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第五章『遠い日の約定』
第四百四十二話『願わくば、隣に』
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取り返しのつかない一歩を歩み出したのだろうという自覚は、レイチェルにもある。
決して超えてはならない一線を越えてしまったような、使ってはいけないエネルギーを使ってしまったかのような。その本質がどこにあるかは分からないが、その結果がレイチェルの身体に及ぼしている影響は明らかだ。
「はあ……か、ひゅう……ッ」
息を吸い、そして吐く。生命を維持するために行わなくてはならない初歩的な行動さえ、今のレイチェルには苦痛を伴うものだ。体の中心に大きな穴を開けられたかのような脱力感は、レイチェルをはっきりと蝕んでいた。
それでも意識を取り落とさずにいられるのは、守り手様にも見せつけた執念がレイチェルの中でまだ熱を持っているからに他ならない。その熱が尽きた時、レイチェルの意識は底知れぬ闇へと落ちていくことだろう。
「……いか……はあッ、ない、と……」
自分の身体だとは思えないほどに重たい体を引きずるようにして絨毯の上を移動し、いつの間にやら開かれていた地下三階への階段へのろのろと向かって行く。すぐにでも立ち上がって二本の足で歩ければよかったのだけれど、今のレイチェルにとってそれは過ぎた願いというものだ。
這いつくばりながらであろうと転がりながらであろうと、少しずつ動けているという時点で僥倖でしかない。……この都市を作り上げた傑物が遺した最高傑作を完全に沈黙させたあの一撃は、それほどに重い代償があって初めて成立するものなのだから。
それがこの先のレイチェルにどんな枷をもたらすのか、何となく予想はできているしそうなる覚悟ももう決まっている。それを受け止めた上で、今は地下三階へと向かうのが何にも勝る優先事項だ。
「待っててって、言ったんだから。……約束は、果たさなくちゃ」
傍から見ればあまりにも不格好に、しかし確実にレイチェルは地下三階へ続く階段へと向かって行く。よしんばここにレイチェル以外の第三者が居たのだとしても、レイチェルはこのみっともない移動方法を選択しただろう。自分の持てる全部を使って前に進むことが、レイチェルが絶対に果たさなくてはいけない責任なのだから。
普段のように歩ければすぐたどり着ける距離を、レイチェルは息を切らし、痛みにこらえながらやっとのことで踏破する。だがしかし、それはあくまで一つの壁を突破したに過ぎなかった。
照明の一つも取り付けられていない暗闇の中に見える階段は、今までのらせん階段と同じようなつくりをしている。少なくとも、転がってどうにかなるもののようには思えなかった。
せっかく戦いを乗り越えたというのに、階段を転げ落ちて意識を失うなど流石に話にならない。――どうにかして、この階段を安全に下りきる方法を考えなければ。
「……ここまで、来れたんだもん」
考える。命の危機に瀕しても冷静さを失わず、大きすぎる代償を支払った今でも変わらずに機能を果たし続けてくれる脳に感謝しながら、安全に守り手様の所へたどり着く方法を考える。――だが、とりあえず二本の足で立てなければどうにもならないという大前提を覆すのは難しいものだ。
体力の回復を待つことも、マルクたちの状況を鑑みると有効ではないだろう。厳密にはまだ約定は果たされておらず、守り手様の魂は器へと還っていない。……そこまで果たして初めて、レイチェルは最低限の贖いを果たしたと言えるのだ。
「……ここで、立ち止まってちゃ――」
前進に力を籠め、酷使された四肢が挙げる悲鳴を全て黙殺しながらレイチェルは打開策を探そうと思索を巡らせる。――そんな彼女への助け舟は、思わぬところから差し伸べられた。
『階段前での停滞を確認。先の戦闘で体力を使い果たし、階段を下れる状況にないと判断します』
試練の終了を告げてからずっと沈黙を貫いてきた機械音声が、倒れ込むレイチェルを見かねたかのようにそんな言葉を紡ぐ。……どこからともなく小さな車輪付きの機械が複数こちらに向かってきたのは、声が上がった直後の事だった。
一瞬にしてそれはレイチェルの周りを取り囲むと、機械から伸びた小さなアームがレイチェルの身体を浮き上がらせる。負傷者を乗せて移動しようとするその様は、自走式の担架と表現するのが一番近しかった。
「……守り手様のところまで、運んでくれるの……?」
『約定を果たす権利を手に入れた物には、それを履行するためにできる最大限の助力を行う。――設計者様はこの試練を間違いなく要求より難解な物へと仕上げましたが、その分だけ突破者への敬意も篤く払うのが設計者様なりの誠意でした』
つまり、試練を正面から打倒したレイチェルには最大限のサポートが行われるという事か。とりあえず、この機械たちがレイチェルの意に反して外へと向かう可能性は考えなくていいらしい。
『設計者様も、しばしば『責任』と言う言葉を口にしておられました。……試練を突破した物には突破したなりの責任が伴うと、そういう事なのでしょう』
「……あなた、本当に用意された言葉しか喋ってないの?」
まるでレイチェルの事を見透かしたようなその言葉に、一度応えられたはずの質問がもう一度口を突いて飛び出す。……ここまでレイチェルの事を慮ってくれたのが百パーセント事前に設計されたことだと考えるのは、あまりに寂しかった。
システムに意志が宿るというのがいったいどんなことなのか、このシステムの事を何も理解していないレイチェルには分からない。けれど、その状態のままで数百年もここを守り続けてきたのだ。……特別なものの一つぐらいあったっていいと思うのは、レイチェルがまだ大人になりきれないことの証なのだろうか。
『お答えした通り、当システムは設計者様により作り上げられたものでしかございません。与えられた役割と与えられた言葉があり、それを元に当システムは約定を履行するために必要な作業を行うのみです』
内心で繰り広げられた問いに『是』と答えるかのように、音声はいつも通りの声色で答える。多分それが真実だし、そこに作為を求めたいのはレイチェルのワガママでしかないのだ。そう思い直して「そっか」なんて言葉を舌の上に乗せようとした、その時の事だった。
『――ですが、当システムには意図不明の空白が存在します。たとえ絶後ではないとしても空前の天才だった設計者様が生み出すはずもない、不自然なものです』
「……っ」
その考えを否定するような返答が耳を打って、レイチェルは思わず目を見開く。……その声は、確かに戸惑いを多分に孕んでいるものであるように聞こえて。
『もしもあなたが当システムに『心』や『意志』を感じたのであれば、それにはこの空白が関係しているのでしょう。……それが設計者様の意図によるものであるかは、当システムには量りかねますが』
「――ううん、それで十分だよ。教えてくれてありがとう」
レイチェルの想いを完全に否定しないその結論に、レイチェルは笑顔を浮かべて感謝を述べる。……それと同時、レイチェルの身体は丁寧に担架の上へと固定された。
特段別れの言葉があったわけでも、激励の言葉をもらったわけでもない。だけど、十分に言葉を交わすことは出来たと思う。……レイチェルにとっても、きっとあの優しいシステムにとっても。
ゆっくりと動き出した担架は、暗く狭い階段を結構な勢いで下っていく。レイチェルの身体に悪影響が出ないギリギリを探るかのようなそのペースには時折肝を冷やしたが、それでも自分一人で下るよりよほど安全に、そして迅速にレイチェルは地下三階へとたどり着いて――
「……これ、が」
地下一階や二階よりも遥かに狭い空間にぽつりと配置されたそれを視界に捉え、思わず息を呑んだ。
今目の前にあるのは、棺と呼ぶほかない代物だ。黒をベースに白い文様が多く刻まれたそれは、天井から放たれる青白い光も相まって神秘的な雰囲気を醸し出している。……触れるものすべてを拒んでしまいそうな冷たさが、そこにはあった。
だが、レイチェルが目指してきたのは確かにここだ。ずっと果たしたかった『約定』は、守り手様との対面は、この棺を解き放つことで初めて叶う。……それを確信させてくれたのは、棺の側面に形作られた小さな半球型のくぼみだった。
気力を振り絞って手を動かし、胸元に戻したペンダントを改めて握りしめる。少なくとも四百年以上もの間、レイチェルの先祖はこうして守り手様の存在を感じ取っていたのだろう。いつか約定が果たされ再会できる日が来ると、そう信じ続けて。……そして今、そのバトンはレイチェルへと託されている。
「……お願い、あのくぼみの近くまで」
本当は二本の足でしっかりと立って守り手様と対面したかったし、それができるぐらい強かったらよかった。初めて顔を合わせる時に倒れ込んでいるなど、ずっとグリンノート家を守り続けてきてくれた精霊に対して失礼が過ぎるというものだ。
けれど、レイチェルは今のこの状況をそう悪く思っているわけでもない。少し前までは背負ったものの重さに負けてうずくまっているしかできなかった自分が、今は動けなくなってでも守り手様と出会おうと死力を尽くす。……たとえそれがどれだけ不格好だったのだとしても、レイチェルは今の自分が嫌いではなかった。
「……お父さん、お母さん」
あの時命を賭けてレイチェルを守ってくれた両親は、この姿を見てくれているだろうか。『自分たちの判断は間違っていなかった』と、そう安堵してくれているだろうか。……そうだったら少しだけ救われるなと、そう思う。
それでも、ここはレイチェルにとってまだスタート地点に過ぎない。レイチェルはきっとまだまだいろんなものを背負って行かなくちゃいけなくて、そうやって進んでいく中できっと新しい責任と出会う事もあるだろう。レイチェルの贖いはここで終わるのではなく、ここからようやく始まるのだ。
「……だからね、守り手様」
震える腕を必死に動かしてペンダントを取り外し、目の前のくぼみへと慎重に近づける。幸いと言うべきか必然と言うべきか、くぼみは守り手様の魂が宿る宝石をぴったりと受け入れた。その宝石がはまっていなかった今までの状況こそが異常だったのではないかと、そんな考えがよぎってしまうぐらいに、
その様をしかと見届けながら、レイチェルは一度大きく目を瞑る。……そして、心に浮かび上がった素直な願いを届けるべく口を開いた。
「……あたしの事、傍で見守っててほしいんだ。きっとこれからも、あたしはいろんなことに出会うと思うから」
手を貸してくれ、とは言わない。力を借りなくてはいけない時が来るかもしれないけれど、最初から守り手様の助力ありきで歩いていくつもりもない。ただ、傍で見届けていてほしいのだ。……贖いながら歩いていく、レイチェル・グリンノートの生き様を。
か細く声を震わせながら、しかしはっきりとレイチェルは守り手様への願いを口にする。それに応えるかのように宝石が強くきらめき始めたのは、レイチェルが言葉を紡ぎ終えた直後の事で。
「見守っててほしい、じゃと? それは妾の台詞じゃ、危なっかしすぎて片時も貴様からは目が離せんわ」
「……あ」
ちゃんと聞くのは二度目の、けれどとてもとても懐かしいような声。呆れを存分に孕みながらも、その奥底にある優しさを隠しきれていないような声。……きっとずっと、レイチェルの傍にいてくれた存在の、声。狭いこの部屋に凛と響き渡ったそれに、レイチェルは思わず息を呑む。気が付けば、一筋の涙が頬を伝っていた。
「安心せい、願われずとも妾はレイチェルとともにある。……何せ、妾は『守り手様』じゃからな」
たとえ器を得ようと、その肩書が消えることなどありえぬことよ――と。
母の瞳によく似た紫色の髪を揺らしながら、守り手様――グリンノート家を影ながら見守り続けた大精霊は愛おしげな笑みをレイチェルへと向ける。二つの国と一人の精霊を巡る壮大な約定は、四百年以上もの時を超えて完全な形で果たされていた。
決して超えてはならない一線を越えてしまったような、使ってはいけないエネルギーを使ってしまったかのような。その本質がどこにあるかは分からないが、その結果がレイチェルの身体に及ぼしている影響は明らかだ。
「はあ……か、ひゅう……ッ」
息を吸い、そして吐く。生命を維持するために行わなくてはならない初歩的な行動さえ、今のレイチェルには苦痛を伴うものだ。体の中心に大きな穴を開けられたかのような脱力感は、レイチェルをはっきりと蝕んでいた。
それでも意識を取り落とさずにいられるのは、守り手様にも見せつけた執念がレイチェルの中でまだ熱を持っているからに他ならない。その熱が尽きた時、レイチェルの意識は底知れぬ闇へと落ちていくことだろう。
「……いか……はあッ、ない、と……」
自分の身体だとは思えないほどに重たい体を引きずるようにして絨毯の上を移動し、いつの間にやら開かれていた地下三階への階段へのろのろと向かって行く。すぐにでも立ち上がって二本の足で歩ければよかったのだけれど、今のレイチェルにとってそれは過ぎた願いというものだ。
這いつくばりながらであろうと転がりながらであろうと、少しずつ動けているという時点で僥倖でしかない。……この都市を作り上げた傑物が遺した最高傑作を完全に沈黙させたあの一撃は、それほどに重い代償があって初めて成立するものなのだから。
それがこの先のレイチェルにどんな枷をもたらすのか、何となく予想はできているしそうなる覚悟ももう決まっている。それを受け止めた上で、今は地下三階へと向かうのが何にも勝る優先事項だ。
「待っててって、言ったんだから。……約束は、果たさなくちゃ」
傍から見ればあまりにも不格好に、しかし確実にレイチェルは地下三階へ続く階段へと向かって行く。よしんばここにレイチェル以外の第三者が居たのだとしても、レイチェルはこのみっともない移動方法を選択しただろう。自分の持てる全部を使って前に進むことが、レイチェルが絶対に果たさなくてはいけない責任なのだから。
普段のように歩ければすぐたどり着ける距離を、レイチェルは息を切らし、痛みにこらえながらやっとのことで踏破する。だがしかし、それはあくまで一つの壁を突破したに過ぎなかった。
照明の一つも取り付けられていない暗闇の中に見える階段は、今までのらせん階段と同じようなつくりをしている。少なくとも、転がってどうにかなるもののようには思えなかった。
せっかく戦いを乗り越えたというのに、階段を転げ落ちて意識を失うなど流石に話にならない。――どうにかして、この階段を安全に下りきる方法を考えなければ。
「……ここまで、来れたんだもん」
考える。命の危機に瀕しても冷静さを失わず、大きすぎる代償を支払った今でも変わらずに機能を果たし続けてくれる脳に感謝しながら、安全に守り手様の所へたどり着く方法を考える。――だが、とりあえず二本の足で立てなければどうにもならないという大前提を覆すのは難しいものだ。
体力の回復を待つことも、マルクたちの状況を鑑みると有効ではないだろう。厳密にはまだ約定は果たされておらず、守り手様の魂は器へと還っていない。……そこまで果たして初めて、レイチェルは最低限の贖いを果たしたと言えるのだ。
「……ここで、立ち止まってちゃ――」
前進に力を籠め、酷使された四肢が挙げる悲鳴を全て黙殺しながらレイチェルは打開策を探そうと思索を巡らせる。――そんな彼女への助け舟は、思わぬところから差し伸べられた。
『階段前での停滞を確認。先の戦闘で体力を使い果たし、階段を下れる状況にないと判断します』
試練の終了を告げてからずっと沈黙を貫いてきた機械音声が、倒れ込むレイチェルを見かねたかのようにそんな言葉を紡ぐ。……どこからともなく小さな車輪付きの機械が複数こちらに向かってきたのは、声が上がった直後の事だった。
一瞬にしてそれはレイチェルの周りを取り囲むと、機械から伸びた小さなアームがレイチェルの身体を浮き上がらせる。負傷者を乗せて移動しようとするその様は、自走式の担架と表現するのが一番近しかった。
「……守り手様のところまで、運んでくれるの……?」
『約定を果たす権利を手に入れた物には、それを履行するためにできる最大限の助力を行う。――設計者様はこの試練を間違いなく要求より難解な物へと仕上げましたが、その分だけ突破者への敬意も篤く払うのが設計者様なりの誠意でした』
つまり、試練を正面から打倒したレイチェルには最大限のサポートが行われるという事か。とりあえず、この機械たちがレイチェルの意に反して外へと向かう可能性は考えなくていいらしい。
『設計者様も、しばしば『責任』と言う言葉を口にしておられました。……試練を突破した物には突破したなりの責任が伴うと、そういう事なのでしょう』
「……あなた、本当に用意された言葉しか喋ってないの?」
まるでレイチェルの事を見透かしたようなその言葉に、一度応えられたはずの質問がもう一度口を突いて飛び出す。……ここまでレイチェルの事を慮ってくれたのが百パーセント事前に設計されたことだと考えるのは、あまりに寂しかった。
システムに意志が宿るというのがいったいどんなことなのか、このシステムの事を何も理解していないレイチェルには分からない。けれど、その状態のままで数百年もここを守り続けてきたのだ。……特別なものの一つぐらいあったっていいと思うのは、レイチェルがまだ大人になりきれないことの証なのだろうか。
『お答えした通り、当システムは設計者様により作り上げられたものでしかございません。与えられた役割と与えられた言葉があり、それを元に当システムは約定を履行するために必要な作業を行うのみです』
内心で繰り広げられた問いに『是』と答えるかのように、音声はいつも通りの声色で答える。多分それが真実だし、そこに作為を求めたいのはレイチェルのワガママでしかないのだ。そう思い直して「そっか」なんて言葉を舌の上に乗せようとした、その時の事だった。
『――ですが、当システムには意図不明の空白が存在します。たとえ絶後ではないとしても空前の天才だった設計者様が生み出すはずもない、不自然なものです』
「……っ」
その考えを否定するような返答が耳を打って、レイチェルは思わず目を見開く。……その声は、確かに戸惑いを多分に孕んでいるものであるように聞こえて。
『もしもあなたが当システムに『心』や『意志』を感じたのであれば、それにはこの空白が関係しているのでしょう。……それが設計者様の意図によるものであるかは、当システムには量りかねますが』
「――ううん、それで十分だよ。教えてくれてありがとう」
レイチェルの想いを完全に否定しないその結論に、レイチェルは笑顔を浮かべて感謝を述べる。……それと同時、レイチェルの身体は丁寧に担架の上へと固定された。
特段別れの言葉があったわけでも、激励の言葉をもらったわけでもない。だけど、十分に言葉を交わすことは出来たと思う。……レイチェルにとっても、きっとあの優しいシステムにとっても。
ゆっくりと動き出した担架は、暗く狭い階段を結構な勢いで下っていく。レイチェルの身体に悪影響が出ないギリギリを探るかのようなそのペースには時折肝を冷やしたが、それでも自分一人で下るよりよほど安全に、そして迅速にレイチェルは地下三階へとたどり着いて――
「……これ、が」
地下一階や二階よりも遥かに狭い空間にぽつりと配置されたそれを視界に捉え、思わず息を呑んだ。
今目の前にあるのは、棺と呼ぶほかない代物だ。黒をベースに白い文様が多く刻まれたそれは、天井から放たれる青白い光も相まって神秘的な雰囲気を醸し出している。……触れるものすべてを拒んでしまいそうな冷たさが、そこにはあった。
だが、レイチェルが目指してきたのは確かにここだ。ずっと果たしたかった『約定』は、守り手様との対面は、この棺を解き放つことで初めて叶う。……それを確信させてくれたのは、棺の側面に形作られた小さな半球型のくぼみだった。
気力を振り絞って手を動かし、胸元に戻したペンダントを改めて握りしめる。少なくとも四百年以上もの間、レイチェルの先祖はこうして守り手様の存在を感じ取っていたのだろう。いつか約定が果たされ再会できる日が来ると、そう信じ続けて。……そして今、そのバトンはレイチェルへと託されている。
「……お願い、あのくぼみの近くまで」
本当は二本の足でしっかりと立って守り手様と対面したかったし、それができるぐらい強かったらよかった。初めて顔を合わせる時に倒れ込んでいるなど、ずっとグリンノート家を守り続けてきてくれた精霊に対して失礼が過ぎるというものだ。
けれど、レイチェルは今のこの状況をそう悪く思っているわけでもない。少し前までは背負ったものの重さに負けてうずくまっているしかできなかった自分が、今は動けなくなってでも守り手様と出会おうと死力を尽くす。……たとえそれがどれだけ不格好だったのだとしても、レイチェルは今の自分が嫌いではなかった。
「……お父さん、お母さん」
あの時命を賭けてレイチェルを守ってくれた両親は、この姿を見てくれているだろうか。『自分たちの判断は間違っていなかった』と、そう安堵してくれているだろうか。……そうだったら少しだけ救われるなと、そう思う。
それでも、ここはレイチェルにとってまだスタート地点に過ぎない。レイチェルはきっとまだまだいろんなものを背負って行かなくちゃいけなくて、そうやって進んでいく中できっと新しい責任と出会う事もあるだろう。レイチェルの贖いはここで終わるのではなく、ここからようやく始まるのだ。
「……だからね、守り手様」
震える腕を必死に動かしてペンダントを取り外し、目の前のくぼみへと慎重に近づける。幸いと言うべきか必然と言うべきか、くぼみは守り手様の魂が宿る宝石をぴったりと受け入れた。その宝石がはまっていなかった今までの状況こそが異常だったのではないかと、そんな考えがよぎってしまうぐらいに、
その様をしかと見届けながら、レイチェルは一度大きく目を瞑る。……そして、心に浮かび上がった素直な願いを届けるべく口を開いた。
「……あたしの事、傍で見守っててほしいんだ。きっとこれからも、あたしはいろんなことに出会うと思うから」
手を貸してくれ、とは言わない。力を借りなくてはいけない時が来るかもしれないけれど、最初から守り手様の助力ありきで歩いていくつもりもない。ただ、傍で見届けていてほしいのだ。……贖いながら歩いていく、レイチェル・グリンノートの生き様を。
か細く声を震わせながら、しかしはっきりとレイチェルは守り手様への願いを口にする。それに応えるかのように宝石が強くきらめき始めたのは、レイチェルが言葉を紡ぎ終えた直後の事で。
「見守っててほしい、じゃと? それは妾の台詞じゃ、危なっかしすぎて片時も貴様からは目が離せんわ」
「……あ」
ちゃんと聞くのは二度目の、けれどとてもとても懐かしいような声。呆れを存分に孕みながらも、その奥底にある優しさを隠しきれていないような声。……きっとずっと、レイチェルの傍にいてくれた存在の、声。狭いこの部屋に凛と響き渡ったそれに、レイチェルは思わず息を呑む。気が付けば、一筋の涙が頬を伝っていた。
「安心せい、願われずとも妾はレイチェルとともにある。……何せ、妾は『守り手様』じゃからな」
たとえ器を得ようと、その肩書が消えることなどありえぬことよ――と。
母の瞳によく似た紫色の髪を揺らしながら、守り手様――グリンノート家を影ながら見守り続けた大精霊は愛おしげな笑みをレイチェルへと向ける。二つの国と一人の精霊を巡る壮大な約定は、四百年以上もの時を超えて完全な形で果たされていた。
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