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第三章『叡智を求める者』
第百八十三話『背負った役割』
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「は、あ……ッ⁉」
風の球体に起きた異変に気が付いて、リリスは悲鳴とも何とも言えない声を上げる。何度も続く理解不能の事態は、リリスほどの状況処理能力をもってしても理解が追いつかないものであるらしい。
当然、俺の思考も混乱してばかりだ。まだダメージから立ち直っていないのかと自分に問いたくなるくらいに、現状が正しく認識できない。……先の咆哮で消し飛ばされたのか、影の領域もいつの間にか俺たちの周りから消滅していた。
それをなしたのがあの咆哮だとするならば、魔術中心で戦闘をする二人にとってそれはあまりにも危険な技だ。できる限り魔力も魔術神経も損耗したくないこの状況下で、魔術そのものを機能不全に陥らせる行動はあまりにも凶悪が過ぎる。
そして、何より問題なのはそれが『咆哮』であるというところだ。どういう原理でそうなってるかはともかくとしても、足踏みは足さえあればできるだろうからな。肉塊になっても触手だけを生やしてこちらに差し向けてきたという前例がある以上、それができたってなにも不思議ではない。
だが、咆哮はどう考えても口がなければできないものだ。……それはつまり、あの肉塊の再生は俺たちが目にしたところからさらに次の段階へと駒を進めているという証明にほかならなくて――
「……っはは、冗談キツイな……」
――その予感通りの肉塊、いや狼の姿に、俺は思わず笑みをこぼすしかない。……初めて俺たちと対峙した時と変わらない狼の姿が、俺たちの目の前にはあった。
ご丁寧に背中から生える触手も再生していて、攻撃態勢は万全といったところだ。俺たちが目指すこの部屋の出口までは十メートルもないが、それだけ移動する間に狼は何かしらの行動をとれてしまうだろう。狼とすでに敵対関係にある以上、逃走する俺たちを見て何もしてこないとは到底思えなかった。
「…………あれだけグチャグチャにされても、まだ足りないみたいね」
完全な再生を遂げた狼を見据えて、リリスはすっと体の向きを変える。ゆったりと、しかし不快感を前面に押し出したその歩みは、狼の方へと向けられていた。
きっとリリスも、俺と同じような結論にたどり着いたのだろう。あの狼から何とかして猶予をもぎ取らなければ、俺たちの脱出は不可能だということを。……そして、そのためには絶対にリリスの力が必要だということも。
「……リリス、体は……」
「大丈夫よ。……だから、心配しないで」
つかつかと歩いていくその後ろ姿に、ノアが心配そうな声をかける。……しかし、リリスは振り返ることなくその言葉を遮った。
「まだ私の体は動く。全身の魔術神経は応えてくれる。……なら、やるしかないでしょ。マルクたちが信じてくれている私の役割から、私は逃げるわけにはいかないの」
背後に無数の氷の槍を装填しながら、リリスは力強く、噛み締めるようにリリスはノアの心配を一蹴する。……その後ろ姿に、俺は思わず息を呑んだ。
「私はリリス・アーガスト。いずれ王都最強になるパーティ、『夜明けの灯』の最高戦力。……それが、こんなところで折れるわけにはいかないのよ」
言葉を締めくくられると同時、リリスの右手には剣が握られる。……誓いといってもいいその言葉に寄り添うかのように、ツバキの影がリリスを包み込んだ。
身体的な負担を考えると、最初の接敵で見せた全力全開を出すことはもう不可能といっていいだろう。それはツバキたちもわかっているのか、全身の強化ではなく局所的な強化へと留めている。影の刃はもう操れないが、それが今振り絞れるリリスたちの全力であることに変わりはなかった。
「マルク、よく見てなさい。ちゃちゃっともう一回ひき肉にしてあげるから」
「ああ。……頼りにしてるぞ、リリス」
もう何度口にしたかわからない言葉を、俺はリリスの背中へ向けて贈る。もう少し気の利いた表現ができればいいのだけれど、ぱっとそれをひねり出せない自分が恨めしかった。
だがしかし、リリスにとってその言葉は嬉しいものだったのかもしれない。……狼へと向かう足取りが、その言葉を受けて少しだけ軽くなったような気がした。
「……リリスはね、本当に強くなったんだよ。商会にいた時もそりゃもちろん強かったけど、今はその何倍も強い。あの子は、優しい子だからね」
その後ろ姿に影のエールを贈りながら、ツバキは俺にそう切り出してくる。リリスに影魔術のすべてを預けているときの神妙な表情と違って、言葉を交わすことができる今のツバキの表情は穏やかなものだった。……まるで、愛娘の成長を慈しんでいるかのように。
「守りたいものが増えるほど、きっとあの子はどんどん強くなっていくんだ。……当然、君もその枠組みの中に入ってるんだよ?」
俺の方に視線をやりながら、ツバキは柔らかい笑みを浮かべる。その指摘は的を射ているような気がして、俺は思わず目を細めた。
リリス・アーガストは、間違いなく優しい少女だ。初めて出会ったときから、その優しさは隠し切れないでそこにあった。そうじゃなきゃ、どうして奴隷の身に落ちながら親友のことを想えるだろうか。不良在庫になることも言いなりになることも覚悟しながら、『タルタロスの大獄』に行きたいなどと言えるだろうか。……そこを攻略するための一番の武器である魔術も、一切使えなくなってたっていうのに。
修復術なんて聞いたこともない魔術のことを信じてくれたのも、きっとリリスが優しいからなのだろう。……信じてよかったって思えるだけのものをリリスに返してあげられているかは、ちょっと自信が持てないけれど。
「……ありがたいな。守りたいって、そう思ってもらえるのはさ」
「そういうのはボクにじゃなくてリリスに直接伝えるべきだね。……君がそう思っている限り、あの子は意地でもマルクを守ろうとするだろうからさ」
思わず口からこぼれたつぶやきに、ツバキは苦笑しながら返す。それもそうかと思い直して、俺はリリスの後ろ姿に再び意識を戻した。
「……思いっきりやってこい。俺がいる限り、お前を壊させたりなんかしねえからさ」
一人前線に向かっていくその背中に、俺は小声でそう告げる。俺が生きている限りはどれだけ無茶をしても俺が修復するし、ツバキだって影の支援を全力で回してくれるだろう。……決して、リリスの戦場は孤独なんかではない。
リリスと狼の距離はゆったりと縮まり、お互いに好機を見計らっているかのようなひりついた時間が流れている。やはり一度ひき肉にされた相手だということは記憶しているのか、リリスに対する狼の警戒心は頂点まで達しているようだ。
「……十分痛い目を見せたと思うんだけど、まだ躾が足りなかったみたいね。……いいわ、それじゃあもっと体に叩きこんであげる」
その緊張感を破るかのように、リリスが冷たい声を発する。それと同時、リリスが従える氷の槍が一斉に狼へと照準を定めて――
「……永遠にそこで伏せってなさい、犬っころ‼」
苛烈な言葉と同時、それらすべてが狼に向かって打ち放たれる。……狼とリリスの二度目の戦いの火蓋が、冷たい一撃によって切って落とされた。
風の球体に起きた異変に気が付いて、リリスは悲鳴とも何とも言えない声を上げる。何度も続く理解不能の事態は、リリスほどの状況処理能力をもってしても理解が追いつかないものであるらしい。
当然、俺の思考も混乱してばかりだ。まだダメージから立ち直っていないのかと自分に問いたくなるくらいに、現状が正しく認識できない。……先の咆哮で消し飛ばされたのか、影の領域もいつの間にか俺たちの周りから消滅していた。
それをなしたのがあの咆哮だとするならば、魔術中心で戦闘をする二人にとってそれはあまりにも危険な技だ。できる限り魔力も魔術神経も損耗したくないこの状況下で、魔術そのものを機能不全に陥らせる行動はあまりにも凶悪が過ぎる。
そして、何より問題なのはそれが『咆哮』であるというところだ。どういう原理でそうなってるかはともかくとしても、足踏みは足さえあればできるだろうからな。肉塊になっても触手だけを生やしてこちらに差し向けてきたという前例がある以上、それができたってなにも不思議ではない。
だが、咆哮はどう考えても口がなければできないものだ。……それはつまり、あの肉塊の再生は俺たちが目にしたところからさらに次の段階へと駒を進めているという証明にほかならなくて――
「……っはは、冗談キツイな……」
――その予感通りの肉塊、いや狼の姿に、俺は思わず笑みをこぼすしかない。……初めて俺たちと対峙した時と変わらない狼の姿が、俺たちの目の前にはあった。
ご丁寧に背中から生える触手も再生していて、攻撃態勢は万全といったところだ。俺たちが目指すこの部屋の出口までは十メートルもないが、それだけ移動する間に狼は何かしらの行動をとれてしまうだろう。狼とすでに敵対関係にある以上、逃走する俺たちを見て何もしてこないとは到底思えなかった。
「…………あれだけグチャグチャにされても、まだ足りないみたいね」
完全な再生を遂げた狼を見据えて、リリスはすっと体の向きを変える。ゆったりと、しかし不快感を前面に押し出したその歩みは、狼の方へと向けられていた。
きっとリリスも、俺と同じような結論にたどり着いたのだろう。あの狼から何とかして猶予をもぎ取らなければ、俺たちの脱出は不可能だということを。……そして、そのためには絶対にリリスの力が必要だということも。
「……リリス、体は……」
「大丈夫よ。……だから、心配しないで」
つかつかと歩いていくその後ろ姿に、ノアが心配そうな声をかける。……しかし、リリスは振り返ることなくその言葉を遮った。
「まだ私の体は動く。全身の魔術神経は応えてくれる。……なら、やるしかないでしょ。マルクたちが信じてくれている私の役割から、私は逃げるわけにはいかないの」
背後に無数の氷の槍を装填しながら、リリスは力強く、噛み締めるようにリリスはノアの心配を一蹴する。……その後ろ姿に、俺は思わず息を呑んだ。
「私はリリス・アーガスト。いずれ王都最強になるパーティ、『夜明けの灯』の最高戦力。……それが、こんなところで折れるわけにはいかないのよ」
言葉を締めくくられると同時、リリスの右手には剣が握られる。……誓いといってもいいその言葉に寄り添うかのように、ツバキの影がリリスを包み込んだ。
身体的な負担を考えると、最初の接敵で見せた全力全開を出すことはもう不可能といっていいだろう。それはツバキたちもわかっているのか、全身の強化ではなく局所的な強化へと留めている。影の刃はもう操れないが、それが今振り絞れるリリスたちの全力であることに変わりはなかった。
「マルク、よく見てなさい。ちゃちゃっともう一回ひき肉にしてあげるから」
「ああ。……頼りにしてるぞ、リリス」
もう何度口にしたかわからない言葉を、俺はリリスの背中へ向けて贈る。もう少し気の利いた表現ができればいいのだけれど、ぱっとそれをひねり出せない自分が恨めしかった。
だがしかし、リリスにとってその言葉は嬉しいものだったのかもしれない。……狼へと向かう足取りが、その言葉を受けて少しだけ軽くなったような気がした。
「……リリスはね、本当に強くなったんだよ。商会にいた時もそりゃもちろん強かったけど、今はその何倍も強い。あの子は、優しい子だからね」
その後ろ姿に影のエールを贈りながら、ツバキは俺にそう切り出してくる。リリスに影魔術のすべてを預けているときの神妙な表情と違って、言葉を交わすことができる今のツバキの表情は穏やかなものだった。……まるで、愛娘の成長を慈しんでいるかのように。
「守りたいものが増えるほど、きっとあの子はどんどん強くなっていくんだ。……当然、君もその枠組みの中に入ってるんだよ?」
俺の方に視線をやりながら、ツバキは柔らかい笑みを浮かべる。その指摘は的を射ているような気がして、俺は思わず目を細めた。
リリス・アーガストは、間違いなく優しい少女だ。初めて出会ったときから、その優しさは隠し切れないでそこにあった。そうじゃなきゃ、どうして奴隷の身に落ちながら親友のことを想えるだろうか。不良在庫になることも言いなりになることも覚悟しながら、『タルタロスの大獄』に行きたいなどと言えるだろうか。……そこを攻略するための一番の武器である魔術も、一切使えなくなってたっていうのに。
修復術なんて聞いたこともない魔術のことを信じてくれたのも、きっとリリスが優しいからなのだろう。……信じてよかったって思えるだけのものをリリスに返してあげられているかは、ちょっと自信が持てないけれど。
「……ありがたいな。守りたいって、そう思ってもらえるのはさ」
「そういうのはボクにじゃなくてリリスに直接伝えるべきだね。……君がそう思っている限り、あの子は意地でもマルクを守ろうとするだろうからさ」
思わず口からこぼれたつぶやきに、ツバキは苦笑しながら返す。それもそうかと思い直して、俺はリリスの後ろ姿に再び意識を戻した。
「……思いっきりやってこい。俺がいる限り、お前を壊させたりなんかしねえからさ」
一人前線に向かっていくその背中に、俺は小声でそう告げる。俺が生きている限りはどれだけ無茶をしても俺が修復するし、ツバキだって影の支援を全力で回してくれるだろう。……決して、リリスの戦場は孤独なんかではない。
リリスと狼の距離はゆったりと縮まり、お互いに好機を見計らっているかのようなひりついた時間が流れている。やはり一度ひき肉にされた相手だということは記憶しているのか、リリスに対する狼の警戒心は頂点まで達しているようだ。
「……十分痛い目を見せたと思うんだけど、まだ躾が足りなかったみたいね。……いいわ、それじゃあもっと体に叩きこんであげる」
その緊張感を破るかのように、リリスが冷たい声を発する。それと同時、リリスが従える氷の槍が一斉に狼へと照準を定めて――
「……永遠にそこで伏せってなさい、犬っころ‼」
苛烈な言葉と同時、それらすべてが狼に向かって打ち放たれる。……狼とリリスの二度目の戦いの火蓋が、冷たい一撃によって切って落とされた。
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