、移ろうものですが、大局は変わりませぬ。我らが拠るべき地は金陵をおいて他にございません」
「ならば聞く。今すぐ金陵を手中に収めることは可か不可か」
この問いに国勝はかぶりを振った。
「だろうな」
現実主義の元璋はすぐに察し、不敵な笑みを浮かべながら善長に目をやった。
「軍師の意見を訊きたい」
「先日申し上げましたが、まずは江を渡らねばなりませぬ」
「和州を奪ったのは、そのためのはずではなかったか」
本来ならば和州を取った後、すぐさま長江を渡るつもりであった。だが孫徳崖や子興のことがあり、それどころではなかった。徐達は悪童のような顔つきで苦笑した。
「随分と遠回りをされましたな」
元璋も負けてはおらず、餓鬼大将のような面持ちで答えた。
「要らざる口を叩くな。今は江を渡るための船を捜さねばなるまい。また江を渡ったとしてもそのまま金陵を攻めるは難しかろう。船を探し、足がかりとなるべき地を選定するのが大事だ。それまで都元帥と右副元帥には良い夢を見させてやる」
「夢、ですか」
善長は目を細めながら小首をかしげた。
「張天祐たちが出来るのは良き夢を見ることだけだ。我らは夢に溺れることなく、両の足で歩んでゆくのだ」
この心強い言葉に、徐達たちははっとした。臨機応変とは元璋のためにある言葉であった。
――それにしても変わり身の早い。
元璋のことをよく識っているはずの徐達だが、未だわからない部分がこの人には多い。
しかし、と一方で徐達は思う。この乱世で自分たちを安寧に導き、そして青史に名を遺させる人物はやはりこの元璋以外にはいないと確信した。人は必ず過ちを犯す。だが大切なのは過ちを過ちと認め、次なる飛躍に役立てることが、その人の器量と言うものであった。今回の騒動で一段と大きな器になったと徐達たちには思えた。
二
世が乱れる時、必ず奇人と言うべき人物が現れる。それが常遇春(じょうぐうしゅん)であった。
仰ぎ見るような大男で身の丈は九尺。髪は縮れ、右目の下には大きな刀傷がある。見るからに異形の者であった。膂力は人並み外れ、重さ百斤と伝わる禹王の鼎を軽々と持ち上げた。また巨躯にも関わらず、動きが機敏であった。
「あいつは人か獣か、ようわからん」
そう影でささやかれるほど動物との意思疎通が得意で、すぐに打ち解けてしまう。そのためか、どんな荒くれ馬も半日で手懐けてしまい、弓の腕前も一流ということもあって騎射で彼の右に出る者はいなかった。
好んで使う武器は大斧である。斧を担いだ遇春は戦鬼そのもので誰もが恐れをなした。彼が進む姿はまさに縦横無尽、行く手を阻む者はことごとく斧の錆にされてしまった。
字は伯仁(はくじん)と言ったが、どうしたわけか、誰にも自身の字を呼ばせようとしなかった。その代わりに人々に呼ぶよう強要したのは、「十万」というあだ名であった。
遇春曰く。
「我が志は義兵十万を率いて、天下を正すことにある。それゆえ俺のことを常十万と呼ぶのだ」
世が乱れると劉聚(りゅうしゅう)という人物に仕えることにした。劉聚は元末の混乱に乗じて身を立てた男で、遇春は劉軍においてすぐさま頭角を現した。今では劉聚の絶大なる信頼を受け、副将の地位にある。
遇春は期待に応え、よく働いた。しかし次第に劉聚の許で働くことを佳しとしなくなったのである。理由は劉聚その人にあった。
――劉聚は人として悪くないが、所詮は盗賊で小者に過ぎぬ。
遇春の志を満たしてくれる主などそうはいないだろうが、ともかく劉聚を頭に抱くことは彼の自尊心が許さなかったのである。だが遇春は傍若無人のように見えるが、誰よりも忠と義を重んじる。
――志を大きく抱かれよ。そして罪無き者から奪われるな。
何度も諫言したが、劉聚は聞く耳を持たず、群盗であることに満足しきっていた。
遇春は失望した。悩んだ結果、劉聚に見切りを付けて軍から去る決意をした。この退去の方法がいかにも彼らしい豪胆なものであった。
軍を退去するということは命を懸けなければならない。なぜなら退去とは裏切り行為であり、処刑されても仕方がない最大の軍律違反であるからだ。そのため、退去は戦闘中のどさくさに紛れるか、または夜逃げのように夜半出て行くかのいずれかである。ところが遇春はそのような退去は恥辱と考え、白昼堂々暇乞いをしたのだ。
幕舎に入るや、名乗りを挙げるようにして退去することを宣言したのである。
「この常十万、劉主公(聚)の世話になった。だが我が志は天下万民の安寧にある。ゆえにこれ以上、盗人稼業を手助けしたくはない。よって今日を限りに退去させていただく」
大胆不敵とはまさにことであった。当然ながら劉聚は驚き、留めようとした。だが留まるような遇春ではない。
「おのれッ、不忠者めが」
劉聚は激怒し、兵たちに討つよう下知した。だがここからが奇人としての本領発揮であった。手に長さ十尺もの棒を持ち、襲いかかる兵たちをなぎ倒してしまった。さらに体中から異様な殺気を立ち昇らせ、皆を震え上がらせた。
「今までは仲間ゆえ助けて参った。その誼をもって静かに退去する所存であったが、邪魔立てするならば容赦せぬ。命捨てる覚悟あらばかかって参れ。この常十万、手加減はせぬぞッ」
吠えるように叫びながら兵たちを睥睨し、そして畏怖せしめた。遇春の恐ろしさを劉軍で知らぬ者はいない。そのため兵士たちは命惜しさに道を空けざるをえない。
だが敢然と立ち向かう男もいた。劉聚の弟の劉邑(りゅうゆう)で、豪勇をもって知られている。彼は大刀を手に、遇春に襲いかかった。しかしまるで歯が立たず、大刀は折られて子供のようにあしらわれてしまった。遇春はさらに足払いをして、劉邑を地面にひれ伏させた。
「御舎弟殿よ。貴殿にも世話になった。一度だけは生死を共にしたことを思い、お助けいたそう。だが再び立ち向かわれるならば、その首級を頂戴いたす」
この言葉と姿勢に一同は息を呑んだ。
「今一度申す。邪魔立てする者は断じて許さぬ。その首を胴体から離したくないのなら、十万を遮るな」
劉軍は所詮食い詰めた盗賊の集まりである。彼のような剛の者に立ち向かえるような者などいなかった。遇春は立ち上がると皆に拱手し、静かに堂々と去っていった。その姿を劉軍はただ見送るほかなかった。
かくして遇春は劉軍を出奔した。
だが行くあてなどなく、西に東にと流浪したが、彼の眼鏡に適う主などどこにもいなかった。
和州の近郊に和陽という聚落があり、そこにたどり着くと、疲れ果てていた遇春は地面に寝転んでしまった。そして大の字となり、空ゆく雲をただ眺めた。
「誰に仕えて良いのやら。仕える主がいないのであれば、どこか近隣の地を奪って、この十万が主となるしかないな」
そんな物騒なことを口にしたが、行く当てがないということは遇春でも心細い。
遇春は真剣に考えた。だが考えてもよい思案が思い浮かばず、いつの間にか、いびきをかいて眠ってしまっていた。
果てもなく広がる草原――。
気が付くと何もない、青々とした草原の中にいた。ただ心地の良い風が身体に吹きつけている。身体を掻きながら、遇春は背伸びをした。
「うむ……。これは夢か」
遇春は子供の頃からそれが現や夢なのか判別することが出来たが、夢を夢として楽しむことが出来る奇妙な男であった。
呆然と目を細め、周囲を見渡した。すると北東より一人の青年がこちらに向かってくる。
――何と神々しい。
息を忘れて見惚れてしまうほど、その青年の姿は美しかった。
まばゆき黄金の鎧を身にまとい、腰には品の良い白銀の剣を佩いている。また鎧下には純白の戦袍を着用しており、目を凝らしてみると九本の爪を持った龍が刺繍されていた。
――この方は神の御使いに相違ない。ふむ、そうだ。神人であらせられるのだ。
そう思った瞬間、反射的に青年の前に膝間ついていた。その青年――神人は遇春の前に立ち、すっとある方角を指差した。
「目を凝らすが良い。そなたが仕えるべき主君がお見えであるぞ。さあ目を覚まし、真の主を見るが良い」
そう告げると、神人は涼風と共に去って行った。遇春は驚き、顔を上げたがすでに神人はいない。
――あ、もう現だ。
夢でないことを悟るや、慌てて神人の指差した方角に目をやった。
すると驚いたことにその方角から何かが土煙を上げ、南に進んでいるではないか。
――あれは……軍兵か。神人が仰せになられた通りだ。あの軍勢の中に我がご主君がおわすのだ。
そう思うと、矢も盾もたまらず走り出していた。仕えるべき、我が志を受け止めてくれるご主君がそこにいる――そう思うと遇春の胸は張り裂けんばかりに喜びで満ち溢れていった。
神人が示された御人がすぐそこにいる――。
遇春は喜び勇んだ。そして猛然と、その軍勢に駆け寄ったのである。
「何だ、化け物かッ」
只ならぬ者の登場に兵たちは恐れおののき、身構えた。身の丈九尺もの男が髪を乱しながら走ってくるのである。警戒をするなという方が無理であった。だが兵の制止にひるむ遇春ではない。
「そこの男、止まらぬと射かけるぞッ」
そう叫びながら弓を構えたのは湯和で、この軍勢は朱軍であった。
「それがしは懐遠人・常遇春。先ほど神人のお告げを受け、貴軍の主にお仕えするべく参上いたし申した。ご主君はいずこにおわすや」
――気が触れているのではないか?
湯和は一瞬、そう思ったが、気が違えている者とは思えぬほど、その顔つきはあくまで毅然としていた。
「お教え願いたい。貴軍のご主君はどなたか」
遇春のあまりのしつこさについ教えてしまった。
「紅軍左副元帥・朱元璋様だ」
「和州の朱元帥……左様でござったか。朱元帥のご高名はかねがね聞き及んでおります。なるほど朱元帥ならば我がご主君にするに相応しいお方。よし、決めた。今よりこの常十万は朱元帥の家臣となろう」
何と自分本位なことを申す奴か――呆れると同時に腹立たしさを覚えた湯和は断じて許すまいとかぶりを振った。だが遇春はこの程度の制止に頓着する男ではない。カラカラと笑いながら湯和の腕をつかんだ。
「愚か者。そなた如きがわしの行く手を遮ることが出来ようか。察するにこれより戦が始まるのだろう。ならばこの十万が先陣を承るのが道理というものではないか」
「意味のわからぬことを申すなッ」
「わからぬはお主の方だ。この十万がご主君にお仕えするのは神意なのだ。お主のような下郎が口を挟むことではない」
この理不尽な言い様に湯和は激怒した。
――かような怪しからぬ奴、主公に近づけてなるものか。
湯和は血相を変えて愛用の槍を持ってこさせた。
「下郎とはなめたことを申す。得体の知れぬ者を我が君に会わせるなど、この湯鼎臣が許さぬ」
すると今度は遇春が憤然とした。腰紐に差していた大斧を手にした。
「大言を吐くな。井の中の蛙大海を知らず、とはこのことだ。この十万の斧さばきを見た瞬間、うぬはあの世で後悔することになるのだ」
そう叫ぶと、大斧を構えてカカと笑った。
強者は強者を識る。遇春と対峙した途端、湯和はこの男の強さをすぐさま感知した。
――これは類なき剛の者だ。話に聞く尉遅敬徳(うっちけいとく)、秦叔宝(しんしゅくほう)の域に達しているのではないか。
思わず唐代の伝説的豪傑になぞらえてしまうほど、只者ではないと見た。この思いは遇春も同じで、努々油断してはならぬと肝に銘じた。
だが双方今更引くわけにはいかない。異様な殺気と共に両者の槍と斧が激突した。
湯和は空を斬り裂くようにして槍を突き、遇春の斧がそれを防ぐ。防いだ遇春が目にも止まらぬ速さで斧刃を振り回し、今度は湯和が巧みな槍術でこれをかわした。
十合ほど激しく打ち合ったが、一向に勝負はつかない。
腕は互角であり、兵たちは固唾を呑んで見守るほかなかった。なおも打ち合おうとした瞬間、騒ぎを聞きつけてきた徐達が両者の中に割り入ってきた。
「鼎臣殿、お控えあれ」
徐達は馬から飛び降りると、手を振って制止した。
「乱心者を追い払おうとしただけだ」
湯和がそのように弁明をする中、遇春は首をかしげながら徐達を凝視した。
「あなた様が朱元帥でござるか」
そう叫ぶや地面に飛び込むような勢いで平伏したため、徐達も唖然とするしかなかった。
「鼎臣殿。この御仁は確かに常人ではないが、乱心者でもありますまい」
にこにこと笑いながら遇春の手を取った。
「顔をお上げくだされ。申し訳ござらぬが、それがしは朱元帥にあらず。元帥の配下にて徐達と申す者。以後お見知りおきを」
そう挨拶をすると、遇春は奇声を発した。
「朱元帥ではないだとッ。どいつもこいつも神意を何と心得る。つべこべ申さず、この十万をご主君に引き合わせれば良いのだ」
まるで駄々っ子であった。これには徐達は苦笑し、湯和はにがりきった。だがまるで邪気がない遇春の態度に兵たちは好意を込めた目を向け始めていた。
「申し訳ないことをしました。この徐天徳がご主君の許にご案内いたしましょう」
徐達は柔和な笑みを浮かべながら、再び手を取ろうとした。しかし遇春は憤然とその手を払いのけた。
「徐達、天徳と申されたな」
「徐達。字は天徳と申します」
「拙者は常遇春、字は伯仁。いずれは天下安寧のため十万の兵を自在に動かす者となる」
「十万の兵?」
「そうだ。ところで徐天徳殿よ。うぬは己を賢き者と思っているようじゃな」
「そのようなことは……」
「黙られいッ。そもそもそのふにゃふにゃした話し方は何だ。自分を高みに置いているとしか思えぬ。良いか、そなた程度の者は天下に数多くおる。そもそもこの常十万があることを忘れるな」
この啖呵に徐達は怒らなかった。それどころか、
――我が陣営に稀代の奇士が駆けつけてくれた。
という感動の方が、大きかった。
朱軍には奇人が数多いる。だが遇春の奇人ぶりは類がない。
徐達には奇妙な天下論があった。それは乱れた天下を征するに必要なのは遇春のような奇士をどれだけ多く麾下に置くことが出来るかである。
――我らが主公にはその度量がある。
徐達は誰よりも元璋こそ天下を治める度量だと思っている。思っているからこそ我が骨を粉にして身を砕いているのである。だがまだまだ元璋が天下を取るには人材が乏しい。 この眼前の奇士は元璋に仕えるは神意と言う。
――神意……なるほど、その通りだ。
徐達は心内で何度もうなずいた。天下を取るということは無数の正邪から一つでも多くの神意を汲み上げることであり、徐達も湯和もまたその神意で元璋の許に募っている。
感動をしている徐達と対照的に、遇春は勘に触ったらしい。
「軟弱な顔でにやにやしおって。胸糞の悪い」
徐達は咳払いをしながら威儀を正したが、嬉しさがつい顔をほころばせた。これにはさすがの遇春も気味が悪くなった。
「……よくわからぬ奴だ。とにかく、つべこべ申さず、元帥の許に案内せよ」
どうしようもないほど口の悪い男であったが、徐達は気にせずに微笑を浮かべ続けた。
――この男も男だが、天徳も天徳だ。
徐達は遇春をこの上もない「奇士」だと思っていたが、湯和にすれば徐達もまた風変わりな点では劣っていない。
かくして遇春は元璋への拝謁が許された。この時、元璋は鎖帷子のような鎧と、紅い披風(マント)を身に纏っており、鎧下には草原のような鮮緑の戦袍を着用している。
仕えるべき主君――元璋の容貌を食い入るように遇春は観察した。
――容貌は美しくないのが、それがどうした。
遇春は元璋が美丈夫でないことに大いに満足した。偏見も入っているのだろうが、美麗な男にろくな奴はいないというのが遇春の考えであった。
――問題は美醜ではない。大事なのは眼だ。
遇春はその人の良し悪しを見る最適の部分は眼の輝きだと見ている。目がきょろきょろと定まらない者や、卑しい目つきの者はどうしようもない。かつて仕えていた劉聚は卑しい目つきで、その点でも我慢ならなかった。
――だが朱元帥は違う。
遠くをしっかりと見つめているような元璋の瞳が素晴らしい。この常十万の生涯を託すは元璋しかいない――瞬間的にそう確信した。
元璋は実によく人を見ている。同じことでも人を感動させることもあれば、反対に落胆させてしまう場合もある。人と会う時は、必ず下馬をして慇懃に挨拶するのだが、なぜか彼に対しては馬上のままであった。遇春は自分の才覚を売りに来たのではなく、自分を使いこなすことの出来る主君を求めており、威風堂々と接するのが一番だと見たのである。
この予想は的中した。すっかり威に打たれ、感涙さえしていた。
「我が軍に加わりたいのだな」
そう尋ねると、遇春は激しくかぶりを振った。
「いいえ。朱軍にではござりませぬ。この十万がお仕えしたいのは、あなた様ただお一人」
「その気持ちはありがたいが、わしに仕えるということは我が軍の律に従ってもらわねばならぬ。また上将の命はわしの命として従ってもらわねば困る」
「あなた様が軍律を守れとお命じならば生命を賭して守りましょう。またあなた様が選ばれました上将の命を守るは、あなた様の命を守るも同じ。この身を捨てよとお命じならば喜んで捧げましょう。この十万の生命、存分にお使いくださりませ」
遇春は額を地面に叩きつけるようにして拝礼した。
ところで――と元璋は険しい面持ちで劉聚のことを訊いた。
「先日まで劉聚殿の許で働き、副将にまで取り立てられたと聞く。重用されながら、なぜ劉軍を出奔したのか」
このことは重要な問題であった。気まぐれで仕え、気ままに軍を去られては、いかに才覚があろうとも話にならない。場合によっては不忠の者として見せしめに首を刎ねてやろうと考えていた。遇春は姿勢を正しながら、神妙な顔つきで答えた。
「劉聚殿はこの十万を重く用いられました。また恩賞も篤く、その点においては今でも感謝いたしております。ただ惜しむらくは志なく、弱き者から略奪暴行を重ねるだけの姿に失望したのです。古より良禽(りょうきん)は木を選ぶ、と申します。人生は短きもの。乱世に生を享けし男子は、志にこそ命を懸けねばなりませぬ」
この回答を聞いて元璋は安堵した。覇業達成のためにはこのような豪傑こそ軍に加えるべきであった。
「その志の真贋を見せてもらいたい。まずは鼎臣の許で先鋒を務め、しかるべき手柄を立てよ。だが抜け駆けなどは許さぬ。話はそれからだ」
この言葉に遇春は勇奮した。元璋の言うようにまず行動でもって己の志を示さなければならない。
「仰せの如く、湯将軍の先手として戦わせていただきまする」
満面の笑みを浮かべて拝礼をすると、一つのことを尋ねてきた。
「ところでご主君は渡江をお考えなのでしょうか」
「いかにも。江を渡るために船を捜しておる」
「ならば。和州の西にある巣湖(そうこ)に目をお向けなされ。巣湖には廖永安(りょうえいあん)、永仲(えいちゅう)兄弟、そして兪廷玉(ゆていぎょく)と申す湖賊がおりまする。この者たちは一万ほどの水軍を擁しておりますが、近隣の廬州(ろしゅう)に巣食う盗賊・左君弼(さくんひつ)のために逼迫しております。巣湖の者たちは生きるために賊をいたしておりますが、いずれも志高き者ばかり。ご主君が帰順を呼びかければ、喜んで味方に馳せ参じましょう」
この進言は元璋を喜ばせた。巣湖の水軍を味方に出来れば大事は成ったのも同然である。
「良きことを教えてくれた。ならばそなたを先導とし、この元璋自らが彼らを説諭しよう」
これには周囲は驚いた。だが元璋は己の危険など頓着しておらず穏やかに笑みを浮かべている。
「虎穴に入らずんば虎児を得ず。船が入らなければ我らを待つは自滅のみ。志ある者には礼をもって接しなければならぬ。それに、だ」
元璋は下馬すると、染み入るような笑顔で遇春の肩を叩いた。
「この十万が我が身を守ってくれよう。そうであろう、常十万」
この言葉に遇春は激しくうなずき、再び涙で満面を濡らした。
それにしても元璋とは何と豪胆な男であることか。遇春は自身を剛の者と自負してきていたが、元璋にはとても敵わなかった。そしてやはり己の生涯を賭けるのは、この人物しかいないと、改めて確信した。
遇春は少年のように顔を紅潮させ、案内役を拝命した。何としても元璋の身を守り、巣湖の水軍たちを主君に献上出来るよう知力を振りしぼる覚悟を定めた。
いよいよ巣湖に出立の折、元璋は馬脚を止めた。
「常十万よ。十万の兵を縦横無尽に動かすことが志だと聞くが、何とも小さな志だな」
首をかしげる遇春に、元璋は愉快そうに哄笑した。
「目指すならば百万の兵を率いる将を目指せ。それでこそ乱世を生きる漢(おとこ)の志というものであろう」
この言葉に遇春は身を震わせながら感動した。この人のためなら生命を捨てても良いと、心底そのように思った。
かくして元璋と遇春は巣湖へ向かった。説得は驚くほど簡単であり、見事水軍を掌中に収めたのである。遇春の熱き説得と、元璋の覚悟が志ある彼らの心を動かした。かくして朱軍は水軍と船を手に入れた。いよいよ大いなる長江を渡り、新天地を目指すのであった。
三
至正十六年六月。
巣湖の水軍を手に入れた元璋は早速軍議を開いた。もちろん廖兄弟と兪廷玉も同席している。水軍を手に入れたからと言って、やみくもに渡江はできない。目指す拠点を定めなければ長江で朱軍は滅亡してしまうだけである。
意見は大きく二つに分かれた。湯和や花雲、費聚(ひしゅう)といった猛将たちは一挙に金陵を衝くべし、と主張した。
一方、徐達や善長、馮兄弟たち知将は対岸の要衝である采石鎮(さいせきちん)を奪い、金陵攻略の足がかりにするべきだと主張した。
双方の意見が夜通し議論されたが、それぞれに分があり、容易に決議されなかった。
金陵攻略派の意見はこうである。
采石鎮は和陽からあまりに近く、警戒されているため多大な被害を受けることが想像される。そこで敵の虚を衝き、一挙に金陵を攻め落とす奇襲策である。
一方采石鎮攻略派はと言うと、奇襲は賭博的で危険すぎると主張していた。
両派が激突する中、元璋は終始無言を貫いた。ただ瞑目して双方の意見に耳を傾けるのみであった。やがて議論が尽くされ、元璋の裁可を待つのみであった。諸将は固唾を呑んで耳を澄ませたが、まだ裁可は下されない。
元璋は目を開けると、巣湖水軍の将たちに視線を向けた。彼らに意見を述べるよう求めたのである。
廖兄弟と廷玉は新参者である。そのため終始発言することを遠慮していた。だがもっとも地理に詳しく、船を知り尽くしているのは彼らである。その意見は傾聴に値する。永安は一礼すると、落ち着いた口調で意見を述べ始めた。
「まず金陵を奇襲される策ですが、無謀だと思われます。たしかに江南の要衝であり、ここを取れば蒙古に与える打撃は大きいでしょう。ですが要衝は敵中深くにあるもの。たとえ金陵を奪っても敵軍に包囲され、必ず滅び去ります」
この言葉に金陵攻略派は沈黙した。では、やはり采石鎮なのか、と思われたが、今度は廷玉がその危険性を指摘した。
「采石鎮は紅巾軍起義より亡き丞相トクトの命にて防備を固めております。元よりかの地は三方を山、前面を江に囲まれた天然の要塞。正面から攻めては容易に攻略出来ませぬ」
「ならば打つ手はないと申すのか」
元璋は眉をひそめた。このまま手をこまねくのか、それとも多大な犠牲を払って渡江するのか――いずれにせよ苦渋の決断が迫られる。
すると幕外から、「ご安心あれ」と、乱入してきた者がいる。
遇春であった。彼はまだ正式に朱軍参加を認められていない。いわゆる陣借の状態で、このような軍議に参加する資格はなかった。だが遇春はそのようなことに頓着する男ではなかった。
「控えよッ」
上将である湯和は下がるよう命じたが、遇春は頑として聞かない。聞かないどころか、「上将のお手前に策ないゆえ具申しているのだ」とまで、言い切ってしまう始末であった。
「ならば十万に良策があるのか」
元璋は険しい表情で尋ねると、遇春は腹中の案を示した。
「目に見える拠点ばかりを思い浮かべてしまいますが、世には盲点というものがござる。采石鎮は要衝であると同時に平素は船着き場として活用されております。ですがその船着場は戦の最中ゆえ封鎖されておりまする」
そう遇春が言いかけると永安があっと声を上げた。
「そうか、そうでしたな。これは迂闊でござった」
元璋以下の陸将には意味がわからなかったが、永安は説明を始めた。
「この付近の江港は采石鎮なのですが、戦時は封鎖されてしまいます。ですが臨時の船着き場として東隣の牛渚磯(ぎゅうしょき)が開放されるのです。平素は廃墟同然ですので、ここから上陸すれば采石鎮の喉元を抑えることが出来ます。また軍の港としては何かと不便なために敵もここを攻めてくるとは予想はいたしますまい」
遇春の提案はまさに敵の虚を衝くものであった。戦に慣れた者はどうしても正面のみに目がいってしまうものだが、遇春は素人としての感覚があり、牛渚磯のような港と呼べない個所に目をつけたのである。ただの暴れ牛かと思われたが、容易ならざる戦略眼を有している。
この遇春の献策にて軍議は一決した。
夜陰に乗じて采石鎮を目指す。そして敵の隙を衝いて急転、牛渚磯を狙い、動揺する采石鎮を一挙に陥落させる。さらに拠点の一つである太平をも手中に収めるといった内容であった。元璋はすぐさま出陣の下知を下そうとしたが、善長が待ったをかけた。
「天候を見ますと二日後の夜に深い霧が包みます。またその間、間諜を使い、盛んに采石鎮を攻めることを流布させてみてはいかがでしょうか」
この意見に異論は出なかった。元璋はようやく渡江の決断を下した。
二日後。善長の予測通り、夕刻になると長江流域は深い霧に包まれた。
この二日間、朱軍では各将が整然と動き、いつでも出撃出来る準備がなされた。敵を少しでも欺くために旗などは伏せられている。操舵は当然、巣湖軍の受け持ちで、白兵戦は湯和たち先鋒軍の仕事であった。上陸すれば血刀を振るって戦わねばならない。
この先鋒軍の中に遇春も加わっている。彼は不思議な男であった。その陽気さは他の将たちをすっかり魅了させ、加わって間もないと言うのに幾人も友が生まれていた。中でも花雲とは気が合うのか、親友の如く親密となっていたし、鄧愈からは兄のように慕われていた。兵たちにも優しく、遇春のためなら命もいらない者は一人や二人ではなかった。湯和とは相変わらずで何かあればすぐに口論となる。だが心底ではたがいに敬慕し合っていた。
「いよいよだな」
口許こそ笑ませているが、湯和の眼光は鋭い。幾多の戦場を経験してきたが、戦前はどうしても緊張してしまう。遇春は平素よりも冷静であるようであった。
「鼎臣殿は戦が恐ろしいのか」
「怖くないという奴は素人さ」
素っ気なく答える湯和に、遇春は「そうさな」と苦笑した。
「この十万も数え切れぬほど戦場に臨んだが、この胃を締めつける感覚はなくならぬもの」
この言葉を湯和は意外に思った。勇猛が服を着て歩いているようなこの男でも人並に緊張していることがどうにも信じられなかったからだ。
――こいつも俺と同じなんだな。
そう湯和は思い直した。
彼も一人の人間である。恐怖もあれば緊張もする。また血気に逸ることがあり、浮足立つこともある。湯和は戦に臨む時、頭髪の毛先から沓先、手にした斧の切っ先まで全てに心を開放することにしている。邪念は油断を招き、場合によっては死に至ってしまう。五感全てを解き放つことこそ戦場を生き残る唯一の道だと考えていた。
同じかどうかはわからぬが、自分と遇春の死生観は似ているのではないか――理屈ではない。埒もないことよと思いながら湯和はそう感じるのであった。
かくして朱軍は進発した。
濃霧の中、一路采石鎮に進撃を開始した。朱軍の目的は気付かれずにぎりぎりまで岸に近づくことであった。早く見つかってしまえば味方の損傷が大きくなり、かつ敵に冷静さを取り戻させることとなる。
だが事は簡単には運ばない。采石鎮まであと一里という場所で、敵兵に気付かれてしまったのである。
その瞬間。けたたましいばかりの鐘鼓が城から鳴り響き、城は防戦体制に入った。
朱軍は一斉に旗を挙げ、城に向けて砲撃を開始した。
ここに両軍の激突が始まった――城側の者は皆そうのように思ったが、朱軍は整然と予想外の動きを見せた。砲撃で威嚇しながら、まっすぐに向かって来ず、左折したのである。
「どこへ向かうつもりだ?」
采石鎮の守将には理解が出来ず、首をかしげた。しばらく朱軍の動きを監察していたが、やがてその目的が牛渚磯にあることを悟ったのである。
「おのれ、裏をかかれたぞッ」
守将は慌てふためいた。守将はすぐさま膝下の兵たちを動かし牛渚磯に急行させたのである。だが軍は人の集団である。集団にとって予想外な状況をすぐさま打破することは、いかに名将といえども至難の技である。果たして朱軍の攻撃に城兵たちは戸惑い、大混乱をきたした。
「今だ、この機を逃すなッ」
朱軍の将たちは口々に叫び、兵たちは懸命に船を江上に疾走させた。目指すは牛渚磯――敵が体制を整えるまでが勝負であった。
敢然と先鋒船の先頭に大斧を手にした遇春が立っている。慌てふためく守兵たちは必死になって遇春に矢を射掛けるが、不思議と彼には当たらない。
矢の嵐を物ともせぬ遇春の船は牛渚磯に上陸を果たした。だが上陸したのは彼の船兵のみで、その数はごくわずかである。牛渚磯兵は容赦なく襲い掛かり、采石鎮からも雲霞の如く援軍がやって来る。
「者共、この常十万を信じろ」
遇春は実に勇ましかった。眉ひとつ動かさず、鬼のような形相で敵兵をにらみすえた。
この姿勢にひるみそうになっていた兵たちは叱咤激励されたのである。
「運は天にあり――。名を青史に留めるは我らのひるまぬ心だ。命を惜しむは死を招き、恥辱を恐れるなら生をつかむ。者共、命を惜しむな、名こそ惜しめッ」
将の勇気はそのまま兵たちに伝播した。遇春率いる一団は鬼と化し、牛渚磯兵たちに襲いかかった。
勝敗の分かれ目は戦う者の狂気にある。生命を惜しむ正気の者は、名を惜しむ狂気の者に敗れる。遇春は全身から鬼気をほとばしらせ、敵兵に向かっていった。
大斧を振り回し、当たるを幸いに兵をなぎ倒していった。また至る所に火をつけ、柵を壊して、後続の者たちが続きやすいように行動した。
遇春の勇猛さは他の先鋒軍を奮起させた。
先鋒軍の奮起はやがて朱軍全体に広がり、それに反して牛渚磯の兵たちは恐れをなした。その恐れはやがて彼らから戦意を奪い、総崩れの様相を呈した。
遇春が上陸してわずか二刻。牛渚磯は陥落し、朱軍は上陸に成功した。
采石鎮の援軍はすぐさま城に逃げ帰ったが、すっかり浮足立っており、城を逃げ出す兵が後を絶たない。
この好機を元璋は見逃さなかった。息をつかずにすぐさま総攻撃を開始し、水陸同時に采石鎮は攻め立てたのだ。
この時も遇春は獅子奮迅の働きを見せた。果敢に城壁をよじ登り、満身創痍ながら一番乗りを果たしたのである。他の兵や将たちも大いに奮い立ち、次々と城壁を乗り越えていった。
戦において冷静な判断力と勇猛さを失うことは致命的である。采石鎮は将から兵に至るまで大混乱を起こし、一夜明けると、我先にと城を捨てて逃げ去ってしまった。朱軍の渡江作戦は見事成功し、采石鎮を手中に収めた。
采石鎮を奪った元璋は兵たちを休めなかった。
すぐさま太平攻略を命じたのである。このままのんびりと采石鎮に滞在すれば、士気が消沈してしまうと危惧したためである。朱軍は元来、烏合の衆であり、ちょっとしたことで士気が崩れてしまう恐れがあった。采石鎮陥落後、兵たちの気が緩み、和州に戻ろうと言い出す者がいないとも限らない。そのような空気を打破するために元璋は徐達に命じて一計を講じた。
それは和州に戻るための船をことごとく破壊せしめ、退路を断ってしまったのである。船がなければ和州に戻ることが出来ず、生きるためには太平を奪取する他ない。
元璋は悲壮感漂う将兵たちに檄を飛ばした。
「我らは進む他、道がなくなった。だが采石鎮を落とした我らの勢いは天をも衝かんばかりに高まっておる。太平は采石と比べ物にならぬほど富裕の地と聞く。太平を手に入れたならば我らは富貴を手にすることが出来るのだ」
この檄は二つの効果があった。
一つは士気をさらに昂揚させたこと。これにて太平を一気に落とすことも夢ではない。
もう一つは采石での略奪暴行を防ぐため。実は采石陥落後、勢いに乗った兵士たちが各方面で略奪暴行に走った旨が報告されていた。そこで太平という餌をぶら下げることによって采石を守ったのである。
だがなぜ采石では略奪暴行の禁令を出さなかったと言えば、一気に太平まで奪わなければ今後の戦略に大きな支障をきたすからであった。
采石鎮は渡江の拠点であるが、要衝ではない。金陵を攻めるのなら、太平まで一気に落とさなければならない。そのためには士気の昂揚こそが大事で、下手に禁令を発布すれば士気低下にも繋がりかねない。毒は使い様によっては薬となる。元璋は禁断の手を使うことにしたのである。
太平進撃前夜。
徐達や善長など主なる謀将たちが密かに招聘された。その中には猛将たちは含まれていない。
「今宵の議は戦についてではなく、戦が終わった後のことでござる」
善長は席に着くや否や、先走ったことを口にした。元璋は笑いもせずにうなずく。
「嘘も時には必要だ」
言葉少ないが、善長たちはこのたび発した檄の真意を見抜いており、一様にうなずいた。
「わしは百室の言に従い、高祖皇帝を手本として戦ってきた。高祖が天下を平定したのは不殺不奪を掲げたため……そうであったな」
「仰せの通り」
「渡江に成功し、士気は大いに高まった。だが士気の高まりは狂気に通じる。狂気は人から見境を奪い、危うく采石では民に害をなすところであった」
「胡将軍ご子息一人だけでは効が少ないようですな」
国勝は眉間にしわをよせながら、静かに目を閉じた。
「ここは兵たちの心胆寒からしめる、一罰百戒こそが肝要でしょう」
「心胆寒からしめる、か」
元璋は深く目を閉じ、腕を組んだ。心胆寒からしめると言っても、そのような方法が容易にあるはずもない。善長たちは良き策がないか考えを巡らせた。すると真剣な表情をした徐達が、
「胡将軍には申し訳ないのですが……」
と、重々しく口を開いた。
「胡将軍のご子息では真の馬謖に成りえなかったのでしょう」
「真の馬謖?」
元璋は眉をしかめながら首をかしげた。
「胡将軍は才にあふれ、徳高きお方。しかし鐘離出身でもなければ濠州以来の同志でもありませぬ」
「つまり新参者である、と」
「御意。ここは我が君にとって股肱の者を生贄にしなければ、とても一罰百戒にはなりますまい」
「股肱の者……。はて、天徳は誰が良いと申すのか」
「畏れながら……」
徐達は言葉を止め、元璋の眼を見つめた。
「眼前に控えております」
そう言って自身を指差した。一同はあまりの提案に身を凍らせ、息を忘れてしまった。
徐達が朱軍において、いや元璋にとってかけがえのない人物であることは誰でも知っている。その徐達が情け容赦なく処刑されてしまえば、全軍を引き締めるに絶大な効果を与えるのは間違いなかった。
「戯言を申すなっ」
あまりの提案に元璋は怒鳴り声を上げた。これからまだまだ戦いは続く。いやこれまで以上に大きな戦や困難が朱軍に立ちはだかるに違いない。そうした時、徐達はなくてはならない逸材であり、いかに軍律厳守を知らしめる効果があったとしても、徐達を失っては朱軍にとって致命的な損害となってしまう。国勝は面を冒して、この提案を撤回させようとした。しかし徐達は微笑するだけで撤回しようとしない。皆、蒼白となっていたが、ただ一人善長だけは目許を笑ませながらうなずいた。
「天徳殿のお気持ち、ありがたくお受けしましょう」
だが元璋は否とも応とも言えず、顔を強張らせた。
「我が君――」
そんな主の顔を見て、善長は小さく笑い出した。
「いやはや。本気にされても困りますな」
「百室、まさか?」
「ご推察の通り。これは天徳殿の演技でござりまするよ」
善長が微笑みながら振り向くと、徐達は無言でうなずいた。だがな、と元璋は難を示した。
「あからさまな演技とわかっては意味がない。いや意味がないどころか兵の不信を招き、以後禁令の効がなくなるぞ」
この懸念はもっともであった。しかし善長はゆっくりとかぶりを振った。
「ここにいる皆様方、つまり我が軍で智謀高き方々が揃って処罰せよと奏上し、我が君が烈火の如くお怒りになれば誰も演技だとは気付きますまい」
徐達もその通りだとうなずいたが、国勝は納得しなかった。
「それでは天徳殿を斬るしかなくなる」
この懸念は当然であった。皆が進言し、元璋がこれを認める。そうなれば誰も止めることが出来なくなってしまう。しかし国用は善長たちの思惑に理解を示した。
「つまり天徳殿の徳に賭けよとお考えなのか」
徐達は、「さすがは妙山(国用の号)殿」と褒め、その真意を話した。
「もし天がこの徐達を必要だと思召しならば、助命嘆願されましょう。しかし徳なく天に見放されたならばそれまでのこと。またここまでなさねばとても一罰百戒にはなりますまい」
徐達の覚悟は本気であった。
采石と太平の民を守り、そして士気を下げないためには徐達の命の一つや二つ、賭けねばならないのだ。元璋は唇を噛みしめながら、なおも迷っていた。だが未来のためにはこの賭けに乗らざるをえない。苦渋に満ちた表情で元璋は拱手し、全てを徐達に託した。
このような密議がされていようとは露知らず、太平の婦女玉帛を目指し、兵士たちの士気は高まるばかりであった。
四
六月二日。
朝から炎天下で、将から兵に至るまで汗だくになりながら太平に進撃した。
太平を守るは蒙古人の万戸(総司令)・ナガチュと、総管(副司令)・靳義(きんぎ)であった。
元璋は太平を遠望しながら、善長に敵情を尋ねた。
「太平の総帥は蒙古人であったな」
「はい。ですが万戸のナガチュは蒼き狼の末裔とは思えないほどの腰抜けで、餌をむさぼる豚に過ぎませぬ」
「副将の靳義は?」
「彼は忠義に篤く、文武両道に秀でた者。これまで太平が保たれてきたのは彼一個の才覚と申し上げても過言ではございませぬ」
「そなたは檄文と投降文をしたためよ」
「承知。内容は……降伏せねば皆殺しとし、投降すれば身の安全を保障すると――」
「そうだ。それとナガチュのことも記すのだ」
「ナガチュはすでに我が身の保全を図り朱軍に寝返った、とでも?」
元璋はにやりと微笑み、あとは何も言わなかった。
善長の言った通り、城内においてナガチュは全くもって信頼されていない。
彼が裏切ると言っても民たちは疑いもせず、檄文と投降文だけで太平を内部から崩壊させることを元璋は期待した。
善長はすぐさま檄文をしたためると、遇春と鄧愈に矢文として城内に射ることを依頼した。
策は見事、図に当たった。予想通りナガチュが投降したと、太平の将兵すべてが憤った。さらにナガチュは長年にわたって搾取していたために、太平の人々は機会があれば復讐しようと狙っていた。これまでナガチュが大軍を擁していたために、誰も反旗を翻すことが出来なかったが、彼は裏切り、かつ投降を求める朱軍が眼前に迫っている中、太平の人々が取る道は一つであった。城内で反ナガチュ派を取りまとめていたのは、学者の陶安(とうあん)と、父老代表の李習(りしゅう)の二人であった。二人は民衆を結集して公然と反旗を翻したのである。
この頃、矢文の報告を耳にした靳義は、
「してやられた」
と、絶叫した。間もなく城内に火の手が上がったが、打つ手などもはやなかった。
だが彼は忠義の士である。元朝の禄を受けた以上、最期まで朝廷に殉じようと徹底抗戦を試みた。だが朱軍は遇春を先頭に、城壁をよじ登って総攻撃を開始した。多勢に無勢、靳義は必死に戦ったが、如何ともしがたかった。
やがて城内では陶安たちが門を開き、朱軍を誘導し始めた。さらにナガチュは戦いもせず、あっさりと降伏してしまったのである。残された靳義は哀れであった。ナガチュ降伏の知らせを聞くや、
「あの豚め。民の血をすするだけでなく、国家の恩も仇で返すというのか」
と罵った。やがて矢が尽き刀折れた靳義は城壁から身を投げて自害してしまった。
靳義はやはり名将であった。彼の死を悼んだ直属の兵五十名が、果敢にも朱軍に戦いを挑み、悉く名誉ある死を遂げたのである。元璋は名将と、その死に殉じた忠義の士たちの死を憐れんだ。
「彼らは忠義なる士であったが、惜しむらくは主を違えてしまったことであった」
そう言って元璋は落涙し、この忠臣たちのために墓を作って鄭重に葬ってやった。
一方、降伏したナガチュは斬るに値せずとして、身分を剥奪して額に刺青を彫って太平から追放した。
朱軍は采石に続いて電光石火、太平を手に入れることに成功した。
太平に入城した兵たちは目を輝かせながら、いざ略奪をしようとした。だがその時、軍師・善長の名において略奪暴行を厳禁とする旨が下知されたのである。
「約束が違うぞ」
兵士たちが怒り狂ったのも当然であった。いかに禁令が発せられようとも約束は約束だと平然と禁令を破る者も現れ、太平は騒然となった。その禁令を破る者の中に、徐達も含まれており、彼は単身民家に押し入って食糧を強奪したのである。この行動はすぐさま元璋に報告された。
「我が命に背くかッ」
元璋は激怒し、怒り心頭、真っ先に徐達を捕縛するよう厳命を下した。
筋書き通りに事は進んだ。謀臣たちは挙って徐達処刑を進言し、元璋はこれを許可した。
徐将軍斬首――。
この衝撃的な情報は瞬く間に兵士たちに伝わり、朱軍を蓋っていた不平不満はたちどころに消えてしまった。だが問題はここからであった。
善長たちが期待していた徐達の助命嘆願が一向になされなかったのである。このままでは徐達は斬首に処せられてしまう。皮肉なことに、この時になって胡将軍の一件に効力が出てしまい、誰もが委縮して何も言えなくなっていた。湯和は元璋を殴り飛ばしてでも、この処刑を止めさせたかったが、何よりもけじめを大事にする性格が災いとなり、助命嘆願が出来ないでいた。湯和でさえ何も言えないのである。他の者が何も出来ないのは仕方がなかった。
――我が人生もここまでか。
計算が狂った徐達は呆然とせざるを得なかった。
――私は自惚れていたのだ。
どこか徐達は自分を過大評価していた。だがこうして誰も助命を願い出ないところを見れば、自分の人徳など大したことがなかったと自嘲するほかなかった。もはやじたばたしても始まらず、徐達は死を覚悟した。
――同じ死ぬのなら、己の死を朱軍結束のために役立ててほしい。この死を契機に朱軍をさらに強化させ、百年二百年も続くような平穏な世が開くのならば以って瞑すべしだ。
そう徐達は自分の死を定義づけた。
かくして徐達は刑場に引き出され、斬首の大刀が首筋に当てられた。真の馬謖となるべく徐達は心静かに深く目を閉じた。
その時であった。颯爽と救いの神が現れたのである。何とそれは遇春であった。遇春は智将ぶった徐達が嫌いであった。だが誰よりもこの処刑に対し立腹し、我が事のように血相を変えて元璋を諌めた。
――救われた。
元璋は内心安堵の息を漏らした。しかしそうした感情をおくびに出してはならない。
そんな元璋に遇春は噛みつくようにして怒鳴りつけた。
「ご主君は、いつから暗君となられたのです」
元璋は表情を変えず、ただ憮然と遇春をにらみすえている。
「禁令を破りし咎は万死に値いたしましょう。されど未だ天下は収まらず、天徳殿の才覚を天下は欲しておりまする。軍律は泰山より重いものですが、人は国家の礎。その礎をおろそかにして、どうして天下を治めることが出来ましょう。この理を前にしてもまだお斬りになると申されるのなら、この十万の首を刎ねてくださりませ」
この言葉は処刑の空気を大きく一変させた。
それまで我慢をしていた湯和や花雲たちが泣きながら飛び出し、異口同音に徐達の助命を嘆願したのである。やがて元璋は長く息を吐き、一同を見渡した。
「皆の願い、よくわかった。徐達の罪は許されざるものではない。だが……今までの功績に免じて命だけは助けよう。またこのたび、禁令を犯した者も特別に差し許す。ただし、今後、我が命に従わぬ場合はいかなる者でも決して許しはせぬ。たとえ我が血族であろうと、竹馬の友であろうともだ」
この言葉に皆、一斉に拱手した。そして決して禁令を破らぬことを誓い合った。
徐達の賭けは遇春によって成功を収めた。かくして徐達の縄は解かれ、その身は自由になった。
「十万殿……」
何と言っていいかわからないが、徐達は万言を尽くしても礼を述べたかった。だが遇春は素っ気なく、そっぽを向いた。
「智者は智に溺れる。己の徳を売り物にするようなことは二度としないことだ。臣はわしのように一途にご主君と国を想えば良いのだ」
遇春は全て見通していた。一見粗暴に見えるこの大男の中に、大海の如き深慮遠謀が秘められていたのである。徐達はしばらく呆然としたが、良き意味での競争相手が出来たことを心から喜んだ。
「十万殿。これからも競い合いましょう」
この徐達の言葉に遇春は鼻を鳴らすのみであったが、どこか嬉しげな表情をしていた。
この後、二人は朱軍において「徐常」と併称されるようになった。両輪の如く元璋を助け、彼の天下取りに最大の働きを果たすことになるのである。
かくして太平は何事もなく朱軍の管轄下に入り、民政は陶安や李習たちに委ねられた。
また元璋は太平に「太平興国翼元帥府」を開き、自身は府の長である大元帥に就任したのである。
「おのれ、勝手な真似をッ」
この知らせを受けた和州の天祐は激怒し、元璋への憎しみを益々増大させていくのである。
大元帥に登ってから間もなくの事。元璋にとって大きな朗報がもたらされた。太平に移ってきた妾の蔡氏が待望の男子を出生したのである。
名は「標(ひょう)」とされ、朱軍全てがこの慶事を祝った。この標であるが、その養育は嫡母である鈴陶に任された。
――なぜ私が……。
鈴陶は不満であったが、引き受けなければならない理由がある。それは生母の蔡氏が出産して間もなく亡くなってしまったため、断ることは許されなかったからだ。
しかし不思議なもので、実の子でない標を抱いて、赤子の温かみを感じていくうちに、とめどもなく愛情があふれるのを鈴陶は実感していた。
――この子には母がいない。私には子がいない。ならば……。
この私が育てるしかない――。気が付くと鈴陶は涙を流しながら標を優しく抱きしめていた。標もまた小さな手を鈴陶のほおをつかみ、抱きつくのであった。
この小さな生命にわずかながら元璋と鈴陶は人としての幸せを感じていたが、世は乱世の真っ只中である。この幼子ばかりに気を取られている場合ではなかった。
江南に駐屯する蒙古軍が太平を奪還すべく、虎視眈眈と反撃の機会を狙っていた。元璋は赤子を抱いた手に再び血刀を握らなければならなかった。
一
朱元璋の人生において、この時期ほど錯乱したことはなかった。
常に冷静沈着、思慮遠謀が元璋の持ち味であったが、郭子興を王に推戴していた頃は理性を失っていた。
一方。その生涯においてもっとも活発的に動きを見せていたのは張天祐であった。
――これは弔事ではない。慶事だ。
彼は義兄の死をそのようにとらえていた。この機に全軍の指揮権を手中にするため、色々と画策していたのである。
天祐の郭軍における存在意義は何といっても紅巾本軍との繋がりであった。亡き子興が濠州元帥に任じられたのも彼の根回しがあってのことであった。
その天祐がどういうわけか、忽然とその姿を消した。当然ながら脱走したわけではなく、単身、紅巾本軍の拠点である亳州(はくしゅう)に向かい、朱・郭両軍を震撼させる書状を手に和州に戻ってきたのだ。
その書状は小明王の勅書であり、子興亡き後の任官について記されていた。
全軍を統括する都元帥には子興の嫡子・郭天叙が就き、第二位である右副元帥には天祐が任命された。元璋はと言うと第三位の左副元帥であり、天祐たちの風下に置かれることになった。
元璋は出遅れた。天祐如きに遅れを取るなど初めてのことで、元璋は珍しく悔しがった。
「男子たる者、どうしてかの者どもの節制を受けねばならぬのだ」
そのように憤怒し、徐達や李善長にあたり散らしたのである。
徐達は物静かに笑いながら、
「ならば独立なさいますか?」
と、聞いてみた。だが元璋にはいつもの毅然さがまるでなく、ただ言葉を詰まらせてほぞを噛んだ。今、朱軍が独立すれば、郭軍と全面対決をしなければならない。そうなれば濠州の内紛を再現することになるだけであった。
もちろん徐達は本気でこのようなことを提案したのではない。元璋に冷静さを取り戻してもらうためにあえて愚案を提示してみせたのだ。元璋は深く息を吸い、ようやく落ち着きを取り戻した。
「……天徳。俺をけしかけたな?」
徐達はおどけたように恐縮したが、元璋は嘆息しながらゆっくりとうなずいた。かたわらにいた善長はくすくす笑い、机上に地図を広げた。
「過ぎ去りしこと、たわけた話はもう良いでしょう。滁陽王亡き今、我らが頼るべきは己の影のみ。そして向くは後ろではなく、ただ前あるのみ」
「百室の申す通りだ」
元璋は静かに眼を閉じた。
――もはやこれまでか。
元璋らしからぬ言動は徐達と善長の肝を何度冷やしたかわからない。しかし子興が亡くなり、余計な「後ろ盾」を失った。
元璋は甘えている――。
これは鈴陶の見解であったが、それは徐達たちも同じであった。
だがその甘える対象がない今、元璋は己のことは己で守らなければならず、そのために頼るべきは朱軍しかない。元璋は自己防衛のためには是が非でも自分を取り戻さなければならなかった。
元璋はすぐさま諸将を召集した。軍議が開催されると元璋は地図から目を離さず、馮国勝を呼んだ。
「宗異の意見は以前と変わらぬか」
「小局はその都度、移ろうものですが、大局は変わりませぬ。我らが拠るべき地は金陵をおいて他にございません」
「ならば聞く。今すぐ金陵を手中に収めることは可か不可か」
この問いに国勝はかぶりを振った。
「だろうな」
現実主義の元璋はすぐに察し、不敵な笑みを浮かべながら善長に目をやった。
「軍師の意見を訊きたい」
「先日申し上げましたが、まずは江を渡らねばなりませぬ」
「和州を奪ったのは、そのためのはずではなかったか」
本来ならば和州を取った後、すぐさま長江を渡るつもりであった。だが孫徳崖や子興のことがあり、それどころではなかった。徐達は悪童のような顔つきで苦笑した。
「随分と遠回りをされましたな」
元璋も負けてはおらず、餓鬼大将のような面持ちで答えた。
「要らざる口を叩くな。今は江を渡るための船を捜さねばなるまい。また江を渡ったとしてもそのまま金陵を攻めるは難しかろう。船を探し、足がかりとなるべき地を選定するのが大事だ。それまで都元帥と右副元帥には良い夢を見させてやる」
「夢、ですか」
善長は目を細めながら小首をかしげた。
「張天祐たちが出来るのは良き夢を見ることだけだ。我らは夢に溺れることなく、両の足で歩んでゆくのだ」
この心強い言葉に、徐達たちははっとした。臨機応変とは元璋のためにある言葉であった。
――それにしても変わり身の早い。
元璋のことをよく識っているはずの徐達だが、未だわからない部分がこの人には多い。
しかし、と一方で徐達は思う。この乱世で自分たちを安寧に導き、そして青史に名を遺させる人物はやはりこの元璋以外にはいないと確信した。人は必ず過ちを犯す。だが大切なのは過ちを過ちと認め、次なる飛躍に役立てることが、その人の器量と言うものであった。今回の騒動で一段と大きな器になったと徐達たちには思えた。
二
世が乱れる時、必ず奇人と言うべき人物が現れる。それが常遇春(じょうぐうしゅん)であった。
仰ぎ見るような大男で身の丈は九尺。髪は縮れ、右目の下には大きな刀傷がある。見るからに異形の者であった。膂力は人並み外れ、重さ百斤と伝わる禹王の鼎を軽々と持ち上げた。また巨躯にも関わらず、動きが機敏であった。
「あいつは人か獣か、ようわからん」
そう影でささやかれるほど動物との意思疎通が得意で、すぐに打ち解けてしまう。そのためか、どんな荒くれ馬も半日で手懐けてしまい、弓の腕前も一流ということもあって騎射で彼の右に出る者はいなかった。
好んで使う武器は大斧である。斧を担いだ遇春は戦鬼そのもので誰もが恐れをなした。彼が進む姿はまさに縦横無尽、行く手を阻む者はことごとく斧の錆にされてしまった。
字は伯仁(はくじん)と言ったが、どうしたわけか、誰にも自身の字を呼ばせようとしなかった。その代わりに人々に呼ぶよう強要したのは、「十万」というあだ名であった。
遇春曰く。
「我が志は義兵十万を率いて、天下を正すことにある。それゆえ俺のことを常十万と呼ぶのだ」
世が乱れると劉聚(りゅうしゅう)という人物に仕えることにした。劉聚は元末の混乱に乗じて身を立てた男で、遇春は劉軍においてすぐさま頭角を現した。今では劉聚の絶大なる信頼を受け、副将の地位にある。
遇春は期待に応え、よく働いた。しかし次第に劉聚の許で働くことを佳しとしなくなったのである。理由は劉聚その人にあった。
――劉聚は人として悪くないが、所詮は盗賊で小者に過ぎぬ。
遇春の志を満たしてくれる主などそうはいないだろうが、ともかく劉聚を頭に抱くことは彼の自尊心が許さなかったのである。だが遇春は傍若無人のように見えるが、誰よりも忠と義を重んじる。
――志を大きく抱かれよ。そして罪無き者から奪われるな。
何度も諫言したが、劉聚は聞く耳を持たず、群盗であることに満足しきっていた。
遇春は失望した。悩んだ結果、劉聚に見切りを付けて軍から去る決意をした。この退去の方法がいかにも彼らしい豪胆なものであった。
軍を退去するということは命を懸けなければならない。なぜなら退去とは裏切り行為であり、処刑されても仕方がない最大の軍律違反であるからだ。そのため、退去は戦闘中のどさくさに紛れるか、または夜逃げのように夜半出て行くかのいずれかである。ところが遇春はそのような退去は恥辱と考え、白昼堂々暇乞いをしたのだ。
幕舎に入るや、名乗りを挙げるようにして退去することを宣言したのである。
「この常十万、劉主公(聚)の世話になった。だが我が志は天下万民の安寧にある。ゆえにこれ以上、盗人稼業を手助けしたくはない。よって今日を限りに退去させていただく」
大胆不敵とはまさにことであった。当然ながら劉聚は驚き、留めようとした。だが留まるような遇春ではない。
「おのれッ、不忠者めが」
劉聚は激怒し、兵たちに討つよう下知した。だがここからが奇人としての本領発揮であった。手に長さ十尺もの棒を持ち、襲いかかる兵たちをなぎ倒してしまった。さらに体中から異様な殺気を立ち昇らせ、皆を震え上がらせた。
「今までは仲間ゆえ助けて参った。その誼をもって静かに退去する所存であったが、邪魔立てするならば容赦せぬ。命捨てる覚悟あらばかかって参れ。この常十万、手加減はせぬぞッ」
吠えるように叫びながら兵たちを睥睨し、そして畏怖せしめた。遇春の恐ろしさを劉軍で知らぬ者はいない。そのため兵士たちは命惜しさに道を空けざるをえない。
だが敢然と立ち向かう男もいた。劉聚の弟の劉邑(りゅうゆう)で、豪勇をもって知られている。彼は大刀を手に、遇春に襲いかかった。しかしまるで歯が立たず、大刀は折られて子供のようにあしらわれてしまった。遇春はさらに足払いをして、劉邑を地面にひれ伏させた。
「御舎弟殿よ。貴殿にも世話になった。一度だけは生死を共にしたことを思い、お助けいたそう。だが再び立ち向かわれるならば、その首級を頂戴いたす」
この言葉と姿勢に一同は息を呑んだ。
「今一度申す。邪魔立てする者は断じて許さぬ。その首を胴体から離したくないのなら、十万を遮るな」
劉軍は所詮食い詰めた盗賊の集まりである。彼のような剛の者に立ち向かえるような者などいなかった。遇春は立ち上がると皆に拱手し、静かに堂々と去っていった。その姿を劉軍はただ見送るほかなかった。
かくして遇春は劉軍を出奔した。
だが行くあてなどなく、西に東にと流浪したが、彼の眼鏡に適う主などどこにもいなかった。
和州の近郊に和陽という聚落があり、そこにたどり着くと、疲れ果てていた遇春は地面に寝転んでしまった。そして大の字となり、空ゆく雲をただ眺めた。
「誰に仕えて良いのやら。仕える主がいないのであれば、どこか近隣の地を奪って、この十万が主となるしかないな」
そんな物騒なことを口にしたが、行く当てがないということは遇春でも心細い。
遇春は真剣に考えた。だが考えてもよい思案が思い浮かばず、いつの間にか、いびきをかいて眠ってしまっていた。
果てもなく広がる草原――。
気が付くと何もない、青々とした草原の中にいた。ただ心地の良い風が身体に吹きつけている。身体を掻きながら、遇春は背伸びをした。
「うむ……。これは夢か」
遇春は子供の頃からそれが現や夢なのか判別することが出来たが、夢を夢として楽しむことが出来る奇妙な男であった。
呆然と目を細め、周囲を見渡した。すると北東より一人の青年がこちらに向かってくる。
――何と神々しい。
息を忘れて見惚れてしまうほど、その青年の姿は美しかった。
まばゆき黄金の鎧を身にまとい、腰には品の良い白銀の剣を佩いている。また鎧下には純白の戦袍を着用しており、目を凝らしてみると九本の爪を持った龍が刺繍されていた。
――この方は神の御使いに相違ない。ふむ、そうだ。神人であらせられるのだ。
そう思った瞬間、反射的に青年の前に膝間ついていた。その青年――神人は遇春の前に立ち、すっとある方角を指差した。
「目を凝らすが良い。そなたが仕えるべき主君がお見えであるぞ。さあ目を覚まし、真の主を見るが良い」
そう告げると、神人は涼風と共に去って行った。遇春は驚き、顔を上げたがすでに神人はいない。
――あ、もう現だ。
夢でないことを悟るや、慌てて神人の指差した方角に目をやった。
すると驚いたことにその方角から何かが土煙を上げ、南に進んでいるではないか。
――あれは……軍兵か。神人が仰せになられた通りだ。あの軍勢の中に我がご主君がおわすのだ。
そう思うと、矢も盾もたまらず走り出していた。仕えるべき、我が志を受け止めてくれるご主君がそこにいる――そう思うと遇春の胸は張り裂けんばかりに喜びで満ち溢れていった。
神人が示された御人がすぐそこにいる――。
遇春は喜び勇んだ。そして猛然と、その軍勢に駆け寄ったのである。
「何だ、化け物かッ」
只ならぬ者の登場に兵たちは恐れおののき、身構えた。身の丈九尺もの男が髪を乱しながら走ってくるのである。警戒をするなという方が無理であった。だが兵の制止にひるむ遇春ではない。
「そこの男、止まらぬと射かけるぞッ」
そう叫びながら弓を構えたのは湯和で、この軍勢は朱軍であった。
「それがしは懐遠人・常遇春。先ほど神人のお告げを受け、貴軍の主にお仕えするべく参上いたし申した。ご主君はいずこにおわすや」
――気が触れているのではないか?
湯和は一瞬、そう思ったが、気が違えている者とは思えぬほど、その顔つきはあくまで毅然としていた。
「お教え願いたい。貴軍のご主君はどなたか」
遇春のあまりのしつこさについ教えてしまった。
「紅軍左副元帥・朱元璋様だ」
「和州の朱元帥……左様でござったか。朱元帥のご高名はかねがね聞き及んでおります。なるほど朱元帥ならば我がご主君にするに相応しいお方。よし、決めた。今よりこの常十万は朱元帥の家臣となろう」
何と自分本位なことを申す奴か――呆れると同時に腹立たしさを覚えた湯和は断じて許すまいとかぶりを振った。だが遇春はこの程度の制止に頓着する男ではない。カラカラと笑いながら湯和の腕をつかんだ。
「愚か者。そなた如きがわしの行く手を遮ることが出来ようか。察するにこれより戦が始まるのだろう。ならばこの十万が先陣を承るのが道理というものではないか」
「意味のわからぬことを申すなッ」
「わからぬはお主の方だ。この十万がご主君にお仕えするのは神意なのだ。お主のような下郎が口を挟むことではない」
この理不尽な言い様に湯和は激怒した。
――かような怪しからぬ奴、主公に近づけてなるものか。
湯和は血相を変えて愛用の槍を持ってこさせた。
「下郎とはなめたことを申す。得体の知れぬ者を我が君に会わせるなど、この湯鼎臣が許さぬ」
すると今度は遇春が憤然とした。腰紐に差していた大斧を手にした。
「大言を吐くな。井の中の蛙大海を知らず、とはこのことだ。この十万の斧さばきを見た瞬間、うぬはあの世で後悔することになるのだ」
そう叫ぶと、大斧を構えてカカと笑った。
強者は強者を識る。遇春と対峙した途端、湯和はこの男の強さをすぐさま感知した。
――これは類なき剛の者だ。話に聞く尉遅敬徳(うっちけいとく)、秦叔宝(しんしゅくほう)の域に達しているのではないか。
思わず唐代の伝説的豪傑になぞらえてしまうほど、只者ではないと見た。この思いは遇春も同じで、努々油断してはならぬと肝に銘じた。
だが双方今更引くわけにはいかない。異様な殺気と共に両者の槍と斧が激突した。
湯和は空を斬り裂くようにして槍を突き、遇春の斧がそれを防ぐ。防いだ遇春が目にも止まらぬ速さで斧刃を振り回し、今度は湯和が巧みな槍術でこれをかわした。
十合ほど激しく打ち合ったが、一向に勝負はつかない。
腕は互角であり、兵たちは固唾を呑んで見守るほかなかった。なおも打ち合おうとした瞬間、騒ぎを聞きつけてきた徐達が両者の中に割り入ってきた。
「鼎臣殿、お控えあれ」
徐達は馬から飛び降りると、手を振って制止した。
「乱心者を追い払おうとしただけだ」
湯和がそのように弁明をする中、遇春は首をかしげながら徐達を凝視した。
「あなた様が朱元帥でござるか」
そう叫ぶや地面に飛び込むような勢いで平伏したため、徐達も唖然とするしかなかった。
「鼎臣殿。この御仁は確かに常人ではないが、乱心者でもありますまい」
にこにこと笑いながら遇春の手を取った。
「顔をお上げくだされ。申し訳ござらぬが、それがしは朱元帥にあらず。元帥の配下にて徐達と申す者。以後お見知りおきを」
そう挨拶をすると、遇春は奇声を発した。
「朱元帥ではないだとッ。どいつもこいつも神意を何と心得る。つべこべ申さず、この十万をご主君に引き合わせれば良いのだ」
まるで駄々っ子であった。これには徐達は苦笑し、湯和はにがりきった。だがまるで邪気がない遇春の態度に兵たちは好意を込めた目を向け始めていた。
「申し訳ないことをしました。この徐天徳がご主君の許にご案内いたしましょう」
徐達は柔和な笑みを浮かべながら、再び手を取ろうとした。しかし遇春は憤然とその手を払いのけた。
「徐達、天徳と申されたな」
「徐達。字は天徳と申します」
「拙者は常遇春、字は伯仁。いずれは天下安寧のため十万の兵を自在に動かす者となる」
「十万の兵?」
「そうだ。ところで徐天徳殿よ。うぬは己を賢き者と思っているようじゃな」
「そのようなことは……」
「黙られいッ。そもそもそのふにゃふにゃした話し方は何だ。自分を高みに置いているとしか思えぬ。良いか、そなた程度の者は天下に数多くおる。そもそもこの常十万があることを忘れるな」
この啖呵に徐達は怒らなかった。それどころか、
――我が陣営に稀代の奇士が駆けつけてくれた。
という感動の方が、大きかった。
朱軍には奇人が数多いる。だが遇春の奇人ぶりは類がない。
徐達には奇妙な天下論があった。それは乱れた天下を征するに必要なのは遇春のような奇士をどれだけ多く麾下に置くことが出来るかである。
――我らが主公にはその度量がある。
徐達は誰よりも元璋こそ天下を治める度量だと思っている。思っているからこそ我が骨を粉にして身を砕いているのである。だがまだまだ元璋が天下を取るには人材が乏しい。 この眼前の奇士は元璋に仕えるは神意と言う。
――神意……なるほど、その通りだ。
徐達は心内で何度もうなずいた。天下を取るということは無数の正邪から一つでも多くの神意を汲み上げることであり、徐達も湯和もまたその神意で元璋の許に募っている。
感動をしている徐達と対照的に、遇春は勘に触ったらしい。
「軟弱な顔でにやにやしおって。胸糞の悪い」
徐達は咳払いをしながら威儀を正したが、嬉しさがつい顔をほころばせた。これにはさすがの遇春も気味が悪くなった。
「……よくわからぬ奴だ。とにかく、つべこべ申さず、元帥の許に案内せよ」
どうしようもないほど口の悪い男であったが、徐達は気にせずに微笑を浮かべ続けた。
――この男も男だが、天徳も天徳だ。
徐達は遇春をこの上もない「奇士」だと思っていたが、湯和にすれば徐達もまた風変わりな点では劣っていない。
かくして遇春は元璋への拝謁が許された。この時、元璋は鎖帷子のような鎧と、紅い披風(マント)を身に纏っており、鎧下には草原のような鮮緑の戦袍を着用している。
仕えるべき主君――元璋の容貌を食い入るように遇春は観察した。
――容貌は美しくないのが、それがどうした。
遇春は元璋が美丈夫でないことに大いに満足した。偏見も入っているのだろうが、美麗な男にろくな奴はいないというのが遇春の考えであった。
――問題は美醜ではない。大事なのは眼だ。
遇春はその人の良し悪しを見る最適の部分は眼の輝きだと見ている。目がきょろきょろと定まらない者や、卑しい目つきの者はどうしようもない。かつて仕えていた劉聚は卑しい目つきで、その点でも我慢ならなかった。
――だが朱元帥は違う。
遠くをしっかりと見つめているような元璋の瞳が素晴らしい。この常十万の生涯を託すは元璋しかいない――瞬間的にそう確信した。
元璋は実によく人を見ている。同じことでも人を感動させることもあれば、反対に落胆させてしまう場合もある。人と会う時は、必ず下馬をして慇懃に挨拶するのだが、なぜか彼に対しては馬上のままであった。遇春は自分の才覚を売りに来たのではなく、自分を使いこなすことの出来る主君を求めており、威風堂々と接するのが一番だと見たのである。
この予想は的中した。すっかり威に打たれ、感涙さえしていた。
「我が軍に加わりたいのだな」
そう尋ねると、遇春は激しくかぶりを振った。
「いいえ。朱軍にではござりませぬ。この十万がお仕えしたいのは、あなた様ただお一人」
「その気持ちはありがたいが、わしに仕えるということは我が軍の律に従ってもらわねばならぬ。また上将の命はわしの命として従ってもらわねば困る」
「あなた様が軍律を守れとお命じならば生命を賭して守りましょう。またあなた様が選ばれました上将の命を守るは、あなた様の命を守るも同じ。この身を捨てよとお命じならば喜んで捧げましょう。この十万の生命、存分にお使いくださりませ」
遇春は額を地面に叩きつけるようにして拝礼した。
ところで――と元璋は険しい面持ちで劉聚のことを訊いた。
「先日まで劉聚殿の許で働き、副将にまで取り立てられたと聞く。重用されながら、なぜ劉軍を出奔したのか」
このことは重要な問題であった。気まぐれで仕え、気ままに軍を去られては、いかに才覚があろうとも話にならない。場合によっては不忠の者として見せしめに首を刎ねてやろうと考えていた。遇春は姿勢を正しながら、神妙な顔つきで答えた。
「劉聚殿はこの十万を重く用いられました。また恩賞も篤く、その点においては今でも感謝いたしております。ただ惜しむらくは志なく、弱き者から略奪暴行を重ねるだけの姿に失望したのです。古より良禽(りょうきん)は木を選ぶ、と申します。人生は短きもの。乱世に生を享けし男子は、志にこそ命を懸けねばなりませぬ」
この回答を聞いて元璋は安堵した。覇業達成のためにはこのような豪傑こそ軍に加えるべきであった。
「その志の真贋を見せてもらいたい。まずは鼎臣の許で先鋒を務め、しかるべき手柄を立てよ。だが抜け駆けなどは許さぬ。話はそれからだ」
この言葉に遇春は勇奮した。元璋の言うようにまず行動でもって己の志を示さなければならない。
「仰せの如く、湯将軍の先手として戦わせていただきまする」
満面の笑みを浮かべて拝礼をすると、一つのことを尋ねてきた。
「ところでご主君は渡江をお考えなのでしょうか」
「いかにも。江を渡るために船を捜しておる」
「ならば。和州の西にある巣湖(そうこ)に目をお向けなされ。巣湖には廖永安(りょうえいあん)、永仲(えいちゅう)兄弟、そして兪廷玉(ゆていぎょく)と申す湖賊がおりまする。この者たちは一万ほどの水軍を擁しておりますが、近隣の廬州(ろしゅう)に巣食う盗賊・左君弼(さくんひつ)のために逼迫しております。巣湖の者たちは生きるために賊をいたしておりますが、いずれも志高き者ばかり。ご主君が帰順を呼びかければ、喜んで味方に馳せ参じましょう」
この進言は元璋を喜ばせた。巣湖の水軍を味方に出来れば大事は成ったのも同然である。
「良きことを教えてくれた。ならばそなたを先導とし、この元璋自らが彼らを説諭しよう」
これには周囲は驚いた。だが元璋は己の危険など頓着しておらず穏やかに笑みを浮かべている。
「虎穴に入らずんば虎児を得ず。船が入らなければ我らを待つは自滅のみ。志ある者には礼をもって接しなければならぬ。それに、だ」
元璋は下馬すると、染み入るような笑顔で遇春の肩を叩いた。
「この十万が我が身を守ってくれよう。そうであろう、常十万」
この言葉に遇春は激しくうなずき、再び涙で満面を濡らした。
それにしても元璋とは何と豪胆な男であることか。遇春は自身を剛の者と自負してきていたが、元璋にはとても敵わなかった。そしてやはり己の生涯を賭けるのは、この人物しかいないと、改めて確信した。
遇春は少年のように顔を紅潮させ、案内役を拝命した。何としても元璋の身を守り、巣湖の水軍たちを主君に献上出来るよう知力を振りしぼる覚悟を定めた。
いよいよ巣湖に出立の折、元璋は馬脚を止めた。
「常十万よ。十万の兵を縦横無尽に動かすことが志だと聞くが、何とも小さな志だな」
首をかしげる遇春に、元璋は愉快そうに哄笑した。
「目指すならば百万の兵を率いる将を目指せ。それでこそ乱世を生きる漢(おとこ)の志というものであろう」
この言葉に遇春は身を震わせながら感動した。この人のためなら生命を捨てても良いと、心底そのように思った。
かくして元璋と遇春は巣湖へ向かった。説得は驚くほど簡単であり、見事水軍を掌中に収めたのである。遇春の熱き説得と、元璋の覚悟が志ある彼らの心を動かした。かくして朱軍は水軍と船を手に入れた。いよいよ大いなる長江を渡り、新天地を目指すのであった。
三
至正十六年六月。
巣湖の水軍を手に入れた元璋は早速軍議を開いた。もちろん廖兄弟と兪廷玉も同席している。水軍を手に入れたからと言って、やみくもに渡江はできない。目指す拠点を定めなければ長江で朱軍は滅亡してしまうだけである。
意見は大きく二つに分かれた。湯和や花雲、費聚(ひしゅう)といった猛将たちは一挙に金陵を衝くべし、と主張した。
一方、徐達や善長、馮兄弟たち知将は対岸の要衝である采石鎮(さいせきちん)を奪い、金陵攻略の足がかりにするべきだと主張した。
双方の意見が夜通し議論されたが、それぞれに分があり、容易に決議されなかった。
金陵攻略派の意見はこうである。
采石鎮は和陽からあまりに近く、警戒されているため多大な被害を受けることが想像される。そこで敵の虚を衝き、一挙に金陵を攻め落とす奇襲策である。
一方采石鎮攻略派はと言うと、奇襲は賭博的で危険すぎると主張していた。
両派が激突する中、元璋は終始無言を貫いた。ただ瞑目して双方の意見に耳を傾けるのみであった。やがて議論が尽くされ、元璋の裁可を待つのみであった。諸将は固唾を呑んで耳を澄ませたが、まだ裁可は下されない。
元璋は目を開けると、巣湖水軍の将たちに視線を向けた。彼らに意見を述べるよう求めたのである。
廖兄弟と廷玉は新参者である。そのため終始発言することを遠慮していた。だがもっとも地理に詳しく、船を知り尽くしているのは彼らである。その意見は傾聴に値する。永安は一礼すると、落ち着いた口調で意見を述べ始めた。
「まず金陵を奇襲される策ですが、無謀だと思われます。たしかに江南の要衝であり、ここを取れば蒙古に与える打撃は大きいでしょう。ですが要衝は敵中深くにあるもの。たとえ金陵を奪っても敵軍に包囲され、必ず滅び去ります」
この言葉に金陵攻略派は沈黙した。では、やはり采石鎮なのか、と思われたが、今度は廷玉がその危険性を指摘した。
「采石鎮は紅巾軍起義より亡き丞相トクトの命にて防備を固めております。元よりかの地は三方を山、前面を江に囲まれた天然の要塞。正面から攻めては容易に攻略出来ませぬ」
「ならば打つ手はないと申すのか」
元璋は眉をひそめた。このまま手をこまねくのか、それとも多大な犠牲を払って渡江するのか――いずれにせよ苦渋の決断が迫られる。
すると幕外から、「ご安心あれ」と、乱入してきた者がいる。
遇春であった。彼はまだ正式に朱軍参加を認められていない。いわゆる陣借の状態で、このような軍議に参加する資格はなかった。だが遇春はそのようなことに頓着する男ではなかった。
「控えよッ」
上将である湯和は下がるよう命じたが、遇春は頑として聞かない。聞かないどころか、「上将のお手前に策ないゆえ具申しているのだ」とまで、言い切ってしまう始末であった。
「ならば十万に良策があるのか」
元璋は険しい表情で尋ねると、遇春は腹中の案を示した。
「目に見える拠点ばかりを思い浮かべてしまいますが、世には盲点というものがござる。采石鎮は要衝であると同時に平素は船着き場として活用されております。ですがその船着場は戦の最中ゆえ封鎖されておりまする」
そう遇春が言いかけると永安があっと声を上げた。
「そうか、そうでしたな。これは迂闊でござった」
元璋以下の陸将には意味がわからなかったが、永安は説明を始めた。
「この付近の江港は采石鎮なのですが、戦時は封鎖されてしまいます。ですが臨時の船着き場として東隣の牛渚磯(ぎゅうしょき)が開放されるのです。平素は廃墟同然ですので、ここから上陸すれば采石鎮の喉元を抑えることが出来ます。また軍の港としては何かと不便なために敵もここを攻めてくるとは予想はいたしますまい」
遇春の提案はまさに敵の虚を衝くものであった。戦に慣れた者はどうしても正面のみに目がいってしまうものだが、遇春は素人としての感覚があり、牛渚磯のような港と呼べない個所に目をつけたのである。ただの暴れ牛かと思われたが、容易ならざる戦略眼を有している。
この遇春の献策にて軍議は一決した。
夜陰に乗じて采石鎮を目指す。そして敵の隙を衝いて急転、牛渚磯を狙い、動揺する采石鎮を一挙に陥落させる。さらに拠点の一つである太平をも手中に収めるといった内容であった。元璋はすぐさま出陣の下知を下そうとしたが、善長が待ったをかけた。
「天候を見ますと二日後の夜に深い霧が包みます。またその間、間諜を使い、盛んに采石鎮を攻めることを流布させてみてはいかがでしょうか」
この意見に異論は出なかった。元璋はようやく渡江の決断を下した。
二日後。善長の予測通り、夕刻になると長江流域は深い霧に包まれた。
この二日間、朱軍では各将が整然と動き、いつでも出撃出来る準備がなされた。敵を少しでも欺くために旗などは伏せられている。操舵は当然、巣湖軍の受け持ちで、白兵戦は湯和たち先鋒軍の仕事であった。上陸すれば血刀を振るって戦わねばならない。
この先鋒軍の中に遇春も加わっている。彼は不思議な男であった。その陽気さは他の将たちをすっかり魅了させ、加わって間もないと言うのに幾人も友が生まれていた。中でも花雲とは気が合うのか、親友の如く親密となっていたし、鄧愈からは兄のように慕われていた。兵たちにも優しく、遇春のためなら命もいらない者は一人や二人ではなかった。湯和とは相変わらずで何かあればすぐに口論となる。だが心底ではたがいに敬慕し合っていた。
「いよいよだな」
口許こそ笑ませているが、湯和の眼光は鋭い。幾多の戦場を経験してきたが、戦前はどうしても緊張してしまう。遇春は平素よりも冷静であるようであった。
「鼎臣殿は戦が恐ろしいのか」
「怖くないという奴は素人さ」
素っ気なく答える湯和に、遇春は「そうさな」と苦笑した。
「この十万も数え切れぬほど戦場に臨んだが、この胃を締めつける感覚はなくならぬもの」
この言葉を湯和は意外に思った。勇猛が服を着て歩いているようなこの男でも人並に緊張していることがどうにも信じられなかったからだ。
――こいつも俺と同じなんだな。
そう湯和は思い直した。
彼も一人の人間である。恐怖もあれば緊張もする。また血気に逸ることがあり、浮足立つこともある。湯和は戦に臨む時、頭髪の毛先から沓先、手にした斧の切っ先まで全てに心を開放することにしている。邪念は油断を招き、場合によっては死に至ってしまう。五感全てを解き放つことこそ戦場を生き残る唯一の道だと考えていた。
同じかどうかはわからぬが、自分と遇春の死生観は似ているのではないか――理屈ではない。埒もないことよと思いながら湯和はそう感じるのであった。
かくして朱軍は進発した。
濃霧の中、一路采石鎮に進撃を開始した。朱軍の目的は気付かれずにぎりぎりまで岸に近づくことであった。早く見つかってしまえば味方の損傷が大きくなり、かつ敵に冷静さを取り戻させることとなる。
だが事は簡単には運ばない。采石鎮まであと一里という場所で、敵兵に気付かれてしまったのである。
その瞬間。けたたましいばかりの鐘鼓が城から鳴り響き、城は防戦体制に入った。
朱軍は一斉に旗を挙げ、城に向けて砲撃を開始した。
ここに両軍の激突が始まった――城側の者は皆そうのように思ったが、朱軍は整然と予想外の動きを見せた。砲撃で威嚇しながら、まっすぐに向かって来ず、左折したのである。
「どこへ向かうつもりだ?」
采石鎮の守将には理解が出来ず、首をかしげた。しばらく朱軍の動きを監察していたが、やがてその目的が牛渚磯にあることを悟ったのである。
「おのれ、裏をかかれたぞッ」
守将は慌てふためいた。守将はすぐさま膝下の兵たちを動かし牛渚磯に急行させたのである。だが軍は人の集団である。集団にとって予想外な状況をすぐさま打破することは、いかに名将といえども至難の技である。果たして朱軍の攻撃に城兵たちは戸惑い、大混乱をきたした。
「今だ、この機を逃すなッ」
朱軍の将たちは口々に叫び、兵たちは懸命に船を江上に疾走させた。目指すは牛渚磯――敵が体制を整えるまでが勝負であった。
敢然と先鋒船の先頭に大斧を手にした遇春が立っている。慌てふためく守兵たちは必死になって遇春に矢を射掛けるが、不思議と彼には当たらない。
矢の嵐を物ともせぬ遇春の船は牛渚磯に上陸を果たした。だが上陸したのは彼の船兵のみで、その数はごくわずかである。牛渚磯兵は容赦なく襲い掛かり、采石鎮からも雲霞の如く援軍がやって来る。
「者共、この常十万を信じろ」
遇春は実に勇ましかった。眉ひとつ動かさず、鬼のような形相で敵兵をにらみすえた。
この姿勢にひるみそうになっていた兵たちは叱咤激励されたのである。
「運は天にあり――。名を青史に留めるは我らのひるまぬ心だ。命を惜しむは死を招き、恥辱を恐れるなら生をつかむ。者共、命を惜しむな、名こそ惜しめッ」
将の勇気はそのまま兵たちに伝播した。遇春率いる一団は鬼と化し、牛渚磯兵たちに襲いかかった。
勝敗の分かれ目は戦う者の狂気にある。生命を惜しむ正気の者は、名を惜しむ狂気の者に敗れる。遇春は全身から鬼気をほとばしらせ、敵兵に向かっていった。
大斧を振り回し、当たるを幸いに兵をなぎ倒していった。また至る所に火をつけ、柵を壊して、後続の者たちが続きやすいように行動した。
遇春の勇猛さは他の先鋒軍を奮起させた。
先鋒軍の奮起はやがて朱軍全体に広がり、それに反して牛渚磯の兵たちは恐れをなした。その恐れはやがて彼らから戦意を奪い、総崩れの様相を呈した。
遇春が上陸してわずか二刻。牛渚磯は陥落し、朱軍は上陸に成功した。
采石鎮の援軍はすぐさま城に逃げ帰ったが、すっかり浮足立っており、城を逃げ出す兵が後を絶たない。
この好機を元璋は見逃さなかった。息をつかずにすぐさま総攻撃を開始し、水陸同時に采石鎮は攻め立てたのだ。
この時も遇春は獅子奮迅の働きを見せた。果敢に城壁をよじ登り、満身創痍ながら一番乗りを果たしたのである。他の兵や将たちも大いに奮い立ち、次々と城壁を乗り越えていった。
戦において冷静な判断力と勇猛さを失うことは致命的である。采石鎮は将から兵に至るまで大混乱を起こし、一夜明けると、我先にと城を捨てて逃げ去ってしまった。朱軍の渡江作戦は見事成功し、采石鎮を手中に収めた。
采石鎮を奪った元璋は兵たちを休めなかった。
すぐさま太平攻略を命じたのである。このままのんびりと采石鎮に滞在すれば、士気が消沈してしまうと危惧したためである。朱軍は元来、烏合の衆であり、ちょっとしたことで士気が崩れてしまう恐れがあった。采石鎮陥落後、兵たちの気が緩み、和州に戻ろうと言い出す者がいないとも限らない。そのような空気を打破するために元璋は徐達に命じて一計を講じた。
それは和州に戻るための船をことごとく破壊せしめ、退路を断ってしまったのである。船がなければ和州に戻ることが出来ず、生きるためには太平を奪取する他ない。
元璋は悲壮感漂う将兵たちに檄を飛ばした。
「我らは進む他、道がなくなった。だが采石鎮を落とした我らの勢いは天をも衝かんばかりに高まっておる。太平は采石と比べ物にならぬほど富裕の地と聞く。太平を手に入れたならば我らは富貴を手にすることが出来るのだ」
この檄は二つの効果があった。
一つは士気をさらに昂揚させたこと。これにて太平を一気に落とすことも夢ではない。
もう一つは采石での略奪暴行を防ぐため。実は采石陥落後、勢いに乗った兵士たちが各方面で略奪暴行に走った旨が報告されていた。そこで太平という餌をぶら下げることによって采石を守ったのである。
だがなぜ采石では略奪暴行の禁令を出さなかったと言えば、一気に太平まで奪わなければ今後の戦略に大きな支障をきたすからであった。
采石鎮は渡江の拠点であるが、要衝ではない。金陵を攻めるのなら、太平まで一気に落とさなければならない。そのためには士気の昂揚こそが大事で、下手に禁令を発布すれば士気低下にも繋がりかねない。毒は使い様によっては薬となる。元璋は禁断の手を使うことにしたのである。
太平進撃前夜。
徐達や善長など主なる謀将たちが密かに招聘された。その中には猛将たちは含まれていない。
「今宵の議は戦についてではなく、戦が終わった後のことでござる」
善長は席に着くや否や、先走ったことを口にした。元璋は笑いもせずにうなずく。
「嘘も時には必要だ」
言葉少ないが、善長たちはこのたび発した檄の真意を見抜いており、一様にうなずいた。
「わしは百室の言に従い、高祖皇帝を手本として戦ってきた。高祖が天下を平定したのは不殺不奪を掲げたため……そうであったな」
「仰せの通り」
「渡江に成功し、士気は大いに高まった。だが士気の高まりは狂気に通じる。狂気は人から見境を奪い、危うく采石では民に害をなすところであった」
「胡将軍ご子息一人だけでは効が少ないようですな」
国勝は眉間にしわをよせながら、静かに目を閉じた。
「ここは兵たちの心胆寒からしめる、一罰百戒こそが肝要でしょう」
「心胆寒からしめる、か」
元璋は深く目を閉じ、腕を組んだ。心胆寒からしめると言っても、そのような方法が容易にあるはずもない。善長たちは良き策がないか考えを巡らせた。すると真剣な表情をした徐達が、
「胡将軍には申し訳ないのですが……」
と、重々しく口を開いた。
「胡将軍のご子息では真の馬謖に成りえなかったのでしょう」
「真の馬謖?」
元璋は眉をしかめながら首をかしげた。
「胡将軍は才にあふれ、徳高きお方。しかし鐘離出身でもなければ濠州以来の同志でもありませぬ」
「つまり新参者である、と」
「御意。ここは我が君にとって股肱の者を生贄にしなければ、とても一罰百戒にはなりますまい」
「股肱の者……。はて、天徳は誰が良いと申すのか」
「畏れながら……」
徐達は言葉を止め、元璋の眼を見つめた。
「眼前に控えております」
そう言って自身を指差した。一同はあまりの提案に身を凍らせ、息を忘れてしまった。
徐達が朱軍において、いや元璋にとってかけがえのない人物であることは誰でも知っている。その徐達が情け容赦なく処刑されてしまえば、全軍を引き締めるに絶大な効果を与えるのは間違いなかった。
「戯言を申すなっ」
あまりの提案に元璋は怒鳴り声を上げた。これからまだまだ戦いは続く。いやこれまで以上に大きな戦や困難が朱軍に立ちはだかるに違いない。そうした時、徐達はなくてはならない逸材であり、いかに軍律厳守を知らしめる効果があったとしても、徐達を失っては朱軍にとって致命的な損害となってしまう。国勝は面を冒して、この提案を撤回させようとした。しかし徐達は微笑するだけで撤回しようとしない。皆、蒼白となっていたが、ただ一人善長だけは目許を笑ませながらうなずいた。
「天徳殿のお気持ち、ありがたくお受けしましょう」
だが元璋は否とも応とも言えず、顔を強張らせた。
「我が君――」
そんな主の顔を見て、善長は小さく笑い出した。
「いやはや。本気にされても困りますな」
「百室、まさか?」
「ご推察の通り。これは天徳殿の演技でござりまするよ」
善長が微笑みながら振り向くと、徐達は無言でうなずいた。だがな、と元璋は難を示した。
「あからさまな演技とわかっては意味がない。いや意味がないどころか兵の不信を招き、以後禁令の効がなくなるぞ」
この懸念はもっともであった。しかし善長はゆっくりとかぶりを振った。
「ここにいる皆様方、つまり我が軍で智謀高き方々が揃って処罰せよと奏上し、我が君が烈火の如くお怒りになれば誰も演技だとは気付きますまい」
徐達もその通りだとうなずいたが、国勝は納得しなかった。
「それでは天徳殿を斬るしかなくなる」
この懸念は当然であった。皆が進言し、元璋がこれを認める。そうなれば誰も止めることが出来なくなってしまう。しかし国用は善長たちの思惑に理解を示した。
「つまり天徳殿の徳に賭けよとお考えなのか」
徐達は、「さすがは妙山(国用の号)殿」と褒め、その真意を話した。
「もし天がこの徐達を必要だと思召しならば、助命嘆願されましょう。しかし徳なく天に見放されたならばそれまでのこと。またここまでなさねばとても一罰百戒にはなりますまい」
徐達の覚悟は本気であった。
采石と太平の民を守り、そして士気を下げないためには徐達の命の一つや二つ、賭けねばならないのだ。元璋は唇を噛みしめながら、なおも迷っていた。だが未来のためにはこの賭けに乗らざるをえない。苦渋に満ちた表情で元璋は拱手し、全てを徐達に託した。
このような密議がされていようとは露知らず、太平の婦女玉帛を目指し、兵士たちの士気は高まるばかりであった。
四
六月二日。
朝から炎天下で、将から兵に至るまで汗だくになりながら太平に進撃した。
太平を守るは蒙古人の万戸(総司令)・ナガチュと、総管(副司令)・靳義(きんぎ)であった。
元璋は太平を遠望しながら、善長に敵情を尋ねた。
「太平の総帥は蒙古人であったな」
「はい。ですが万戸のナガチュは蒼き狼の末裔とは思えないほどの腰抜けで、餌をむさぼる豚に過ぎませぬ」
「副将の靳義は?」
「彼は忠義に篤く、文武両道に秀でた者。これまで太平が保たれてきたのは彼一個の才覚と申し上げても過言ではございませぬ」
「そなたは檄文と投降文をしたためよ」
「承知。内容は……降伏せねば皆殺しとし、投降すれば身の安全を保障すると――」
「そうだ。それとナガチュのことも記すのだ」
「ナガチュはすでに我が身の保全を図り朱軍に寝返った、とでも?」
元璋はにやりと微笑み、あとは何も言わなかった。
善長の言った通り、城内においてナガチュは全くもって信頼されていない。
彼が裏切ると言っても民たちは疑いもせず、檄文と投降文だけで太平を内部から崩壊させることを元璋は期待した。
善長はすぐさま檄文をしたためると、遇春と鄧愈に矢文として城内に射ることを依頼した。
策は見事、図に当たった。予想通りナガチュが投降したと、太平の将兵すべてが憤った。さらにナガチュは長年にわたって搾取していたために、太平の人々は機会があれば復讐しようと狙っていた。これまでナガチュが大軍を擁していたために、誰も反旗を翻すことが出来なかったが、彼は裏切り、かつ投降を求める朱軍が眼前に迫っている中、太平の人々が取る道は一つであった。城内で反ナガチュ派を取りまとめていたのは、学者の陶安(とうあん)と、父老代表の李習(りしゅう)の二人であった。二人は民衆を結集して公然と反旗を翻したのである。
この頃、矢文の報告を耳にした靳義は、
「してやられた」
と、絶叫した。間もなく城内に火の手が上がったが、打つ手などもはやなかった。
だが彼は忠義の士である。元朝の禄を受けた以上、最期まで朝廷に殉じようと徹底抗戦を試みた。だが朱軍は遇春を先頭に、城壁をよじ登って総攻撃を開始した。多勢に無勢、靳義は必死に戦ったが、如何ともしがたかった。
やがて城内では陶安たちが門を開き、朱軍を誘導し始めた。さらにナガチュは戦いもせず、あっさりと降伏してしまったのである。残された靳義は哀れであった。ナガチュ降伏の知らせを聞くや、
「あの豚め。民の血をすするだけでなく、国家の恩も仇で返すというのか」
と罵った。やがて矢が尽き刀折れた靳義は城壁から身を投げて自害してしまった。
靳義はやはり名将であった。彼の死を悼んだ直属の兵五十名が、果敢にも朱軍に戦いを挑み、悉く名誉ある死を遂げたのである。元璋は名将と、その死に殉じた忠義の士たちの死を憐れんだ。
「彼らは忠義なる士であったが、惜しむらくは主を違えてしまったことであった」
そう言って元璋は落涙し、この忠臣たちのために墓を作って鄭重に葬ってやった。
一方、降伏したナガチュは斬るに値せずとして、身分を剥奪して額に刺青を彫って太平から追放した。
朱軍は采石に続いて電光石火、太平を手に入れることに成功した。
太平に入城した兵たちは目を輝かせながら、いざ略奪をしようとした。だがその時、軍師・善長の名において略奪暴行を厳禁とする旨が下知されたのである。
「約束が違うぞ」
兵士たちが怒り狂ったのも当然であった。いかに禁令が発せられようとも約束は約束だと平然と禁令を破る者も現れ、太平は騒然となった。その禁令を破る者の中に、徐達も含まれており、彼は単身民家に押し入って食糧を強奪したのである。この行動はすぐさま元璋に報告された。
「我が命に背くかッ」
元璋は激怒し、怒り心頭、真っ先に徐達を捕縛するよう厳命を下した。
筋書き通りに事は進んだ。謀臣たちは挙って徐達処刑を進言し、元璋はこれを許可した。
徐将軍斬首――。
この衝撃的な情報は瞬く間に兵士たちに伝わり、朱軍を蓋っていた不平不満はたちどころに消えてしまった。だが問題はここからであった。
善長たちが期待していた徐達の助命嘆願が一向になされなかったのである。このままでは徐達は斬首に処せられてしまう。皮肉なことに、この時になって胡将軍の一件に効力が出てしまい、誰もが委縮して何も言えなくなっていた。湯和は元璋を殴り飛ばしてでも、この処刑を止めさせたかったが、何よりもけじめを大事にする性格が災いとなり、助命嘆願が出来ないでいた。湯和でさえ何も言えないのである。他の者が何も出来ないのは仕方がなかった。
――我が人生もここまでか。
計算が狂った徐達は呆然とせざるを得なかった。
――私は自惚れていたのだ。
どこか徐達は自分を過大評価していた。だがこうして誰も助命を願い出ないところを見れば、自分の人徳など大したことがなかったと自嘲するほかなかった。もはやじたばたしても始まらず、徐達は死を覚悟した。
――同じ死ぬのなら、己の死を朱軍結束のために役立ててほしい。この死を契機に朱軍をさらに強化させ、百年二百年も続くような平穏な世が開くのならば以って瞑すべしだ。
そう徐達は自分の死を定義づけた。
かくして徐達は刑場に引き出され、斬首の大刀が首筋に当てられた。真の馬謖となるべく徐達は心静かに深く目を閉じた。
その時であった。颯爽と救いの神が現れたのである。何とそれは遇春であった。遇春は智将ぶった徐達が嫌いであった。だが誰よりもこの処刑に対し立腹し、我が事のように血相を変えて元璋を諌めた。
――救われた。
元璋は内心安堵の息を漏らした。しかしそうした感情をおくびに出してはならない。
そんな元璋に遇春は噛みつくようにして怒鳴りつけた。
「ご主君は、いつから暗君となられたのです」
元璋は表情を変えず、ただ憮然と遇春をにらみすえている。
「禁令を破りし咎は万死に値いたしましょう。されど未だ天下は収まらず、天徳殿の才覚を天下は欲しておりまする。軍律は泰山より重いものですが、人は国家の礎。その礎をおろそかにして、どうして天下を治めることが出来ましょう。この理を前にしてもまだお斬りになると申されるのなら、この十万の首を刎ねてくださりませ」
この言葉は処刑の空気を大きく一変させた。
それまで我慢をしていた湯和や花雲たちが泣きながら飛び出し、異口同音に徐達の助命を嘆願したのである。やがて元璋は長く息を吐き、一同を見渡した。
「皆の願い、よくわかった。徐達の罪は許されざるものではない。だが……今までの功績に免じて命だけは助けよう。またこのたび、禁令を犯した者も特別に差し許す。ただし、今後、我が命に従わぬ場合はいかなる者でも決して許しはせぬ。たとえ我が血族であろうと、竹馬の友であろうともだ」
この言葉に皆、一斉に拱手した。そして決して禁令を破らぬことを誓い合った。
徐達の賭けは遇春によって成功を収めた。かくして徐達の縄は解かれ、その身は自由になった。
「十万殿……」
何と言っていいかわからないが、徐達は万言を尽くしても礼を述べたかった。だが遇春は素っ気なく、そっぽを向いた。
「智者は智に溺れる。己の徳を売り物にするようなことは二度としないことだ。臣はわしのように一途にご主君と国を想えば良いのだ」
遇春は全て見通していた。一見粗暴に見えるこの大男の中に、大海の如き深慮遠謀が秘められていたのである。徐達はしばらく呆然としたが、良き意味での競争相手が出来たことを心から喜んだ。
「十万殿。これからも競い合いましょう」
この徐達の言葉に遇春は鼻を鳴らすのみであったが、どこか嬉しげな表情をしていた。
この後、二人は朱軍において「徐常」と併称されるようになった。両輪の如く元璋を助け、彼の天下取りに最大の働きを果たすことになるのである。
かくして太平は何事もなく朱軍の管轄下に入り、民政は陶安や李習たちに委ねられた。
また元璋は太平に「太平興国翼元帥府」を開き、自身は府の長である大元帥に就任したのである。
「おのれ、勝手な真似をッ」
この知らせを受けた和州の天祐は激怒し、元璋への憎しみを益々増大させていくのである。
大元帥に登ってから間もなくの事。元璋にとって大きな朗報がもたらされた。太平に移ってきた妾の蔡氏が待望の男子を出生したのである。
名は「標(ひょう)」とされ、朱軍全てがこの慶事を祝った。この標であるが、その養育は嫡母である鈴陶に任された。
――なぜ私が……。
鈴陶は不満であったが、引き受けなければならない理由がある。それは生母の蔡氏が出産して間もなく亡くなってしまったため、断ることは許されなかったからだ。
しかし不思議なもので、実の子でない標を抱いて、赤子の温かみを感じていくうちに、とめどもなく愛情があふれるのを鈴陶は実感していた。
――この子には母がいない。私には子がいない。ならば……。
この私が育てるしかない――。気が付くと鈴陶は涙を流しながら標を優しく抱きしめていた。標もまた小さな手を鈴陶のほおをつかみ、抱きつくのであった。
この小さな生命にわずかながら元璋と鈴陶は人としての幸せを感じていたが、世は乱世の真っ只中である。この幼子ばかりに気を取られている場合ではなかった。
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